2007年02月27日

お茶を飲んで民族浄化

「大和民族が統治、日本は同質的な国」講演で文科相
 伊吹文部科学相は25日、長崎県長与町で開かれた自民党長与支部の大会で講演し、「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」と発言した。
 講演は「教育再生の現状と展望」と題して約40分行われた。約600人を前に「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」とも語り、多民族国家である米国との違いを強調。教育基本法など終戦直後に作られた法を見直す意義を指摘した。
 さらに、同法改正を説明する中で人権をバターに例え、「毎日バターばかり食べていればメタボリック症候群になる。人権は大切なものだが食べ過ぎれば日本社会は『人権メタボリック症候群』になる」と述べた。
 政治家の日本と民族を巡る発言では、1986年、中曽根首相(当時)が「日本は単一民族」と発言、アイヌ民族の抗議を受けた。
2007年2月26日読売新聞


これは問題発言だ。伊吹さんと「同質」なんて言われたらプライドに関わると思う人も多いのではないでしょうか。もちろん御本人は「俺と同質だと認めてやるからありがたく思え」というつもりかも知れませんが、世の中にはそこらへんについて伊吹さんと考えの違うひともいるでしょう。相変わらずバカ殿はこれを庇っていますが、今の内閣は金持ちの同級生の家に悪餓鬼が集まってシンナーとかレイプとか人殺しをしたりシャンデリアを壊したりドンペリを床に撒いたりしてるのにお坊ちゃまが何も言えないみたいで面白い。

ところで伊吹さんに限らず政治家の「失言」とか「問題発言」が続くわけですが、伊吹さんは自民党支部大会での講演、シャブ中さんのも仙台市での講演、柳澤さんのは松江市での自民県議の決起集会におけるこれまた講演、というわけで、全部「講演」でやらかしてます。こういう講演というのは、聴衆が自民党の人だけとか、ファンの人ばっかりとかなわけですから、話し手としては油断しちゃいます。何を言ってもその場ではウケるわけですから、言葉の選び方一つとっても杜撰になりがちです。その一方では、講演者としてはウケない恐怖というものはやっぱりありますから、聴衆の知的レベルに迎合して下らない事も言ってしまう。ところでどうしてウケないのが恐いのかというと、聴衆があらかじめ「同質化」されているわけですから、話し手と聴衆との「同質性」が崩壊するのが恐ろしいのではないか。話し手と聴衆との「同質性」が失われると、会場がシラーッとしたり、悪くすると質問攻め、聴衆による演台の乗っ取り、吊るし上げ、拷問、リンチ、などと言う事態も起こりかねません。

そこで伊吹さんは聴衆との「同質性」をアピールしようと思いました。こういう場合何らかの要素の「同質性」を云々するよりも、話し手と聴衆が共に属する上位集団の概念に依拠したほうが簡単です。それが「民族」だったんですね。なにしろ「民族」というのは何らかの「同質性」を持ってることになってますから、あなた方も「大和民族」、私も「大和民族」、同じですよ、ということになります。しかも「大和民族」を日本における支配的な「民族」であると指摘することによって、聴衆のエリート意識をくすぐることも出来ました。「民族」の「同質性」を「国家」の「同質性」に拡大することで、エリート意識は絶頂に達します。日本には明らかに「大和民族」以外の「民族」が存在するにもかかわらず、存在するからこそ、そいつらの「異質性」を踏みにじる「民族的快感」に酔いしれ、それを共有して大いに盛り上がります。

ところが残念なことに、「大和民族」の「同質性」は講演会場の壁を乗り越えることは出来ませんでした。外側からは「お前ら言ってることおかしい」という声が聞こえてきます。会場の外の「大和民族」の皆さんは全然「同質」でなかったのです。ここで問題発生。文化的「同質性」を保持していない会場の外の連中は、はたして会場内の人々と同じ「民族」を構成すると言えるのでしょうか。むしろ「日本は同質的な国である」という信念を共有する「大和民族」は伊吹さんと会場の聴衆の皆さんだけなのであって、外の連中は「大和民族」ではないのではないか。「大和民族」も随分スリム化しまして、メタボリックシンドロームも恐くない。僕としても伊吹さん達と「同質」呼ばわりをされるよりはそのほうがいいな。僕は「ヤマト民族」ってことにしよう。松本零士に怒られるかも知れませんが。「山と民族」とか「山と傾国」とか。「トマト民族」でも構わないけど。

ところでこの「民族」てもんは一体何か、こいつがよくわからない。まあ、言語とか宗教とか生活習慣とか何らかの要素を共有する集団であるらしい、しかもその「何らかの要素」というのが古いものであるか古いものに起源を持っていて、それがどのくらい古いかというとこれはもう全然わからないくらい古いということになっているようです。しかしどういう要素の共有が必須の条件なのか不明ですし、そのうちのいくつがあればいいのかもわからん。英語を話すキリスト教徒がみな同じ「民族」ということにはならないようだし。

そこへいくとさすがは文部科学大臣、定義の困難な「民族」概念のとてもわかりやすい説明を提示してくれました。「民族」は何よりもまず「統治」に関わる政治的な概念であるということ、「悠久の」、すなわち非歴史的な概念であるということ、「民族」はその内部に何らかの「同質性」を有するものとされており、「統治」にあたってはこの「同質性」をはた迷惑にも「民族」の外部にまで及ぼすとともに、「民族」内の諸集団や個人間に存在する差異を抑圧すること、特に異質なものの存在を許容する「人権」概念とは鋭く対立することなどがよく理解できます。

なにしろ「人権」が「内臓脂肪」と同じなんですからよく理解できるのはいいのですが、「日本は日本人がずっと治めてきた」と言っているのは極めて難解です。「日本人が治めてきた」から「日本」なんで、中国人が治めてたら中国だよ。アメリカ人が治めてても「日本」ですって?ナルホド。「ずっと」っていつからだかわかんないですが、「日本人」が支配下に置いた場所を「日本」って呼んだのではないか。ところで「日本人」と「大和民族」は同じなんですかね。ウチナンチュやアイヌは「日本人」じゃないわけだ。「トマト民族」もダメでしょうな。どうせ僕は「日本の国を統治」してないし。伊吹さんの講演会場にいなかった「大和民族」でない人、つまり「非国民」の中には僕と「同質」ではない人もたくさんいるでしょうから、各々で面白い名前の「民族」を立ち上げるのもよいでしょう。「1人1民族」でいいじゃないのさ。
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2007年02月25日

平成のイエスの方舟事件の二の舞か?

ちょうど1年くらい前に、いましたねえ、「ハーレム男」。「自称占い師」の渋谷博仁さんです。この「自称」は詐欺事件などで使う場合と同様、「詐称」に近い意味だと思いますが、渋谷さんは生活のために「占い師」と称して真実ならざるを語ったんだそうですが、それってつまり「占い師」そのものではないか。

中でも「モテる呪文」の件では、モテない僕を大いに失望させた渋谷さんなんですが、こないだの20日、久しぶりにTVに登場なさいました。とはいっても登場したのは御本人ではない。日テレの「NEWS ZERO」という番組の企画で、押川剛という人が、この人はおモテになるのかどうか存じませんが、この件を取材、というか介入しようとしていまして、それが放送されていたんですけど、渋谷さんについては、逮捕された当時の映像でわずかにそのご尊顔を拝することが出来ただけでした。

ついでにいえばこの押川さんも、別段渋谷さん自身に興味があって呪文を習いにいくとかそういうことではなかったようです。押川さんとしてはやはりというか何というか、いわゆる「ハーレム」を構成するところの女性、ご婦人方、お嬢さんたちのほうに俄然興味があったようです。そうだ俺たちは男だ、恋を忘れちゃ生きられぬ。あれ、違ったかな。

実は渋谷さん、裁判では集団生活を止めて女性達を実家に帰すように言われていたみたいなんですが、にもかかわらず(と、番組では強調するわけですが)現在でも渋谷さんちでは以前と変わらぬ共同生活が営まれておりまして、まあ皆さんご自分の意志でそのようにされるんであれば他人がとやかく言う筋合いのものでもないわけなんですが、番組ではとにかく裁判のときの「約束」が履行されていない、けしからんじゃないかということで、渋谷さんをおおいに批判しております。

もっともこの「約束」というものが、法的にどういう意味を持つものなのかよく分かんないんですが、とにかく現状としてこの「約束」を履行しないことが認められている以上、特に渋谷さんの行為を拘束する効力はないものだったのではないかと思われますが、山中湖村だか24時間テレビだかなんだか知りませんがウソとヤラセが大嫌いな日テレは、このような約束違反を目にすると黙っていられない性分なんであります。とにかく現状では渋谷さんについて非難出来る点はこれだけなんだから仕方ありません。

そればかりではなく、番組ではあたかも渋谷さんが生活を共にしている女性たちが、専ら脅迫と「催眠術」によって自己の意志に反してそうしているのだが、「マインドコントロール」によってさも自らの意志によってそのような生活形態を選択しているかに思っている、のではないか、という可能性がある、らしい、ようだ、いやもう全くその通りに違いない、なんだか分かりませんが、なんだか分からないような形でそのようなことを言いたがっていたものです。

まあ、「マインドコントロール」についてはTVなんかでは至って歯切れが悪いもんでして、これは勢力の弱い仮説に過ぎませんし、「マインドコントロールは悪であるとはっきりと言う」ことも出来ないのです。犯罪者の更生に使おうという人もいますし、なにもこれは新興宗教の専売特許ではなくて、宗教そのものから社会規範、家族の価値、愛国心というものも「マインドコントロール」仮説で説明可能かも知れません。そうなると権力が行なう「マインドコントロール」は正しくて渋谷さんのは悪い、だがしかしそれは何故か?ということで、渋谷さんを批判するという目的からすると、これでは最初から何も言ってないのと変わんないです。

日テレは渋谷さんを「イエスの方舟事件」のように盛り上げたいのかも知れません。それほどのキャラクターとも思えませんが。面構えはイイんですけど、「呪文」だの「宇宙生物」だのと、言ってることがボンクラでどうしようもありません。そこで主役を張るのが押川剛さんであります。

この人は元「トキワ警備」(現「トキワ精神保険事務所」)という会社の社長さん、ここの会社は精神障害者の家族の依頼によって、患者を病院に運ぶサービスをしていました。縛って強引に持っていくんじゃなくて、きちんと説得して納得の上で病院に行ってもらうということらしい。で、今では会社の業務は部下に譲って、自称「炎のジャーナリスト」をやっていらっしゃる。今回の日テレの仕事も、そのジャーナリスト活動の一環なわけです。それでちょっと拝見したところ、「トキワ警備」時代と「炎のジャーナリスト」時代の違いというのは、以前は精神障害者がいて、入院させなくちゃいけないのに本人は病院に行かないで引きこもっていて家族は困っている、そこで家族が「トキワ警備」に依頼をして病院に連れてってもらう、ということだったのですが、今では精神障害者ではないが押川さんが問題アリと見た人を病院に入れるために、押川さんのほうからその人の家族のところにお願いに行く、ということになっていました。180度の転換であります。よりアクティヴになった、と言っても良いでしょう。対象も精神障害者だけでなく、より広がって大いに活躍が期待出来ます。

押川さんは新しい事業の業務の対象について、自身のブログで述べておられます。

例えば、小さい娘を持つ両親が、一夫多妻≠フような生活を送る彼女たちを見て「あの女性たちを見習って大人になりなさい」と言うだろうか? あのようになってはいけない、と教えるのではないだろうか?
それを思うとき、人間は子どもたちの手本となるような生き方ができて初めて、本当の意味での成人となることができるのではないでしょうか。

彼女たちを「あのようになってはいけませんよ」といったシンボル的な存在として存続させることもできるでしょう。しかし、私にはそれが正しいことだとはどうしても思えないのです。


http://takeshi-oshikawa.seesaa.net/article/34470231.html

そういうわけで「マインドコントロール」下にあろうがなかろうが、本人が困っていようがいまいが、そんなことは関係ありません。「子どもたちの手本となるような生き方」が出来ない人はみんな病院に入れられちゃいます。「シンボル的な存在」として生きていくことも許されません。全員病院です。病院の嫌いな人は、現在「トキワ精神保険事務所」の代表を務めておられる今川摩理さんのブログでの御発言が参考になります。

家族内でトラブルが発生した際、原則、行政は民事不介入だからこそ、家族の価値・判断基準が社会規範から逸脱しないように、日ごろから社会とつながって生きていくことが大切です。

http://tokiwahoken.seesaa.net/article/26936653.html

社会規範から逸脱すると病院に収容ですが、「社会規範」がよくわからない、という人は押川さんの本がいっぱい出ているから読むと良いでしょう。たとえばオマンコに興味のある人には「なんで隠すの?」という本が2002年に出ています。その中で押川さんは「説得」ということについてこんな事を書いています。

私の説得のポイントは、どれだけ相手の身になって考えることができるか、という点にある。患者を家族や医者のように外からの視点で見つめるのではなく、患者本人の視点から物事を見つめ直していくわけだ。 …100パーセント、患者のことだけを大事にして考えていくと、やがて自分が患者と同化していくような感覚に包まれる。その人の感じ方や考え方が自分でも自然にできるようになってくるのだ。 
これは、ある意味でセックスと似ているとことがある。 …互いに相手のことを自分のことのように感じられるようになったときこそ、大きな満足感がえられるものだ。人と人との関係の究極の形がセックスだとすれば、これはあらゆる人間関係の大原則といってもいいだろう。


いいかどうかは分かりませんが、「説得」と「セックス」を掛けるあたりはベタです。今ではすっかり「外からの視点」どころか「社会の超自我」みたいな視点に立っている押川さんですが、これも180度の転換なのでしょうか。多分そうでもないでしょう。「相手の身になって考える」って言ったって、相手はキチガイですぜ。これはあくまで「説得」の技術的なところで、要はその場ではそこまで入り込むということでしょう。で、病院にぶち込むわけですが。というわけで押川さん、行きずりのセックスの巧い男と見た。モテたい人は渋谷さんの呪文をあてにするのは止めて、押川さんを参考にしてみてはいかがでしょう。愛情あふれるオマンコの後で女の子をソープに売り飛ばすのも苦になりません。
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2007年02月19日

警察から不開示扱の通達が漏洩!

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)製造に係る覚せい剤に異物混入の可能性が指摘される件について(通達)

最近における覚せい剤事犯の増加が国民の保健衛生及び治安上重大な問題を提起している現状にかんがみ、覚せい剤対策を強力に推進しつつあるところであるが、この10年間において主流を占めたいわゆる「北朝鮮ルート」についても、ルートそのものはほぼ潰滅状態に至らしめたとするものの、なお中国・香港等を経由して密輸される覚せい剤については、北朝鮮において製造されたとおぼしきものも含まれているものと考えられる。

さて、最近国内に出回る覚せい剤の中には、低純度のものも多くみられるが、北朝鮮において製造されたものの中には通常混入される不純物の他に、製造施設の老朽化等によって通常混入されることのない物質が誤って混入されていることがあるとされる。この物質は北朝鮮において食糧・水道水等に混入して国民に摂取させるのみならず、朝鮮労働党幹部または軍のエリート間においてもすすんで摂ることが義務づけられているものであるが、脳内におけるある種の化学反応によって「権力の頂点」への忠誠心を高める作用があると言われている。

ところが、わが国においてもこの物質の影響化において顕著にみられるが如き言動が報道等によって明らかにされつつあるところである。例えば以下のような某政党幹事長の発言などは、大いに注意すべきものであると言わざるを得ない。

「閣僚や官僚は首相への絶対的な忠誠と自己犠牲の精神が求められている」
「首相が入室した時に起立できない、私語を慎めない政治家は内閣にふさわしくない」
「自分が目立つことを最優先する政治家や、野党の追及が怖くて改革を進められない政治家は官邸を去らないといけない」

発言者は以前から捜査情報を愛人に漏洩するなど口の締まりの悪い人物ではあるが、それだけに当該物資の影響が発言に表れやすかったものと推定される。現にこの発言においては「権力の頂点にいる」とされる「首相」への「絶対的忠誠」と「自己犠牲」を要求しているが、ある種の物質の精神作用を抜きには考えられない発言であるといえよう。このような場合、常習者は日本では「首相」に忠誠を誓うものの、北朝鮮に行けば金正日を崇拝し、アメリカ人に会えばブッシュに尻尾を振るなど、人格の荒廃をきたした単なるお調子者として、哀れな末路を辿るのである。

殊に発言中、「起立」を要求していることは重大な症候として留意すべきである。これは当該物質の影響によってアカシジアに類似した症状を呈し、「静座不能」となるものであるが、近年公立学校等の式典等において布片に対して無意味に「起立」を求めることがあり、厳重な注意を要する事例である。無論、教職者中には上位の職制に強制されて不本意ながら行なっているものの少なくないと思われるが、「学習指導要領」を曲解するなどして積極的にこれを推進し、喜々として加担するなどの場合は、当該物質の摂取を疑ってみるのも必要かと思われる。

尚、これは公式には未確認の情報であり、且つ又、上記の兆候によって常習が疑われる場合においても、兆候そのものは個人の思想信条品性知能指数偏食多飲性的不能抑鬱状態精神障害腹痛便秘下痢歯痛陰部湿疹等によるものである可能性も無視すべきではない。この点特に厳重に留意しつつ、覚せい剤取締り等の適正化の徹底を期されたい。

上記命により通達する。
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2007年02月17日

メンテナンス・フリーの労働機械

本音で生きる漢、柳澤伯夫71歳は、「工場労働者というぁ、そのぉ、ベルトコンベヤーの仕事。労働時間だけを売り物です、というようなところですね」と宣ったそうであります。これがまた新たなる「失言」としてもてはやされようとしているわけですが、「失言居士」としては何としても一言なければ気が済まないのでしょうけれども、これって「失言」でも何でもないんですよ。この発言は「ホワイトカラー・エグゼンプション」を導入するにあたって前提となる認識を示したもんに過ぎません。もちろん柳澤さんは「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入におおいに積極的なんですから、その限りでは別段矛盾はない。

そもそも日本経団連がホワイトカラーの労働時間規制を撤廃することを提言するにあたっては、ブルーカラーの労働はそれこそベルトコンベヤでオートメーションだから、機械の稼働時間即ち生産量、労働の成果であるけれども、ホワイトカラーにおいては労働時間と成果が必ずしも比例しないから労働時間に対して賃金を支払うのはやだ、ということだったと思います。柳澤さんが言ってるのはこのことなんですが、ところで賃金てのはいつから「労働の成果」に対して支払うものだということになったのか。これって全く買い手側の都合でしかないわけで、大層粗雑な例えで言えば、ビデオを昨日1泊100円で借りて来たけど、眠くなって寝てしまったので半分しか観てない、今日ビデオは返すから映画の半分の分50円を返せ、という話です。もっとも経団連は買い手側なんだから、そっちの論理で好き勝手なことをほざくのは自由です。どうせ商人、自らの利益しか眼中にない人たちですから公共のことに関しては幼児並みの能力しかありません。そのかわり可哀想なので何を言っても良いことになっているようです。

ところが柳澤さんは東大を出ているのに幼児と同じことを言っています。人間年を取ると幼児に帰るなんて言いますが、「鉄仮面」と言われる硬骨漢が恍惚漢だとは思いもよりませんでした。そんなイキっぱなしの柳澤さんのために、厚生労働大臣が守らなくてはならない「労働基準法」の目的を読んで聞かせてあげましょう。

第1条 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。
2 この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。


労働基準法は「労働者が人たるに値する生活を営むため」に「最低」の「基準」を定めるものです。この法律は労働者のためにあるのであって、資本が労働を買いやすいようにするためのものではありません。奥谷さんに「いらない」とか言われるのも当然、むしろああいう手合いには嫌われてなんぼのもんです。この法律は憲法の27条に直接基づいています。

第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。


これは同25条の要請に応えるためですね。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


労基法の「人たるに値する生活」が、憲法では「健康で文化的な最低限度の生活」と言われています。国は「すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければなら」ないんだそうです。これは商人の金儲けの「向上及び増進」に優先します。なぜなら13条でこのようにうたわれている通りです。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


以上で幼稚園を終わりまちゅが、柳澤さんをはじめとしてバカ殿一派がこの憲法を軽視すること甚だしいものがあります。「改憲」なんぞを言うこと自体、内閣として基本がなっていません。やはり幼稚園からやり直ちでちゅが、例えば2005年に調子こいた自民党が発表した「新憲法草案」では、13条はこうなりまちゅ。

全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変えられています。「公共の福祉」も内容があるんだかないんだか、どうとでも使えるようでもあり使えないようでもある、困りものの文言ですが、多数の権利間の調整それ自体のことであるとも言えなくもない。ところが自民党は「国民の権利」に対抗して「公益」と「秩序」を守りたいんだそうです。「公益」ってのも問題がある、というか極めて曖昧な概念ですが。民法上「公益法人」の「公益」は「学術、技芸、慈善、祭祀、宗教その他」です。この順番でだんだんにアヤシクなってゆくのが可笑しいですが、自民党の言う「公益」はもっと広い意味でしょうね。「社会一般の利益」とか。まだよく分かりませんが。ところがこれは経団連に言わせれば簡単です。日本の経済の国際競争力の向上によって一般的な利益が図られる、という理屈です。なるほど「国際競争」という観点から言えば、児童に奴隷的労働を課しているところもありますから、そういうところまで労働の最低基準を引き下げるのが「公益」ということになります。「生命」はそれに反しない程度に尊重されますから、過労死くらいは当然です。動かなくなったらそこらに捨てておけば自然に分解される労働者は、地球にやさしい労働機械です。
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2007年02月15日

北朝鮮直輸入!!喜び組の絶妙技巧にバカ殿昇天!!!

重油95万トンも拉致進展が条件=経済制裁「解除の考えない」−安倍首相
 安倍晋三首相は14日午後の衆院予算委員会で、6カ国協議で合意した北朝鮮への重油支援について、初期段階措置の見返りの5万トンだけでなく、次の段階の95万トンも「拉致問題に進展が見られなければ出すわけにはいかない」と述べた。また、「進展したかどうかは北朝鮮ではなく、われわれが判断する」と強調した。
 首相はさらに、北朝鮮の貨客船「万景峰号」の入港禁止など日本が独自に実施している経済制裁に関し「現段階で解除する考えはない」と言明。拉致問題に対する北朝鮮の出方を見極めた上で、今後の対応を検討する考えを示した。民主党の原口一博氏の質問に答えた。
2007年2月14日 時事


「我々が判断する」ト、見栄を切ってはみたものの、実は質問に答えていません。原口さんが質問したのは、「何を持って拉致問題の進展とみなすのか」ということだったのですが、バカ殿はそれに対して、誰がそれを判断するのかを言っています。酎ハイを頼んだら厨芥が出てきたような事態ですが、それはともかく、判断するのは「われわれ」なんだそうです。これはバカ殿と残りの誰か、誰だか知りませんが、バカ殿の「われわれ」にはどうやら北朝鮮は入っていないようです。それは当然としても、何がどうなればいいのか教えてくれないんですから原口さんも入っていません。ということはつまり国会は入っていません。もちろん僕なんかも入っていません。もっともバカ殿の「われわれ」仲間に入るなんで御免被りますが。林真理子やアグネス・チャンなどの魑魅魍魎が入っている恐れがあります。この件についてはバカ殿やなんかその辺がテキトーに判断するということのようです。

なにしろ北朝鮮は「拉致問題は解決済み」という立場ですから、いつまでたっても何も「進展」しないことは大いに考えられる一方、北朝鮮側からすれば日本が「無根拠に」エネルギー支援をしないことをもって北朝鮮が合意内容を履行しない口実ともなりますので、北朝鮮としてはおおいにありがたいことであります。「支援」はあくまで「核問題」との取引ですから、それはそれとして日本としてはきちっとやることにして、北朝鮮を核廃棄まで追い詰める、ということも考えられないわけではないのですが、そうしないであくまで「拉致」にこだわる、しかもこの問題に関して両国の認識は現状では全く相反していて「協議」の入り口すらどうなるかわからん。こんなことだと結局は事態を打開するために、何らかのテキトーな「お印」程度のことで「進展した」ことにせざるを得なくなるのは目に見えています。現段階で「進展」の要件を口に出すことが出来ないのも道理です。

拉致問題については6ヵ国協議でまともに取り上げてもらえなかったとか、いろいろあるわけですが、この「問題」は実のところ取り上げるに取り上げられないようなシロモノです。たいだいその「問題」というのは何なのか、日本は誰が拉致されたのかもよく知りません。政府が認定したのが17人ですが、「救う会」であと7人くらい追加、「特定失踪者調査会」のリストでは「拉致の確率が高い」ものとして34名が上がっていますが、その他に200人分くらいの名簿がありますから、まだまだ増えるかもしれません。「問題」の範囲が確定されていなくて、どんどん拡大しそうな雰囲気なのがそもそも「問題」で、これでは「解決」のしようもありません。

これでは「拉致問題」ってのは要するに、日本でいなくなった人が何人かいて、そのうち何人かは北朝鮮に連れて行かれたような気がする、ということです。もちろん何人か拉致された可能性が高いのは否定出来ないのですが、まともに検討するにはまだまだ漠然としています。ましてや「救う会」や何かは日本の現政権の支持団体であり、バカ殿の都合によって17人が倍になったり十倍になったりすることを考慮に入れれば、「でも北朝鮮は、あの件は解決したって言ってるけど」なんて言われてしまいますが、「うん、でも、いるんだよ、何人かは」「そうだね、何かアヤシイよね。頑張んなよ、応援するからさ」くらいなもので、これで最大限に親切な態度ではあります。

こんな風に、現状では「拉致問題」はバカ殿「われわれ」の判断ひとつで千代に八千代に「解決」を引き延ばすことが可能です。そこでバカ殿はその長からぬ任期を愉快に過ごすことが出来るんですが、日本国内の「請負業者」なんかも含めて、「解決」したくない人が大勢いそうなのですから、いつまでたっても拉致があきません。いっそのことこちらも仕返しに向こうから「喜び組」を拉致ってしまってはどうか。日本でも女性は「機械」扱いですから、直ぐに慣れてしまうでしょうが。
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2007年02月10日

崇高で健全な信心する機械

出産を「生産性」と発言した菅氏
 女性を「産む機械」と例えた柳沢伯夫厚生労働相の辞任を求めて躍起になっている民主党だが、同党の菅直人代表代行が「(愛知や東京は)子どもを産む生産性が最も低い」と、女性を機械と結びつけたような発言をしていることが明らかになった。
 菅氏は、愛知県知事選が告示された1月18日に名古屋市東区で演説を行い、「愛知も東京も経済がいい。生産性が高いといわれるが、ある生産性は、一、二を争うぐらい低い。子どもを産む生産性が最も低い」(1月19日付「朝日」名古屋地方版)と述べたという。この発言は、子どもを産む崇高な行為を経済的な生産と同列視したもので、菅氏もまた、女性を“子どもを産む機械”のように認識していることをはしなくも露呈している。
 菅氏はその後、厚労相の件の発言を、鬼の首を取ったように取り上げ、政府・与党批判を繰り返しているが、菅氏にいったい批判する資格があるのか。
 この菅発言を知った同党幹部は、あわてて菅氏に「出生率を生産性と結びつけて使わないよう要請したという」(2月6日付「東京」)。柳沢氏の発言は当然、極めて不適切なものだが、身内の都合の悪い発言にはフタをして、他人ばかり攻撃する民主党のやり方こそ、不見識と言わざるを得ない。 (治)
2007年2月7日 公明新聞


公明新聞は菅氏の件の発言を、鬼の首を取ったように取り上げ、民主党批判をしていますが、「生」は餓鬼が生まれること、「産」は餓鬼を生むことを意味します。余談ですが「性」がオマンコを意味することは、中学生の心を持った人なら誰でも知っています。真っ昼間から恥ずかしい話ですが、日本では崇高な経済活動をオマンコと同列視した表現が極めて一般的に使われており、下品で好色な国民性をはしなくも露呈しています。

どういうわけだか知りませんが、生活などに必要な物品を作り出すこと、不必要な物品を作り出すことも含めてですが、「生産」と呼びます。どうして、こう、日本人は、何でもかんでもセックスがらみの言葉を使いたがるのか、実に困ったものですが、どうしようもありません。餓鬼を生むことを「出産」といい、生まれることを「出生」といいますが、「出」なんて字を使う、全く堪え難い程に直接的、即物的です。「出」てくるんですよ、赤ん坊が。どこからって、あなた、何を言うんだ。いや実際のところそう正面切って訊かれたんじゃねえ、困ってしまいますね。それはオマンコだよ。

しかしまあ、「性産生」とでも言っておけばいいんじゃないかという気もしないでもありません。「産生」とはDNAの塩基配列に基づいて蛋白を作り出すことですが、子づくりの基本です。「蛋白」じゃなくて「淡白」になっちゃうと難しいですが、キスをしたり太股に手をはわせるのが「子づくりの基本」だと思っている人もいるかも知れませんが、いくらそんなことをしても餓鬼は出てきやしません。大事なのはDNAだ。しかし、たしかに、餓鬼がでかくなって一人前の口をきくようになるのも「産生」の働きによるものであるとはいえ、新しく餓鬼をひとりひねり出すのであれば、当然「性」的行動が必要になるようです。そのうえで「産生」ということがあるわけです。このような過程全体を眺めて「性産生」と言ったって別に誰も困るわけでもないでしょう。

もちろん、公明新聞のいいたいことはデオキシリボ核酸とかそういうことではないのです。世間一般で言う「生産」、例えば人材派遣をして儲けるとかそういうことですが、それに比べると餓鬼を生産することは「崇高」なんだと言いたいらしいのです。実際にはチンポやマンコの「賞味期限切れ」には、世間は比較的寛容なのですが、それにも関わらず「崇高」なんだそうです。

相手が換われば「賞味期限」も延長することが間々ある、という点ではたしかに人智に計り難いものがるとはいっても、「崇高」はちょっと無理があります。ついうっかり避妊をしなかったらさあ大変、ということのどこがそんなに偉いのか、理解に苦しみます。むしろ「崇高」という用語は、わけも分からず闇雲に価値をおいてしまう、という働きがあります。宗教などに凝っている人には珍しくもないことですが、何かに異常に価値を置いてしまって、絶対化してしまうのが「崇高」です。

ここで公明新聞が言うのは、餓鬼の「生産」は、その他の「生産」とは比較にならない程の価値がある、したがって「同列視」してはならず、比較して選択するようなものではない、という価値観です。これは柳沢さんの「健全」と同様、この価値観に背馳する価値観を何か悪い、いわば「低劣な」ものとして抑圧するのに役立ちます。この点は自民党も同様でありまして、価値観の押しつけで出生率が上がるのだと本気で考えているのであれば脳が腐っているんだし、「少子化」を解決する必要を認めないのであれば、無駄に税金を使うのを止したほうがいいのでは。

少子化戦略会議が初会合 6月に中間報告
 少子化対策を検討する政府の「子どもと家族を応援する日本重点戦略検討会議」(議長・塩崎恭久官房長官)の初会合が9日、首相官邸で開かれ、(1)基本戦略(2)働き方の改革(3)地域・家庭の再生(4)現行の対策の点検・評価−の4分科会の設置を決めた。仕事と家庭の両立を重視した総合戦略を打ち出す方針で、6月に中間報告をまとめ、平成20年度の骨太方針に盛り込む。
 冒頭、安倍晋三首相は「少子化は国や社会の存立基盤にかかわる大きな問題だ。少子化の流れを止めることができていないことを深刻に受け止め、内閣の総力を挙げて取り組む」と強調した。
 戦略会議は関係閣僚と有識者らで構成。財務相と経済財政政策担当相も加わり、具体的な財源確保策も検討する。また、安倍首相の持論の「ワーク・ライフ・バランス」(仕事と家庭の調和)を労働法制見直しと連動しながら検討する。
 戦略会議は年内に最終報告をまとめる予定で、参院選後の本格的な税制改正論議とともに財源確保策を検討する。
2007年2月9日 Sankei Web


また新たに無駄な「会議」を開いているようですが、方向性は相変わらずです。「子どもと家族を応援する」前に個々人を応援する必要がありますし、生まれることだけが「崇高」で、あとは虫けら扱いなのも残念です。「働き方の改革」がホワイトカラー・エグゼンプションの導入であることはみなさんご存知です。あきれた話です。そしてまたもや「地域・家庭の再生」です。内閣が独仏の事例を研究したところによれば、不払い残業の合法化ではなくて積極的に労働時間を短縮する「働かせ方の改革」が必要であり、人を「地域」や「家庭」のくびきに繋ぐことではなくて「個人の再生」が有効であることが明らかなのですが、これらは自民党が一番やりたくなことなのですからどうにもなりません。バカ殿にできることは「騙しと脅し」くらいなものです。たしかに「奴隷として働く者以外は日本人として必要ない」、したがって「日本人は奴隷として生まれる者でなければいらない」、故に「奴隷が生まれてくるのでなければ、日本人など1人もいなくなったって構わない」。大変理路整然とした「見識」ある「少子化対策」ではあります。
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2007年02月08日

過労死までアテンション・プリーズ

あ〜ぃむふら〜あいぃ〜ん、ふらあいいん、っとうーぅゆー、っと、能勢慶子さんほど突出した才能を持つ歌い手も少ない昨今ですが、目を広く世間に向ければ、その種の才能には事欠きません。

「過労死は自己管理の問題」奥谷氏発言が波紋
 過労死するのは本人の自己管理の問題――。労働政策審議会(厚生労働相の諮問機関)の分科会委員、奥谷禮子氏(人材派遣会社社長)の週刊誌インタビューなどでの発言をめぐって、7日の衆院予算委員会で論議があった。民主党の川内博史議員が「あまりの暴言だ」と指摘。柳沢厚労相も「まったく私どもの考え方ではない」と防戦に追われた。
 奥谷氏は、一定条件を満たした会社員を労働時間規制から外す「ホワイトカラー・エグゼンプション」(WE)の積極推進論者。労働時間規制をなくせば過労死が増えるとの反対論に対し、経済誌「週刊東洋経済」1月13日号で、「経営者は、過労死するまで働けなんていいません。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います」などと反論。また「祝日もいっさいなくすべきだ」「労働基準監督署も不要」とした。労政審分科会でも「労働者を甘やかしすぎ」などと発言している。
 奥谷氏は朝日新聞の取材に対し、「発言の一部分だけをとらえた質問は遺憾だ。倒産しても、会社は社員を守ってくれない。早くから自律的な意識をもつべきで、労働者への激励のつもりで発言した」と話した。
2007年2月7日 asahi.com


「発言の一部分だけをとらえた質問は遺憾だ。」そいつはイカン。こちらは元本職の「アテンションプリーズ」の奥谷さん(本名米澤)のご要望に従って発言の全部をとらえる必要があります。たとえば、功を急ぐあまり無理を続ける労働者の身体を気遣って「早く帰りなさい」と言う上司は、単に「現法制」に従っているだけなのでしょうか?「働きたい人間が働くのを阻むのは」、最終的に誰にとって「マイナス」なんでしょうかね。

「今まで8時間かけていた仕事を4時間でこなして、残り4時間は勉強に充てようとか、ボランティアをやろうとか、介護や育児にまわすこともできる。」断言しますけど、そんなことはできません。何故なら仕事量を制限する決まりがないからです。「今まで8時間かけていた仕事を4時間でこなして、残り4時間は」同じ量の仕事をさせられることになります。「自己管理しつつ自分で能力開発をしていけないような人たちは、ハッキリ言って、それなりの処遇でしかない。格差社会といいますけれど、格差なんて当然出てきます。仕方がないでしょう。能力には差があるのだから。」もちろん、「ボランティアをやろうとか、介護や育児」をしなければならない人は「勉強に充てる」時間が少なくなりますので、邪魔っけな年寄りや餓鬼を抱えた連中は「それなりの処遇でしかない」。「結果平等ではなく機会平等へと社会を変えてきたのは私たちですよ。」お前らだったのか。余計なことをするもんだ。

「だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言いませんからね。」そんなこと「ハッキリ言って」しまっては大変です。なんでもいいたいことを喋り散らしている「経営者」は奥谷さんだけです。他の人は「(過労死するまで)働け」とは言うようですが。括弧内はサイレントです。各自で「忖度」すること。「自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、」普通の人は疲れていても、休める状態になるまで休めません。疲れたと言って突然休んだりしたら「それなりの処遇でしかない」。それっきり冷たくなってたりする人もいますが。

「24時間365日を自主的に判断して、まとめて働いたらまとめて休むというように、個別に決めていく社会に変わっていくべきだと思いますよ。」この人本当に商売したことあるの?派遣先を経済界の親しい人に世話してもらえるから楽チンですか。社外取締役にもなってるし。それはともかく、自分の仕事の都合だけで出てきたり休んだりするとでの言うのでしょうか。仕事には相手ってもんがあるでしょう。自体が急変して相手が平日に連絡を取ろうとしても、「一段落ついたし疲れたので今日は休みです」でいいわけ?良くないですね。だから休むことはできません。しかしそれだと死ぬので、何日かごとにみんなで一斉に休むことにしてはどうでしょうか。取り返しのつかない程疲労が蓄積しないうちに休むことにしておけば、長期にわたるプロジェクトでもコンスタントなコンディションを維持出来ます。「労働基準監督署も不要です。」本音ですな。「個別企業の労使が契約で決めていけばいいこと。」随分と人の足下を見た悪辣なご提案です。

「もちろん経営側も、代休は取らせるのが当然という風土に変えなければいけない。うちの会社はやっています。」この話が本当だとしても、奥谷さんの会社で何をやっているのかはこの際全然関係ないんですが。他の会社にもやらせないといけません。しかしその辺については「制度」ではなく「風土」で済ませています。僕としては韻を踏んでいるつもりです。奥谷さんは使用者にはあらゆる義務の解除を、労働者にはあらゆる保護の剥奪を主張しています。「倒産」しなくても「会社は社員を守ってくれない」のですが、法律で守られているのが気に入らない。労働者は使用者の恣意のままに酷使されるのでなければ野たれ死ぬしかない、というのが彼女の「労働者への激励」です。大変ありがたいのですが、たくさんの過労死が発生するのを見越して先回りして責任逃れをしているあたりをみると、気が小さいんだな。そういう人に限って「何でこんなくだらないことをいちいち議論しなければいけないのか」なんて強がってしまうのですが、こいういう発言が「労働政策審議会」の他の連中に対しても無礼なもんだということには気がつかない。彼女にどんな人脈があるか知りませんし、客室乗務員時代や瞬く間に経済界の重要人物に成り上がった30代のころにナニをやっていたのか知る由もないのですが、「そうやって甘やかすのはいかがなものか」。
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2007年02月07日

労働者殺しのライセンス

経済財政諮問会議の八代尚宏国際基督教大学教授は「法律で働き方のすべてを細かく規定するようなことはすべきではありませんし、そんなことはできません。これだけはきちんと守らなければいけないという最低基準を決めたうえで、多様な働き方が可能になるような新しいルールを作ろうというのが基本的な考え方です。」と言っていますが、「これだけはきちんと守らなければいけないという最低基準」というのは労働基準法のことで、八代さんの手を煩わさなくてももう既にあるんですが、知らないんでしょうか。開明化されてないな。ところで八代さんのチョンマゲ頭の中では「最低基準」と「新しいルール」との関係はどうなってるんですかね。言葉の上では「最低基準」と「新しいルール」は別のもので、「新しいルール」は「最低基準」に従属するように聞こえますけど。八代さんがやろうとしているのが現に存在する「最低基準」が全く守られていないので、じゃあ守られていない現状に合わせて「最低基準」の方を「新しく」しましょうなんてことでしたら、ちょっと話が違うんじゃないか。

どうも文明開化以前の連中にやらせておくと「最低基準」がどんどん「最低」になっていくんですが、今日はその「新しい最低基準」の案のうち、比較的ウケがよさそうな部分をわざわざ報道させていました。時間外手当の割増率を増やすんだそうですが、これがまたすごいことになってる。

残業代割増率、50%に引き上げ…1か月80時間超で
 政府・与党は6日、今国会での労働法制見直しの柱としている残業代割増率の引き上げに関して、残業時間が月80時間を超える場合の割増率を現行の25%から50%へ引き上げることを決めた。
 ただ、従業員300人未満の中小企業については、負担増をさけるため、割増率を3年間据え置き、その後、引き上げるかどうかを検討する。政府は近く、こうした内容を明記した労働基準法改正案を国会に提出する。
 安倍首相は6日、首相官邸で中川・自民党、斉藤・公明党の両政調会長や柳沢厚生労働相らと会談し、割増率の内容を決めた。
 現行制度では、残業時間の長さに関係なく、割増率は一律25%となっている。
 改正案では、残業時間に応じて割増率を3段階に分け、〈1〉残業時間が月45時間までならば割増率は25%とする〈2〉45〜80時間ならば25%以上とするよう努力する〈3〉月80時間を超えたら50%とする――と定める。政府・与党は割増率の引き上げが長時間労働の抑制につながるとしている。
 一方、管理職一歩手前の事務職らを1日8時間の労働時間規制から外す「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」制については、労働基準法改正案には盛り込まないことを正式決定した。厚労相の諮問機関の労働政策審議会は同制度について改めて協議する。
2007年2月7日 読売新聞


月45時間までならば現行通り25%、45時間から80時間ならば「25%以上とするよう努力する」。誰もそんな努力はしないので、実態としてはこれも現行通りの25%。月80時間超でやっと50%です。もちろん単純な不払いから巧妙な残業隠しまでのありとあらゆるサービス残業の手練手管を放置したままでの話です。なんのことはない、ちっとも増えないようになっています。

ところでこの「45時間」だの「80時間」だのという数字はどっから来てるかっていいますと、厚生労働省が2001年に発表した「脳・心臓疾患の認定基準の改正について」という、過労死の認定基準のなかで、「脳・心臓疾患の認定基準の概要」のうち、「4 認定要件の運用」の「(2)過重負荷について」のなかに次のように定められているのによります。

ウ 長期間の過重業務について
  (ア)疲労の蓄積の考え方
  恒常的な長時間労働等の負荷が長期間にわたって作用した場合には、「疲労の蓄積」が生じ、これが血管病変等をその自然経過を超えて著しく増悪させ、その結果、脳・心臓疾患を発症させることがある。このことから、発症との関連性において、業務の過重性を評価するに当たっては、発症時における疲労の蓄積がどの程度であったかという観点から判断することとする。
  (イ)評価期間
  発症前おおむね6か月間
  (ウ)過重負荷の有無の判断
  著しい疲労の蓄積をもたらす特に過重な業務に就労したと認められるか否かについては、業務量、業務内容、作業環境等を考慮し、同僚等にとっても特に過重な身体的、精神的負荷と認められるか否かという観点から、客観的かつ総合的に判断すること。具体的には、労働時間のほか前記イの(ウ)のb〜gまでに示した負荷要因について十分検討すること。その際、疲労の蓄積をもたらす最も重要な要因と考えられる労働時間に着目すると、その時間が長いほど、業務の過重性が増すところであり、具体的には、発症日を起点とした1か月単位の連続した期間をみて、

 [1] 発症前1か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね45時間を超える時間外労働が認められない場合は、業務と発症との関連性が弱いが、おおむね45時間を超えて時間外労働時間が長くなるほど、業務と発症との関連性が徐々に強まると評価できること
 [2] 発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できること


これは業務に起因する加重負荷によって発症した脳血管疾患(脳内出血、くも膜下出血、脳梗塞、高血圧性脳症)や虚血性心疾患等(心筋梗塞狭心症、狭心症、心停止、解離性大動脈瘤)の認定のための基準です。ということで「45時間」とか「80時間」という数字は、そんなに働いてると病気になったり死んだりする、危険極まる数字なわけです。特に「月80時間を超える」ことになりますと、婉曲語法で「業務と発症との関連性が強い」、奥谷さん流に「ハッキリ言って」ほぼ確実に病気になって死ぬ、「本当は恐い家庭の医学」で言えば「大変なことになりますよ」ということです。

本来の労働者保護の観点からしても、人が死ぬようなことは禁止しなければならないのですが、八代さんによれば「そんなことはできません。」せいぜい「抑制」するために割増率を引き上げるんだそうですが、50%で計算するのは残業時間が80時間1分目からです。毎月80時間きっかり残業していても25%です。月に80時間というと1日平均4時間弱になります。定時終業が17時だとすると毎日毎日21時まで。その程度に「抑制」するというのですから、まったくもってありがたい話ですが、実際のところこれは心臓にはかなり危険なレベルです。平気なのは晋三だけです。また逆に言えば、50%の割り増しさえ払えばそれ以上の残業をさせても良いわけです。50%程度の割増率に抑制効果があるのかどうかもはなはだ疑問であり、この「改正」は超長時間労働に法による認可を与えたのと同様であるとも言えるでしょう。便所虫は007と同じく「殺しのライセンス」をもらうことになるわけです。

そこで毎月きっかり80時間の残業をしたとすると、80時間までの時間外手当は25%の割増率でも罪になりませんから、平均時額の100時間分です。これを6ヶ月続けてめでたく心臓が止まったとすると、平均時額の600倍、これがあなたの生命の値段です。仮にあなたの年収が残業代を除いて400万であるとします。1年の労働時間は、1年が52週であることから週40時間かける52週で2080時間です。そこであなたの平均時額は1923円、600倍すると1,153,800円となります。これだけの金額と引き換えにあなたは死ぬことになります。

もちろん、平均時額の計算はそれほど単純ではなく、これよりも少なくなるはずです。年収400万のあなたなら、生命の値段はせいぜい100万といったところでしょうか。中古車くらいなら買えますかね。コイヌミじゃないけど人生色々、人の死に方にも色々ありますが、随分安い死に方です。奥さんに生命保険をかけてもらって殺してもらったほうがよっぽど値打ちがあるといえましょう。一度奥さんと相談してみてはいかがでしょうか。

ところで、前述の「脳・心臓疾患の認定基準の改正について」という文書があり、別段隠されてもいないのですから、長時間労働が病気や死をもたらすものであることは誰でも分かるはずです。そこでこのような状態を放置し、数ヶ月継続させた場合、使用者が未必の故意による傷害罪もしくは殺人罪に問われないのは不思議なことです。刑法第199条には「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」とされているところで、刑の下限が5年ですから執行猶予もつかないのですが、従業員を殺すような経営者などは、見栄や面子にこだわって壮大なロスを発生させる一方で従業員にしわ寄せしていたりする傾向がありますから、いなくなったほうがかえって会社の業績が良くなったりするものです。従業員も管理職も、役員だって株主だってみんなみんな喜ぶと思いますよ。刑務所も社長さんをお待ちしています。ろくに作業に従事出来ない受刑者が増加している厳しい環境の中ですが、刑務作業の効率化や刑務所作業製品の品質向上に、社長さんの優れた手腕が大いに期待されています。どうか胸を張って塀の中へおいで下さい。
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2007年02月06日

応援隊長卑語暴発

僕なんか言うまい書くまいとしても我知らずやれチンコだマンコだ肛内発射だとやらかすもんですから世間では猥語症のように思われていますが、柳沢さんも似たようなものかも知れません。これはもう神経症的な反復強迫に近いですね。キチガイ扱いじゃありませんよ。強い不安のあるときなどには誰にでも起こることです。思わず心にもないこと、それも自分の不利になるようなことを口走ってしまう。批判されるとますますそういうことを言ってしまうんです。気の毒なことです。もう政治家などというストレスの強すぎる仕事は辞めて、奥さんの版画の収入で悠々自適の生活に入られることを強くお奨め致します。

柳沢厚労相「子供2人が『健全』」でまた反発
 柳沢伯夫厚生労働相は6日の閣議後の記者会見で、今後の少子化対策について「若い人たちは結婚したい、子供を2人以上持ちたいという(希望を持つ)極めて健全な状況にいる。若者の健全な希望にフィットした政策を出していくことが非常に大事だ」と述べた。
 これに対し、野党各党は「子供が2人以上いない人は健全じゃないのか」(福島瑞穂社民党党首)などと一斉に反発。民主党の小沢一郎代表は山形市内の記者会見で「(女性を『産む機械』に例えた)前の発言と考え方、体質は変わっていない。安倍内閣そのものがそういう体質を持っているのではないか」と批判した。
 一方、自民党の片山虎之助参院幹事長は会見で「少子化阻止は大きな課題。子供は2人以上が望ましいというのはごく自然だ」と擁護した。
2007年2月6日 Sankei Web


もちろん、政界から引退すれば版画のほうも高値で売れるというわけにはいかないようですので、今のは冗談ですが、しかし柳沢さんという人は、こういうことを言ってはイケナイとか、こういうことを言うと批判されて大変だとか、そういうことが全然分からないらしいのですね。他人様を単なる手段として扱ったり、健全な人生とはどういうものであるかということを政府が決めたりしてはいけないことになっています。いけないんですよ。悪いことなんです。知ってました?知らなかったでしょう。柳沢さんは何も知らないから無知なオヤジの常として、女は道具だとか、やっぱり結婚して餓鬼の二人もいるのが普通だとか、たき火に当たりながらワンカップ片手に言うようなことを、言ってしまったわけだ。

こういう人を責めても仕方がないんですが、にも関わらずやはり批判されなくてはならないでしょうな。ご当人がどういうつもりで言ったのかは残念ながら関係ありません。人の生き方はどのようにあるのが「健全」であるとかないとかという話が政府から出てきてはまずいでしょう。こっちはそういう発言に馴らされるつもりは全然ないもんですから、こういう発言は片っ端から潰しといたほうが世の中のためです。偏った価値観でやられちゃかないません。福島さんや小沢さんがこの発言を批判しているのは正当なのであって、「言葉尻」の問題ではないでしょう。柳沢さんを擁護するのであれば、「バカなんだから見逃してやれ」くらいしか言いようがありません。その場合でもバカが厚生労働相の椅子に座っているのを容認するのはいかがなものか。

片山さんの「擁護」の仕方も問題があります。柳沢さんが「健全」と言ったところを「自然」と言い直しただけです。ところがこの二つの言葉は、物事を規範化するうえで同様の意味を持っています。餓鬼は二人も欲しくない人は「不健全」または「不自然」つまり「病的」であるということになります。したがって片山さんの発言は「安倍内閣そのものがそういう体質を持っているのではないか」という小沢さんの意見を裏付けるものとなってしまいました。片山さんと小沢さんがいつから仲間になったのか知りませんが、バカ殿内閣そのものは「そういう体質」を持っています。ついでに言えば自民党そのものが最初から「そういう体質」です。頭が悪くなったのはここ最近のことです。

自民党は第一に日本国憲法を改定するためのプロジェクトです。自民党の憲法調査会「憲法改正プロジェクトチーム」の2004年6月10日付「論点整理」においては、自民党の改憲の方向性として「憲法という国の基本法が国民の行為規範として機能し、国民の精神(ものの考え方)に与える影響についても考慮に入れながら、議論を続けていく必要があると考える」とされています。憲法は「国民の行為規範」なんだそうです。なかなかオリジナリティあふれる御説ですが、憲法制定権力は国民にありますから、自分で自分を縛るのは一人SM遊びのようで矛盾しているようです。そういうことをしていて死んでしまった人がいますが。そういえば国会での多数を良いことに行政府たる内閣が憲法を改正しようとするのもおかしな話なんですが、どっちからみても碌な憲法は出来そうにありません。もちろん自民党が欲しがっているのは、独立した近代国家にふさわしい憲法などではなく、奴隷が守るべき掟なんですが。まあ、自分が主人だと思ってる人と、自分は奴隷の頭として御主人様にお仕えするんだと思ってる人がいるわけで、なんとも間抜けな話です。
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2007年02月04日

不思議敬語で大喧嘩

最近は知りませんが、昔の観光バスのガイドさんは何ともいえないヘンテコリンな音調で喋っていたもので、一説によるとあれは地方出身者のナマリを押し隠すために考案されたものだといいます。独特の違和感が旅情をそそる、という気がしないでもありませんが、地方的および個人的な言語活動の偏差をなくそうとすると、また一つの奇怪な型よりが出来てしまうようです。こうして言葉というものはどんどん豊かになっていきます。手が付けられません。

同様の現象と思われるのが、サービス業で使われる特殊な敬語表現です。これは飲食店、しかも安価なファーストフード店舗やファミリーレストランに限られますが、あるいはコンビニエンスストアなど、大変に庶民的かつ身近で、顧客と従業員の社会階層が同じもしくは近接していて、しかも常連だからどうとか一見さんだからこうだとかいうように個々の顧客の識別を必要としていない業態に見られるようです。「マニュアル化された敬語」であるとも思われますが、マニュアル化するのであれば通常の敬語表現でマニュアルを作成すれば済むところ、とくに頭をひねって特殊な表現を編み出しているのには何らかの理由があると考えられます。

一つには、このような場所では生まれて初めて接客業に携わる人も少なくないわけで、そのような人の中には緊張のあまり敬語どころか口を開いて声を出すのもたいへん、という場合もあるでしょう。このような場合に、あえて異常な台詞めいた言葉を使わせることで、発話者自身と発話行為とが解離させられ、新米の従業員は状況への参与感を減殺されて気楽に喋れるようになるのかもしれません。いわば上っ面の、内容を伴わない「敬語」の最たるものですが、そのことが逆にコミュニケーションを円滑にします。もっともこのような会話で用が足りるのは、上記のような業態の特徴によるものでありますから、ちょっと話が込み入ってくるとまずいことになります。

そこでこの「マニュアル敬語」のもう一つの機能として、話が込み入らないように予防線を張っていることに気がつきます。それは過剰な敬語の使用によって、保留状態を維持しようとします。灰皿は灰皿そのものではなくて灰皿の「ほう」であり、灰皿たる方向性を持った何ものかなのです。世の中には色々な灰皿があります。灰皿を灰皿と言い切ってしまうと、顧客は自身が観念する灰皿を期待しますが、提供される灰皿はその期待通りではない可能性があります。顧客に具体的な期待を形成させないために、この「ほう」が存在するのです。

嘆かわしいことに、この傾向は料理そのものの提供において絶頂に達します。トンカツを注文すると、「トンカツになる」ものが出てくるのです。概ねそれはトンカツに見えます。外見上はトンカツそのものです。トンカツと見まごうばかりのトンカツ、味もだいたいにおいてトンカツであると思わせるレベルに達しています。少なくともビンボー人を欺くには十分なものです。しかし見る人が見ればこれはトンカツではないのかもしれません。いつ何時、トンカツについて深い知見を持った人がやってきて、「こんなのトンカツじゃないッ!」と喝破するかもしれません。そこでこのトンカツ状のものは、「トンカツになる」ものとして提供されます。これは「待っているとそのうちトンカツになる」ものではなくて、「本当はトンカツではないのかもしれないが、当店ではこれをトンカツということにしている」ものなのです。

トンカツになるものを喰い終わると、腹の中ではトンカツでないものになってしまいました。「コーヒーのほうをお持ちしましょうか」と聞いてくるのでお願いしますと言うと、案の定「コーヒーになるもの」が出てきますが、もう驚きません。灰皿のほうで煙草をもみ消したら、さっさとお金を払って出て行きましょう。このときも注意が必要です。トンカツとコーヒーで1230円。ここできっちり1230円を渡すと「1230円丁度からお預かり致します」と来ます。何を預かってるのかよくわからない。実はこれも工夫でして、1230円のところ1230円を受け取ったこと、お釣りはないことを保留しています。これは一見して1230円に見えるが、そうではないのかも知れない。お釣りがなくて済むように見えるが、分かったものではないのです。そこんとこの判断は従業員がするものではありません。誰がするかっていうと、レジがする。お預かり金額1230円を入力するとお釣りが0円と出る、ここで初めてお釣りがないことがわかって、預かったお金は全額がキャッシュトレーに収納されます。お釣りがある場合は「何円とレシートのお返しです」となりますが、お釣りがないもんだから「0円とレシートのお返しです」と言うべきところ、「0円と」は言うと変だから「レシートのお返しです」ということになります。0円相当の「スマイル」が返ってくることもないわけじゃないけど確定的ではありません。

こんな風に曖昧な、霧の中にぼやかされた夢のような世界が、身の回りの至る所にあるのですからこの世は天国ですが、その内情は至ってシビアなものです。あのような言い方は、発話の当事者から責任を免除しますが、顧客にしてみれば従業員の言うことは店舗側の言うことですから、店のほうが責任を回避しているということになります。なぜ責任を回避することになったか。思うに、これは何かと言いがかりをつけてお金をゆする人に対する防御措置でしょう。何にしても判然と言い切ることを避けて曖昧に表現することによって、言いがかりをつける隙間を見えないようにしようとしているのではないでしょうか。

三波春夫のお客様は神様かもしれませんが、中には悪魔のようなお客様もいらっしゃいます。このようなお客様が理不尽な言葉の暴力でお金を強奪しようとしても、あくまで顧客を立てなければならない店側としては、顧客の理不尽さを責めるわけにはいきません。むしろ言いがかりをつける隙を与えた店側が悪いのです。売り手側と買い手側の間には、買い手側の恣意の行使に基づいて擬似的な上下関係が生じており、この関係においては非は全て下位のものにあることになっているのです。上位者の恣意の理不尽さには、下位者が自衛する他ありません。この意味で、「マニュアル敬語」は例の「明日は雨が降る天気ではございません」と同じ働きをしています。

「敬語の役割とは」、と文化審議会の答申はいいます。

 人が言葉を用いて自らの意思や感情を人に伝える際に,単にその内容を表現するのではなく、相手や周囲の人と、自らとの人間関係・社会関係についての気持ちの在り方を表現するというものである。気持ちの在り方とは、例えば、立場や役割の違い、年齢や経験の違いなどに基づく「敬い」や「へりくだり」などの気持ちである。同時に、敬語は、言葉を用いるその場の状況についての人の気持ちを表現する言語表現としても、重要な役割を担っている。例えば、公的な場での改まった気持ちと、私的な場でのくつろいだ気持ちとを人は区別する。敬語はそうした気持ちを表現する役割も担う。
 このように敬語は、言葉を用いる人の、相手や周囲の人やその場の状況についての気持ちを表現する言語表現として、重要な役割を果たす。
 また、以上のことを別の方向から見直すと、敬語は,話し手あるいは書き手(以下、同じ意味を「話し手」で代表させる )がその場の人間関係や状況をどのようにとらえているかを表現するものであると言うこともできる。例えば 「鈴木さんがいらっしゃる」という尊敬語は「鈴木さん」を立てて述べる敬語であるが、この敬語を用いることによって話し手は、自らが「鈴木さん」を立てるべき人としてとらえていることを表現できる。また 「こちらです」という丁寧語は 「こっちだ」と同様の意味を相手に対して丁寧に述べる敬語であるが、この敬語を選ぶことによって、話し手は、相手を丁寧に述べるべき人として扱っていることを表現できる。
 このように敬語は,話し手が,相手や周囲の人と自らの間の人間関係をどのようにとらえているかを表現する働きも持つ。


もちろん 「立場や役割の違い、年齢や経験の違いなどに基づく「敬い」や「へりくだり」などの気持ち」や「公的な場での改まった気持ち」、誰が「立てるべき人」で誰が「丁寧に述べるべき人」であるかということは、個々人が勝手に決めることではありません。どんなに軽蔑すべき人間であっても目上の人には敬語を使うことに決まっています。敬語は話し手がそのような関係の中にいること、そして話し手がそのような関係を受容していることを表現しますが、正確に言えば敬語の話し手はそういう表現をせざるを得ない立場に置かれています。根底においてはこれは、天気予報が外れると殺されるような、極めて暴力的なものです。

したがって「マニュアル敬語」がヤクザの暴力への対応として作られたものであるとすれば、これは敬語の成り立ちとしては極めて正統なものです。戦後になって言い出された「相互尊重」だの「自己表現」というごまかしではなく、上からの暴力に晒されて磨き上げられた言語表現として、本当の意味で生きた敬語の生成です。しかしながら巷間よく指摘されるように、文法的には破格のものであることは間違いありません。3種類でも5種類でもいいのですが、敬語の種類から見れば、複数の矛盾する機能を負った言葉が平気で並べられているのも珍しいことではないのでした。これはこの言語表現の目的が、相手を立てることでもなければ、自分がへりくだることでもなく、闇雲に丁寧で美化された言葉を持って極力状況を曖昧にすること、何がなんだか分からなくすること、けむに撒くことを通じて、責任を回避すること、下位に位置することによるデメリットを減少することにあるからなんでしょう。上下関係を受容する振りをしながらそこから逃れようとするこの「敬語」は、したがって究極的には「敵意」の表現に他なりません。だからこれ聞くとイヤな気分になる人がいるのももっともなことですが、これはこれで「気持ちを表現」しているんだし、「人間関係をどのようにとらえているかを表現」しているんだから、いいのではないか。もっとも「慇懃無礼」という敵意の高等表現がありますけど、意外とバレます。やるなら喧嘩上等でどうぞ。
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2007年02月03日

法のコリーダ

<裁判員制度>65%が「参加する」 内閣府世論調査�
2007年2月1日 毎日新聞

裁判員に消極的78%
内閣府調査 34%は「義務でも嫌」
2007年2月1日 中日新聞


同じ調査なのに新聞によって言うことが違いますので、説明しよう(ヤッターマンか)。「裁判員制度に関する特別世論調査」は全国3000人の20歳以上を対象に2006年12月14日から24日まで行なわれ、有効回収数は1795人、59.8%でした。以下、質問と回答、括弧内は前回の調査結果とします。※印は、前回の調査にはあったが今回はなくなった、あるいは文言が変更された選択肢。

Q1 あなたは、「裁判員制度」が始まることをご存知ですか。

   知っている  80.7% (37.2%)
                (34.3%)※ある程度知っている   
   知っていない 19.3% (28.5%)


「ある程度知っている」という選択肢の除去が10%近い認知度の上昇にどの程度かかわっているのか分からないのですが、この選択肢があると、制度に関する「ご存知」がなんだか奥深いものに見えてきます。生半可な知識で「知っている」なんて言うと恥をかくのではないか。「ある程度知っている」は、裏読みしてしまえば「よく知らない」ということです。そこで気の小さい人は「知っていない」に引きずられる可能性があります。まあそんな奥床しいひとが10%もいるとは思えませんが。

「知っている」と答えた人に
SQ 裁判員制度の内容について、どのようなことをご存じですか。この中からいくつでもあげてください。

(ア) 裁判員は、裁判官と一緒になって、有罪・無罪の判断や刑の内容(重さ)を決める     
  68.2%
(イ) 裁判員が参加する裁判は、重大な刑事事件の裁判のみである               
  15.5%
(ウ) 多数決を行う場合、裁判官の一票と裁判員の一票は同じ重さである            
  30.3%
(エ) 裁判員となるために、法律の知識は不要である                     
  31.5%
(オ) 裁判員となるために必要な休みを取ることができる                   
  30.2%
(カ) 70歳以上の人は裁判員となることを辞退することができる               
  10.1%
(キ) 裁判員には日当や交通費が支払われる                         
  18.4%
(ク) 裁判員としての仕事を行った際に知ったことの中には、他人に話してはいけないことがある 
  50.7%
その他                                          
   0.3%
わからない                                       
  13.0%


そもそも裁判員が何をするものなのか知っている人が7割に見たないことにも驚かされますが、「知っている」と答えておきながら「わからない」という人が13%もいるのですから呆れます。「知っている」80.7%の内、13%は実は何も知りません。つまりQ1で「知っている」の人は本当は70.2%です。また、裁判員に選ばれた場合に何をすべきなのか認識している人は全体の55%、半分くらいです。ヤラセで席を埋めている場合ではないようです。日当が出ることを知っている人もいますが、ヤラセの集会ではないことを周知徹底することが必要でしょう。

Q2 裁判員は、20歳以上の国民のなかから、くじ等の方法で、無作為に選ばれ、裁判員に選ばれた場合、その役目を果たすことは義務とされています。あなたは、裁判員として、刑事裁判に参加したいと思いますか。この中から1つだけお答えください。

(ア) 参加したい
   5.6%   (4.4%)
(イ) 参加してもよい
  15.2%  (21.2%)
(ウ) あまり参加したくないが、義務であるなら参加せざるをえない
  44.5%  (34.9%)※あまり参加したくない
(エ) 義務であっても参加したくない
  33.6%  (35.1%)※参加したくない
わからない
   1.2%  (4.4%)


この項目の文言はかなり変更されていて、前回との単純な比較を許しません。あらかじめ「義務」であることを断った上で、特に(ウ)は、前回の「あまり参加したくない」が、「あまり参加したくないが、義務であるなら参加せざるを得ない」に変更されており、この部分を(ア)(イ)と共に「参加する」に参入してしまうことも出来るようになっています。回答側としても、「あまり参加したくない」という気持ちで選択しているのか、「 義務であるなら参加せざるを得ない」の方にウェイトを置いているのか、解釈が困難です。ここのところをどう取るかで、新聞の見出しも違ってくるわけです。(エ)も、それとなく「義務」であることを強調して(ウ)に誘導しようとする意図が伺えます。それが奏功したか、(ウ)は10%近く増加しています。しかし(ア)+(イ)の積極参加層はおよそ5%の減少です。「義務」の強調によって、かえって積極的に参加しようという意識が薄れたかもしれません。

Q3 あなたは、仮に、裁判員として刑事裁判に参加するとした場合、不安に感じる点は何ですか。この中からいくつでもあげてください。

(ア) 裁判の仕組みが分からない
  42.0%
(イ) 冷静に判断できるか自信がない
  44.5%
(ウ) 専門家である裁判官の前で自分の意見を発表することができるか自信がない
  40.5%
(エ) 自分達の判決で被告人の運命が決まるため責任を重く感じる
  64.5%
(オ) 被告人やその関係者の逆恨み等による身の安全性
  39.1%
(カ) 裁判参加による仕事に対する支障
  18.7% 
(キ) 裁判参加による養育や介護に対する支障
  10.3% 
(ク) 守秘義務を守り通せるか自信がない
  20.3%
(ケ) 特に不安を感じない
   3.7%
その他( )
   0.4%
わからない
   2.3%


一番多いのがなんと「自分達の判決で被告人の運命が決まるため責任を重く感じる」というものですが、これはむしろ当たり前のことで、「不安に感じる点」として選択肢に加える側の見識が疑われます。責任を重く感じれば、安易な死刑「容認」の世論も変わってくる可能性もあり得るでしょう。逆にあまり責任を感じない人が3分の1もいることの方が恐ろしい事態です。どういう連中なんだ。もっとも、Q1で「裁判員は、裁判官と一緒になって、有罪・無罪の判断や刑の内容(重さ)を決める」ことを知っている人が全体の半分くらいしかいなかったことを考えれば、無理もないことですが。ちなみに僕が「不安に感じる点」は評議の行なわれる場所は禁煙なのか。禁煙ではないとすると非喫煙者はどうするのか。禁煙である場合喫煙者は気の向いた時に喫煙所にいけるのか。どちらにとっても高度な精神的ストレスの下では大問題となり、「冷静に判断できるか自信がない 」ということになります。例えば殺人であれば、殺人現場や死体の状況もさることながら、犯行に至る被害者加害者間の深刻な葛藤状況など、大変刺激的で動揺させる案件にぶつかる可能性があります。55%の人は自分の冷静さに自信があるそうなのですが、はたして大丈夫なのでしょうか。

裁判で求刑意見述べる「被害者参加制度」導入…法制審
 法制審議会(法相の諮問機関)の刑事法部会は30日、犯罪被害者・遺族が刑事裁判で直接、被告や証人に質問し、検察官とは別に求刑の意見を述べる権利を認める「被害者参加制度」と、刑事裁判の判決後に同じ裁判官が被害者側の損害賠償請求も審理する「付帯私訴制度」を導入する要綱をまとめた。
 法制審は来月7日の総会を経て法相に答申、これを受けて政府は今国会に関連法案を提出する。
 被害者らが検察官や被告など刑事裁判の当事者に近い立場を得れば、従来の刑事裁判が大きく変わり、2年後に始まる裁判員制度への影響も予想される。
 被害者参加制度の対象になるのは、殺人、傷害など故意に人を死傷させた事件や、交通事故を含む業務上過失致死傷罪の事件など。被害者や遺族が「被害者参加人」として検察側の席に着く。弁護士に代理を依頼することもできる。
 公判で被害者・遺族は、〈1〉犯罪の事実関係などを被告に質問する〈2〉被告の情状に関する内容に限り、証人に尋問する〈3〉検察官の論告求刑後、事実関係や刑の重さについて独自に意見を述べる――ことなどが、権利として認められる。ただ、いずれも検察官を通じて裁判所に許可を求めるため、起訴事実から大きく外れる質問や意見は制限される。
 一方、付帯私訴制度の対象は、被害者参加制度の対象事件から過失事件を除いたもの。刑事裁判の有罪判決が言い渡された直後、同じ裁判官が引き続き担当し、刑事裁判で認定した事実や証拠を基に4回以内の審理で賠償額を決定する。
 決着がつかない場合や決定内容に不服が出た場合は通常の民事裁判に移し、刑事裁判の証拠が引き継がれる。被害者は民事訴訟を起こす必要がなく、証拠集めや立証の負担も軽減される。
 このほか、被害者による刑事裁判記録の閲覧・コピーの制限を原則としてなくし、性犯罪などは被害者の個人情報を法廷で伏せる制度も盛り込まれた。
2007年1月31日 読売新聞


冷静さに自信のない裁判員の前に被害者や遺族が出てくれば、裁判員の判断に大きな影響を及ぼすでしょう。被害者の応報感情に迎合する恐れがある、というのは当然ですが、なにも殺人事件だからといって加害者側が一方的かつ全面的に責められるべきであるとも限りません。殺人の動機のおよそ4割は「憤怒」によるものであり、2割程度が「怨恨」によるものです。ありがちに思われる「痴情」は3位であり、4.5%程度にしか過ぎませんが、どれをとっても被害者と加害者の間でのやり取りがあった末の出来事です。たまたま腕力に歩があって加害者となり、時の運によって被害者となり得ます。遺族などが「犯罪の事実関係などを被告に質問する」のも結構ですが、加害者の口から被害者がいかに酷い奴であったか、いかに執拗に加害者をいじめ苦しめたか、いかに不実淫奔な恋人であったかが語られる可能性もなきにしもあらずです。遺族は愛するものを失った悲しみに加えて、愛するものの知りたくもなかった素顔に直面させられる苦しみをも味わうことになります。もちろん、加害者の陳述の巧みさによっては、裁判員の同情を得て、量刑の大幅なダウンも期待出来ます。逆に被害者側においても、裁判員の不安定な判断力に影響を及ぼすための、いわば「演技」のようなものが求められるでしょう。法廷は劇場です。悲劇喜劇悪役性格俳優AV女優。正真正銘の生命を賭した競演は並の格闘技を凌ぐ、まさに闘牛と同様の興奮と狂乱です。オンステージシートはあなたのためにキープされています。楽しそうでしょう。少しは参加したくなりましたか?ビンボー人同士で裁きあう気になったかな?
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2007年02月02日

良いというまで死んではいけない。死ねと言ったらさっさとくたばれ。

労政審が労基法改正案要綱を了承 規制除外は与党内で議論
 厚生労働相の諮問機関、労働政策審議会分科会は2日、ホワイトカラー・エグゼンプション(労働時間の規制除外制度)導入を柱とした労働基準法改正案要綱を了承した。
 安倍晋三首相が既に今国会での法案提出見送りを表明したが、政府、与党として正式決定はしておらず、与党内での論議も終わっていない。このため厚労省は提出に向けた作業は進めている。
 労働者側が規制除外制度について、使用者側が残業代の割増率引き上げについてそれぞれ反対したことを明記した上で、要綱は「おおむね妥当」と了承された。
 1月30日に開かれた自民党の雇用・生活調査会(会長・川崎二郎前厚労相)では、規制除外制度をめぐり「方向性には賛成」との意見が続出したが「イメージが悪すぎる」と選挙を控えて提出への慎重論も出ていた。
 調査会は2日に結論を出す可能性もあったが、開催が見送られた。柳沢伯夫厚生労働相の女性を「産む機械」と例えた発言を踏まえ、4日の愛知県知事選、北九州市長選で世論の動向を探るとみられる。
 規制除外を見送る際、セットで議論されてきた残業代割増率引き上げについては、切り離して法案提出するとの意見が与党内で強まっているが、併せて見送るべきだとの声も出ている。
2007年2月2日 Sankei Web


全国の「産む機械」ならびに「仕込む機械」のみなさん今晩は。「ホワイトカラー・エグゼンプション」はまだまだ元気です。金持ちの友参詣新聞の読者の中には、奥谷禮子さんが最近どうしているのか心配で夜も眠れないので昼寝をしている人もいるでしょうが、この奥谷さんも参加し、非常に積極的に発言していた労働政策審議会労働条件分科会で、奥谷さんを人柱、違った、ホワイトカラー・エグゼンプションを柱にした「労働基準法改正要綱」が了承されたことを報じました。取ってて良かった参詣新聞。

さすがに参詣新聞は分かってらっしゃると思うのは、ホワイトカラー・エグゼンプションの導入について、「柳沢伯夫厚生労働相の女性を「産む機械」と例えた発言を踏まえ、4日の愛知県知事選、北九州市長選で世論の動向を探る狙いもある」という観測ですね。「産む機械」発言とホワイトカラー・エグゼンプションとが同根の問題であるということです。

バカ殿が柳沢さんを擁護するのももっともでありまして、考え方が全く同じなのですから擁護するのは当然で、代わりに謝るのも仕方のないことです。国家なり社会なりという「全体」の存在を前提にして「部分」としての個々の国民や下部組織の在り方を定義する限りそういうことになります。「全体」なんていうとちょっと言葉がキツいので、「公共」とか「公共の利益」などと言ってみることもあるようですが、意味は同じです。バカ殿にとっては「公共」放送は「公共」の都合の良い見解を叩き込むための手段でしかありません。同じ意味で、バカ殿語では「家族の絆や、生まれ育った地域への愛着、国に対する思い」が「損得を超える価値」であるとされています。「損得を超える価値」というのはヘンな表現ですが、要はお金も時間も自由も人権も生命すら犠牲にして国の為に尽くしなさい、ということです。つまりお前らが損しろ、というわけ。

バカ殿と柳沢さんが共有するのは、女性を出産機械と見ることができ、労働者を死ぬまでこき使うことが平気で、国民を戦場で殺すことを可能にする、そのようなメンタリティであり、それは多かれ少なかれ自民党の全てに共有されています。その改憲の方向性は、国民を「全体」の為に役に立つ部品として定義づけるものです。ついでに言えば、公明党も同じものを持っています。個々人が奉仕すべき対象がちょっと異なるだけで、構造は一緒です。公明党が柳沢さんの辞任を求めないのももっともなことです。

これは下位の部分的な集団の中で上位に位置する人たちの間でも全く同様に共有されています。例えば会社の役に立たない人間は死んでも構わない、役に立つ人間はさんざん活用して、役に立たなくなったらやはり死んでも構わないという経営者たちはハッキリ言って(これは奥谷さんの口癖らしいのですが)同類です。これは商人のわがままというよりは、各レヴェルで同じ原理が貫徹されていると言うべきでしょう。仄聞するところによると企業は国家社会に貢献しておるそうなので、過労死者は企業を通して国家に奉仕することになります。エリートは一握りで足りるんだそうですが、安価な労働力はたくさん必要です。自殺などしてはいけません。どうしても死にたい人は自民党に清き一票を。
posted by 珍風 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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