2007年12月31日

私は如何にして田舎暮らしを止めて放浪を愛するようになったか

恐怖の童貞小説「屍鬼」の舞台となる「童貞村」の人口は1300人とされており、これは村がほぼ自足あるいは孤立していることが可能な最低限であると考えられます。ちなみにフーリエのファランジュにおいては1620人という人数が考えられておりまして、これはかなりユニークな考え方に基づいておりますからあまり参考にならないのかも知れませんが、1300人というのはこれの丁度2割の不足に当たるのです。この不足によって村は一定の限度内で外部との交通を強いられるわけで、ひいては吸血鬼なぞが入り込む余地を残すことにもなったのでした。

さて、吸血鬼側のプランによると、相対的に孤立したこの村に入り込み、村人を無理やり仲間入りさせて、ついには吸血鬼だけの村を作ろうということでした。孤立した村で身を守ろうということのようです。そこで吸血鬼の親分たる「少女」は、全員が吸血鬼であるという、ちょっと他に類例を見ない高度な同質性を持った村落のボスとして、村の実力者に正に相応しい高台に居を構えるというわけです。この場合、ボスとしての権威の源泉は永年に渡り吸血鬼として生存してきたこと、生きるための知恵、といったことのようです。

これだと要するに農耕民において種まきの時季を知り、天候を占い、神様に相談して収量の増大を図る、というリーダーの機能とあんまり変わらないわけですが、しかしこの吸血鬼村の矛盾した性格は、吸血鬼が置かれた物質的な条件に由来します。彼らは彼らだけで孤立して生きることが全く不可能なのであり、生存のために一般ピーポーと接触し続けるべく運命づけられています。従って村は隠れることが出来ても孤立することも独立する事もできず、メンバーは常に外部との関わりの中で生きていくことを強いられます。人間だった頃は村内で外部を排除して暢気にやっていた村人たちは、吸血鬼となることによって外に向かって強引におっぴろげられるのです。

つまり吸血鬼村となることによって村は孤立性を喪失し、メンバーを保護する機能を失ってしまうことから、このプランはその前提を失ってしまうことになります。実際問題としてこのプランにはかなり無理があるのですが、吸血鬼のリーダーがこのようなプランを立てること自体、リーダーとしての資格を疑わせるに十分なものがあると言えるでしょう。

このプランは「少女」が、吸血鬼の分際で共同体への回帰を指向するという根本的な誤りから生じたものであり、当然にして失敗に終わることになりますが、この「失敗」は村そのものの消失と住民の移動を伴うものであり、結果として村人はやはり「外に向かって強引におっぴろげられる」ことになるのでした。吸血鬼になった人もそうでない人も、昔のそれなりにバランスの取れた世界を取り戻すことは不可能なのであって、どっちに転んでも結果は同様であったともいえますし、少なくとも村を切開することにおいて吸血鬼のプランは曲がりなりにも半分だけ成功したものと評することも出来そうです。

実際のところ人間達が「村を守る」ことと吸血鬼が「村を獲得する」こととは同じことです。どちらにしてもかなり「年寄り臭い」考え方には違いありませんが、物語はそのどちらも挫折させます。村は潰滅して住人は四散し、吸血鬼はボス以外のほとんど全員が死滅することになります。

そんな中で唯一挫折しない欲望は、例の坊主のそれなのでした。得をしたのは彼ひとりだけです。したがって「屍鬼」は、主人公の欲望が充足されるという意味でハッピーエンドを迎えているということができます。だいぶ人様に迷惑をかけたようですが。もちろん、家を出て、共同体を出る生き方こそ、「出家」が本来そうであったような生き方に他なりません。しかしながら彼は出家としての重要な戒律をいくつか破ることによってそうしています。戒律は「吸血鬼の村」にも似ているともいえなくもない寄生的な集団である僧団のものですが、彼はそこからも排除されているのです。そうして全く寄る辺のない身になって、「少女」を棺桶に詰め込んで逃走する「序章」の彼は、少しばかり若返ったようにも見えます。全くいい気なもんです。
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2007年12月29日

私は如何にして心配するのを止めてガソリンを愛するようになったか

「屍鬼」は最終的に「村を焼き払う」小説ですが、吸血鬼と村人との闘争のクライマックスで村が文字通り全焼するに至るのは、ひとりのキチガイ女が火を放ったのでした。この女性はそもそも話しの最初から異常な人物として登場し、事件の進行に伴ってその狂気は亢進します。この人は二児の母なんですが、常日頃から「外部からの侵襲」によって子供が奪われることを病的に恐怖していました。しかしこれは合理的な根拠に基づいて用心をしているというわけではないようです。

彼女によると村の南端を走る国道を通る自動車によって子供がひき殺される虞れがあるとのことですが、これは実際に危険があるというよりも、外部との交通がタブーとなっているということでしょう。だからといって彼女はタブーに近い巫女のような役割を果たすわけではありません。最初のうちはその卦があるようにも見えますが、それは放棄されたようです。彼女は吸血鬼の存在にいち早く気がつくなんてことは全然なくて、実際に家族が吸血鬼の襲撃を受けたときもおよそきちんとしたことは何一つやらない、ドジを踏む、馬鹿なことをしでかす、といった一連の異常行動を、専ら状況の隅っこの方で逞しくしていたと思ったら、いきなり火を放ったりするんですから油断が出来ません。

彼女の危惧は、したがって外部に起因するものとは言い難く、村と外部との境界付近に生活していることによって裏返って過激化した排他性の現れでしかありません。これが極端になると逆説的に村の壊滅をもたらすという辺りに、内部から崩壊してゆくメカニズムの一端を窺うことも出来るでしょう。

ちなみに「最初のうちはその卦があるようにも見え」たとかいったのは、彼女の餓鬼が車に引っ掛けられて病院に担ぎ込まれたときに、そこに居合わせた例の坊主を犯人かと「勘違いして」食って掛かる、というシーンが置かれていることを指します。これはまるでイカれたモンスターペアレントがわけのわからない難癖をつけているように見えるわけですが、彼女はここで災厄の「原因」を的確に指摘しているのです。

まあ、考えてみれば霊媒みたいな人は多かれ少なかれ「イッちゃってる」方がそれらしく見えるものですし、皆さんの身の回りにも「霊媒体質」を自称するバカ女の一人や二人には事欠きますまい。もっとも、そういう連中がきちんとやるべきこと(放火など)をやってくれることは、幸にして極めて稀なことですが、困っちゃうなデイトに誘われて。
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2007年12月27日

私は如何にして小説を書くのを止めて少女を愛するようになったか

小野不由美さんの長編小説「屍鬼」が藤崎竜さんの手によってマンガになったということでありまして、既に連載第1回分が発表されていますから読んだ人も多いと思います。原作は大変に有名な小説ですし、漫画家さんも人気のある人ですから、これは2008年にふさわしいちょっとしたブームになるかも知れないし、ならないかも知れない。

問題は、マンガを見て原作を読んでみようという気になった人です。新潮社は当然これを当て込んでいると思いますが、あれは読んでみると意外と大変なものです。登場人物が多い上に事件らしい事件が中々発生しないようになっておりまして、例えばマンガではいきなり清水恵という女の子が出てきますが、小説の方だとこの人が出て来るのが155頁(新潮文庫版による。以下同)です。それまでに、そりゃもう色んな人が出て来るんですが、ほとんど何も起こりません。人物の紹介と同時に舞台となる村の描写が行われてるんですね。そして事件らしい事件として年寄りの死体が三つ発見されるわけですが、ここまで来るのに小説では200頁以上が費やされているんですから、ライトノベルばっかり読んでる人は途中で投げ出すこと請け合いであります。

ちなみに「ライトノベル」について、僕は「活字の大きい小説」だと思っていますが、これは最近老眼の傾向が出てきたのでなんとなくそう思っているだけで、間違いかもしれません。一般に文庫本の活字は年を経るごとに大きくなっているとも思われます。「屍鬼」は文庫本で5巻に及びますが、文字組は39字×17行であり、つまり1頁に改行なく印刷すると663文字入るサイズですが、1970年あたりに刊行されたある文庫本だと43字×19行で817文字ですから、その頃に比べると1頁に印刷出来る字数が8割くらいに減っていることになります。すると4巻で済むものが5巻になり、売上げが700円程度余計に稼げるというわけですが、読者側としては頁をめくる動作の増加および本棚スペースの減少という負担が生じ、由々しい問題となります。

ところで「屍鬼」は、何よりも先ず「屍鬼」という小説が出来るまでの話しであります。つまり「屍鬼」という小説の中に作家が登場して「屍鬼」という小説内小説を書いているわけです。まあ、「作家」といっても副業であって、本職は村のお寺の副住職なんですが。「屍鬼」は「屍鬼」が書き始められるところから始まり、出版されるところで終わります。で、この小説内小説を執筆する過程で、作家の周辺で色々と参考になるような出来事が起きるわけで、それが「屍鬼」のストーリーになっているということなのですが、これじゃどっちがどっちだか分りませんな。

分らない人は本を読んでもらうことにして、などといつになく協力的ですが、今AMAZONを見たら、中古で第1巻と第2巻は1円からあります。第3巻は100円からで第4巻は198円、第5巻は234円が最低価格です。後の巻ほど市場に出回っていない、売れていない、つまり途中で投げ出した人が多いことを伺わせますが、全巻揃いで534円(送料別)ですから、定価の7分の1で済みます。

というお買い得情報はともかく、じゃあそんならその作家だか坊主だかが主人公なのかよ、と言われるとそうとも言い切れないようになっているんですが、上に述べた理由からして形式上は中心人物であると言って良いようです。そして内容的にもやっぱり中心人物ということでいいんじゃないかという気がしています。

「屍鬼」のストーリーは、ある村が吸血鬼に襲われて人間と吸血鬼との壮絶な闘争の果てに滅亡するというものです。しかしながらその村が襲われるきっかけとなったのは、その坊主が書いた随筆を吸血鬼の親分(少女の時に吸血鬼になったから少女の姿のままだけど登場人物中最年長)が読んだことでした。これは偶然かも知れませんがお話が進むに従って、彼は吸血鬼退治からリタイアし、吸血鬼による村の滅亡をやむを得ないものとして肯定し、ついには吸血鬼の仲間になってしまいます。その点についてはっきりした動機は語られないものの、これは彼が若い頃に自殺未遂をしていることと関連づけられて描写されています。ここにおいて自殺の延長が村を滅ぼすことなのか、中間集団への嫌悪がそれと分ち難く結びついている自らの存在の消去へと至るものなのか分りませんが、つまりこの坊主にとっては吸血鬼の襲来は願望の実現に他ならない、ということのようです。全くとんでもない坊さんです。

とはいうもののこれは単純な願望の実現などではなく、この坊主の願望すら村では既に動き始めていた滅亡過程の一つの現れであるようです。例えば「屍鬼」の中では人はなんぼでも死にますが、最初から最後まで子供が生まれてくるということがありません。最年少の登場人物が4、5歳くらいでしょうか、それを最後にして村では数年前から出生がないようです。それどころか誰一人としてオマンコをいたさない、というのもよく考えれば珍しい小説であります。坊主は独身だし、もうひとりの重要な人物として登場する医師の夫婦は別居中です。中高生の男女が出て来るのにそーゆーことしません。もっともこれは女の子の弟が一緒について回っているからですが、むしろこの弟は姉達がエッチなことをしないようにわざわざ書き加えられているかのようです。

ここで吸血鬼の物語においては吸血が性行為の代理になることを急いで思い出す必要がありますけど、それとは別にこの極端な性の不在には何か深い意味があるに違いない。ともあれ、既にそういう状態にあった村のことであれば、吸血鬼などは滅亡のほんのきっかけに過ぎないのです。村外からの転入者にも大した役割はありません。都会から引っ越してきた少年は死んだまま退場してしまいますし、その父親も、村の生活のミクロなきしみを半ば外部の視点から認識する役割しか与えられていないのです。余所者に出る幕はないのであって、村を滅ぼす力は内部から発生してきます。「屍鬼」がホラーのくせにちっとも恐くはなく、悲哀のようなものを感じさせるのは、この小説が恐ろしい力が他所から襲いかかってくる話しではないからなんでしょう。どうしてそういうことになるのか、ということは語られません。それはあたかも大陸内部から押されてきた氷が南極大陸の海岸で崩落するように、「自然に」崩壊するかのように見えるのです。
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2007年12月19日

マキノ星人東京に現わる

探偵作家にして医学博士兼患者であった小酒井不木はその「闘病術」において結核の治療費用についてこう述べています。

由来「肺病は金を食う」といわれ、ことさらに多額の療養費がなければ治癒せぬ如く思われてきたが、これは、
一、結核に対してはなんらの特効薬も無きことを知らず、上はドイツの何々会社製造にかかる新薬より、下はお稲荷さんのお水に至るまで、手当たり次第にこれを購って服用し、無駄な費用をかけるため、
二、肺病と診察されたら、直に入院しなければならぬと思ったり、転地療養をしなければ治癒せぬものと誤解して、多額な療養費を消費するため、
三、肺病はなんでも贅沢な食物を食べなければならぬと思い、徒に高価な食物を摂るため、
などの結核の療法に対する無知と、古来言いい慣された世俗の療養法を信じての結果である。


これは大正15年当時の話しですが、1943年にストレプトマイシンが発見されるまでは結核は不治の病とされ、実際に多くの人命を奪っていたものです。そこで患者としては命は惜しいわけで、そこにつけ込んで様々な「治療法」を紹介する書物が売られていました。

すなわち絆創膏療法、砂沈法、篦軽打法、懸垂法、マッサージ、水治療法、空気療法、日光浴、蒸気治療法、灸点療法、静座療法などというわけのわからないものが山ほどあったようです。また、民間療法としてマムシの黒焼き、イボタ虫、定番のスッポンの生き血、まさかの牛の生き血、何だかわからない榷の実、何故だかわからない桔梗の根、どういうわけか無花果、意味もヘチマもない糸瓜水から、果てはのみ取り粉を飲めとか、あろうことか石油を飲むと良い、と信じられていたんですからたまりません。その他に「独逸の新薬」、「特効薬」の類いが沢山ありまして、これが1ヶ月分の給料を叩いても足りないという値段で販売されていたりもしましたが、当時の患者さん達は溺れる者は藁をもつかむ気持ちでこれを買い求め、身ぐるみはがされていたのだといいます。

もっとも最近だって、アヤシゲな「何とか療法」は盛んに販売されていますし、「ナントカ水」の話しも頻繁に耳にします。まあさすがにターゲットは結核患者ではなくて癌、あるいは癌に不安のある人、もっと最近ではこれに「メタボリックシンドローム」が加わりましたけど、生命の不安と死の恐怖は他人の財布を叩かせるのに最も有効な手段であることは古今東西変わるところはないようです。

こういう「カモ」の良い見本が日本の防衛大臣をやっているんですから死の商人は今日も笑いが止まりません。

海自イージス艦、ミサイル迎撃実験成功

 海上自衛隊のイージス艦に搭載された迎撃ミサイル=SM−3の初めての発射実験が行われ、SM−3は訓練用の弾道ミサイルを撃墜、実験は成功しました。
 実験は日本時間の18日午前7時過ぎ、ハワイ沖で行われました。アメリカ軍が打ち上げた訓練用の中距離弾道ミサイルを、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」が数百キロ離れた海上で探知、SM−3を発射して高度百数十キロの大気圏外で標的を撃墜しました。
 北朝鮮の中距離弾道ミサイル「ノドン」を想定した模擬のミサイル発射から撃墜までにかかった時間は7分間でした。
 日本の弾道ミサイル防衛は、衛星や地上レーダーが弾道ミサイルの発射を探知すると、まず、SM−3が大気圏外で迎撃し、そこで撃墜できなかった場合は、今度は大気圏突入時を狙って地上に配備した地対空誘導弾=PAC−3が再び迎撃するという2段階のシステムです。
 政府は、2010年度までに「こんごう」のほか、3隻のイージス艦にSM−3を搭載、さらにPAC−3を全国16ヶ所で配備することにしていますが、そのためには巨額の費用が必要となります。

Q.費用対効果は?
 「抑止力がお金で測れるか。そして人命が救われるという事がお金で測れるか」(石破 茂 防衛相)

 政府は、他の国に向かう弾道ミサイルは今回搭載されたミサイルでは迎撃できないとの見解を示していますが、現在、日米で共同開発中の新型ミサイルではそれも可能になるとみられ、今後、集団的自衛権に関する議論を呼びそうです。

2007年12月18日 TBS


この人の頭の中はマキノ出版の雑誌の愛読者とほとんど変わらないようですが、時期が時期だけに何とも不用意な発言であります。こんな言い方をすれば軍事費は何にいくら使ってもオッケー、ということになりますから守屋さんもビックリです。もっともご本人は「ガツンと言ってやった」という顔をしていましたから、ひょっとして何か上手いことを言ったつもりでいるのかもしれませんが、要するに悪い目つきで誤摩化したということに変わりはありません。

費用対効果ということでいえば、ミサイルによる攻撃にかかるコストとミサイル防衛システムの開発維持にかかるコストの比較が問題です。ちなみに今回の実験では60億円(迎撃用ミサイル代金込)かかっています。そして配備計画全体では1兆円を超えるということですから、およそ200倍です。攻撃用ミサイル1基につき60億円掛かるわけではありませんが、仮にそうだとしてもシステムの初期費用が既にミサイル200基以上に相当します。

これに毎年多額の維持費がかかってくると思われますが、攻撃する側ではより少ない金額で迎撃しきれない数のミサイルを飛ばして防衛システムを破ることが可能なはずです。それを考えただけでも誤摩化したくなるのも無理はないようなもんですが、「集団的自衛権」が絡んでくるともっと大変です。日本が費用を負担して、効果を享受するのはアメリカです。そればかりか日本が払う費用はアメリカでは売上高になっています。だいたい中国や北朝鮮がミサイルで攻撃してくるってのも、どんなもんなんだか。

という疑いが濃厚な中、ついに「UFO」まで持ち出してきました。なるほど、「宇宙人」相手なら「グル」だとか言われないぞ、というつもりでしょう。もっとも宇宙人がアメリカ政府と極めて近いことは「ウィークリー・ワールド・ニュース」の読者の皆さんならとっくにご存知のはずですが。ちなみにWWNは今年の8月に休刊に追い込まれました。ブッシュ政権の圧力によるものと断定して良いでしょう。この事実は最近のNASAなどの動きと絡めてみると極めて重要な意味があるのかどうかは分ったものではありません。しかし奇特にして地球に来訪する知的生命体がいるのだとしたら、ミサイル防衛システムは彼らの安全な航行を脅かすおそれがあります。

日本の無関心が人類滅亡呼ぶ…あの矢追純一氏が警鐘

 政府が初めて公式に否定したUFO(未確認飛行物体)論争は、その後、町村信孝官房長官が「絶対にいる」と私見を述べて“内閣不一致”にまで発展した。だが、未知現象研究家の矢追純一氏(72)をはじめとする専門家はおおむね冷静だ。国に調査の専門機関がなければ確認しようがない−とのことだが、日本の無関心が人類滅亡という最悪の事態を招きかねないと警鐘を鳴らしている。
 矢追氏は、「政府にUFOに関して調査する専門機関がないため、政府は今まで調べたことがない、と説明しただけ」と冷ややかに受け止めた。ただ、UFOと真剣に向き合わない日本が人類を破滅に追い込むという可能性について、持論を展開する。
 「国がUFOについて把握していないのなら、当然、自衛隊はUFOに遭遇した『もしも』の事態に備えていない。仮に遭遇してミサイルを発射したら敵対行動とみなされ、向こうが束になって攻撃してきたら勝ち目はない。下手をすると人類は全滅。宇宙戦争に国境は関係ないのだから、日本は他国に迷惑をかけぬようきちんと備えるべきではないか」 米国ではNASA(アメリカ航空宇宙局)が、スペースシャトルの乗組員らに「もしもの事態に備えた教育をしている」というのが専門家の一致した見解らしい。
 国内でUFOを精力的に撮影しているUFO写真家、坂本廣司氏(61)は「アメリカからの外圧があった」と直感したという。
 「日本と宇宙人が手を結んだら、アメリカにとって最大の脅威となる。アメリカはこの事実を知っている。だから日本政府に事実を公開しないよう圧力をかけてきた、と私は見ている」
 UFO論争は今月10日、民主党の山根隆治参院議員が「米大統領選の候補者がUFOについて言及するなど、世界中で関心が高まっている」として、政府に質問主意書を提出したことが発端となった。
 米国では10月、民主党のクシニッチ大統領候補が「目撃した」と発言したほか、元アリゾナ州知事のシミント氏も1997年に目撃したと主張した。また、退役軍人らが国の調査再開を訴えるなど、UFOを巡る動きが急速に活発化している。
 政府は山根氏への答弁書で「存在は確認していない」としたが、UFO論争は永田町に意外な波紋を広げた。
 福田康夫首相は「私は、まだ確認していません」とかわしたが、町村官房長官は「個人的には、絶対いると思っている」と、政府見解とは異なる見解を示した。麻生太郎元外相も05年の参院総務委員会で、「お袋は『見た』といって、えらい興奮して帰ってきたことがあります」と答えたことがある。
 山根氏は「今回の答弁書は、40年も前に『UFOは確認していない』とした米政府の見解を、そのまま日本政府の見解にしただけ。安全保障はすべて米国任せだ」と、対米追従に徹する政府の姿勢を批判している。
 矢追氏によると、最近、メキシコ上空にUFOの大編隊がやってきたという。「信じる、信じないの論議をしている場合ではない」と早急な対策を促してはいるのだが…。

 2007年12月19日 夕刊フジ  


矢追純一さんお元気のようで何よりです。僕の「個人的な」意見としては、周辺でミサイルなどが飛び交ったりぶつかったりしているような「治安の悪い」惑星には近づきたくない、という程度には「知的」なつもりですが、町村官房長官の「絶対」的な見解によれば「UFO」そのものが「いる」とか「いない」もの、つまり「生命体」であるとされています。この点については意見の分かれるところだと思いますが、いずれにしても「UFO」は「何だかわからない飛んでいるもの」でしかありません。「UFOは確認していない」というのは同義反復なのです。確認されているのは、「専門家」にとって「UFO」は「破滅」をもたらす「脅威」であると考えられているということです。といっても今まで攻撃されたことはありませんから、何を証拠にそんなことを言うのかよくわかりませんが、多分そのうち他の「友好的な」宇宙人がやって来て、ヒトデを食べることを奨められたり、何か高いものを買わされたりするんですよ、きっと。
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2007年12月13日

村を焼き払うようなことは止めましょう

そうはいっても何の罪科もない者を罰するのはちょっと気が引ける、という人も多いようです。それなら、というわけで新しい犯罪類型が模索されています。例えば関東の中でもとりわけ言語が難解である、また他県の人間から県名を間違って発音されることが多いことで知られているある県では、自民党が「モラル条例」を作ろうとしています。

県議会:「通称使用やめます」 モラル条例案を委員会可決 /茨城

 「いばらきの快適な社会づくり基本条例」案を「モラル基本条例」案の通称で呼ぶことについて、12日の県議会総務企画委員会で、提案者の一人の鶴岡正彦氏(自民)は「モラルという言葉を個人の心の在り方のように過敏にとらえられるなど、誤解を招く恐れがあるので、この通称は使用しない」と述べた。モラル基本条例案に対する世間の敏感な受け止め方に反応した。
 鶴岡氏は「個人がどのような思想や良心を持っているかにかかわらず、誰もが快適に暮らすことができるための社会生活の基本的なルール、社会規範について考えていこうとするもの」と改めて説明した。一方、大内久美子氏(共産)から「本来、個人の責任で行われないといけないものが、なぜ今県議会に出されるのか」などの疑問も出たが、委員会は同案を賛成多数で可決した。【立上修】

2007年12月13日 毎日新聞


今日の報道では、本質をぼかすために「モラル条例」という通称を使用しない、ということです。使用しない、と言っても自民党が使用しないというだけですから、他の人は使用しても構いません。もっともこの条例が成立・施行された暁には通称使用は条例違反とみなされる可能性が濃厚ですが。

ちなみに鶴岡さんにとって「思想や良心」と「社会生活の基本的なルール、社会規範」とは全然関係がないものと思われているようです。鶴岡さんの「思想」や「良心」がどんな風になっているのか興味津々たるものがありますが、要するに何も考えていない、ということかも知れませんし、記者が言葉を聞き間違えている可能性も否定出来ません。茨城県は周りの連中から「いばらぎけん」などと呼ばれている一方で県民自身は「えばらきけん」と言うそうですから油断大敵です。だいたい「考えていこうとするもの」と言っておきながら条例案の第2条で列挙してあるんですから矛盾しているように見えます。やっぱあそこの言葉は難しいわ。

このような事態を打開するために、この条例案では特に県名を平仮名で表記しているのが目を引きます。平仮名で書いてあるんですから「いばらぎ」などと読み間違える人はいないはずです。内容とともに有無を言わせぬものがありますが、地元では「いばらき」と書いてあるものを「えばらき」と発音しますので、そういう人の口の両端に指を突っ込んで左右に引っ張るのが「モラル」というものです。

いばらきの快適な社会づくり基本条例(案)
 私たちは、豊かな自然、優れた文化、他に誇れる歴史と伝統を併せ持つ茨城県に生活している。先人から受け継いだこの快適な社会生活環境の中で、安全安心な生活を営むことは、私たちの願いである。この郷土いばらきを愛し、守り育て、これを後世に伝えていくことは、県民すべての責務である。
 しかしながら、近年、社会生活の場における規範意識の低下や欠如により、多くの県民が迷惑、不快と感じ、危険を覚える行動が増加し、平穏で快適な生活に支障が生じている。県民誰もが誇りに思える快適な郷土いばらきを構築するためには、私たち一人ひとりが率先して、いばらきの豊かな伝統と文化を尊重し、郷土を愛するとともに、道徳心や思いやり、公共の精神の大切さを自覚し、あらゆる場において社会生活の基本的なルールを遵守することが、きわめて重要である。
 ここに、県民誰もが快適な生活を享受できるいばらきの社会づくりをめざし、すべての者が協働して取り組むことを決意し、この条例を制定する。
(目的)
第1条 この条例は、県民誰もが快適な生活を享受できるいばらきの社会づくりについて、基本理念並びに県、県民及び事業者それぞれの責務を明らかにするとともに、その施策の基本となる事項を定めることにより、県民、事業者及び市町村の主体的な取り組みを促進し、もって現在及び将来の快適な県民生活の創造に寄与することを目的とする。
(基本理念)
第2条 快適な生活を享受できるいばらきの社会づくり(以下「快適社会づくり」という。)は、次に掲げる事項を基本理念(以下「基本理念」という。)として行われなければならない。
(1)他人への思いやり及び互いに譲り合う精神に満ちた社会が形成されること。
(2)歴史、伝統及び文化が尊重され、県民が誇りを持てる魅力ある郷土が形成されること。
(3)自然を大切にし、循環型社会の形成その他の環境の保全に取り組むこと。
(4)青少年の健全育成のための環境づくりに取り組むこと。
(5)犯罪、事故その他迷惑な行為の防止に努め、平穏で快適に暮らすことができる安全安心な県づくりに取り組むこと。
(県の責務)
第3条 県は、基本理念にのっとり、快適社会づくりに関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する。
2 県は、この条例の目的を達成するため、必要な関係条例の制定又は改正を行うとともに、これらを効果的に運用するものとする。
3 県は、快適社会づくりに関する施策について、県民、事業者及び市町村と相互に連携して取り組むよう努めるものとする。
(県民の責務)
第4条 県民は、基本理念にのっとり、主体的に快適社会づくりに努めなければならない。
2 県民は、県及び市町村が実施する快適社会づくりのための施策に協力するよう努めなければならない。
(事業者の責務)
第5条 事業者は、地域社会を構成する一員として、その社会的責任及び役割を認識し、基本理念にのっとり、快適社会づくりに努めなければならない。
2 事業者は、前項の責務について、従業員に対し周知徹底を図るとともに、県及び市町村が実施する快適社会づくりのための施策に協力するよう努めなければならない。
(基本方針)
第6条 知事は、快適社会づくりの総合的かつ計画的な施策の実施に関する基本的な方針(以下「基本方針」という。)を定めなければならない。
(快適な社会づくり推進会議)
第7条 県は、次に掲げる事項を調査審議するため、快適な社会づくり推進会議(以下「推進会議」という。)を設置する。
(1)基本方針の策定に関すること
(2)基本方針の実施の推進に関すること
(3)関係条例の制定又は改正に関すること
(4)前3号に掲げるもののほか、この条例の施行に関する重要な事項
第8条 推進会議は、会長及び委員25人以内で組織する。
2 会長は、知事をもって充てる。
3 委員は、次に掲げる者のうちから知事が委嘱し、又は任命する。
(1)県議会の議員
(2)市町村の長
(3)市町村議会の議長
(4)学識経験を有する者
(5)関係行政機関の職員
(6)前各号に掲げる者のほか、知事が必要と認める者
4 委員の任期は、2年とする。ただし、補欠委員の任期は、前任者の残任期間とする。5 委員は、再任されることができる。
6 前各項に定めるもののほか、推進会議の組織及び運営に関し必要な事項は、推進会議で定める。
(広報啓発)
第9条 県は、快適社会づくりに関する県民及び事業者の関心と理解を深めるために必要な広報啓発を行うものとする。
(県民等に対する支援)
第10条 県は、県民及び事業者が行う快適社会づくりに関する自発的な取組を促進するため、情報の提供その他必要な措置を講ずるものとする。
(市町村に対する支援等)
第11条 県は、市町村が行う快適社会づくりに関する施策の実施について、市町村に対し、必要な技術的な助言及び協力を行うものとする。
2 県は、県が実施する快適社会づくりの推進に関する施策について、市町村に対し、協力を求めることができる。
(委任)
第12条 この条例の施行に関し必要な事項は、知事が定める。
付則
 この条例は、平成20年4月1日から施行する。


「豊かな自然、優れた文化、他に誇れる歴史と伝統を併せ持つ茨城県」という点に疑問を持つ人もいるかもしれません。しかし何と言っても自分の住んでいるところのことですから、威張りたくなるのも仕方ありません。平素馬鹿にされることが多ければ尚更です。いずれにしてもこのくらいは大目に見て、むしろ微笑ましいものとして受け入れるのが大人の態度とかいうものです。

もっとも条例自体は大人げない態度を維持しておりまして、「この郷土いばらきを愛し、守り育て、これを後世に伝えていくことは、県民すべての責務である」などと言い切ってしまっています。かわいそうな「いばらき」県民はイキナリわけのわからない「責務」を負わされてしまいました。あんなところを「愛」さなければならないなんてひどい話しだ、などと言ってはいけません。そんなことを言うと、言われた方は依怙地になってしまいます。「呆れ返ってものが言えない」という顔つきをするだけにとどめて下さい。

「しかしながら」、「近年、社会生活の場における規範意識の低下や欠如により、多くの県民が迷惑、不快と感じ、危険を覚える行動が増加し、平穏で快適な生活に支障が生じている」んだそうです。「平穏で快適な生活に支障が生」じるのは「社会生活の場における規範意識の低下や欠如によ」るものなんだというわけですが、いかにももっともだと頷ける話しです。なんたって誰でも他の人から迷惑をこうむったことはよく憶えているものですから。もっとも自分が他の人に迷惑をかけている場合はそのこと自体に気がつきにくいものですし、仮に指弾されるようなことがあっても自分を正当化する理屈の一つや二つには事欠きません。そこで人々はお互いにお互いの「規範意識の低下や欠如」を嘆きあう、ということが「平穏で快適な生活」の重要な契機となっているんですが、ご当人達はそんなことになっているとはつゆ知らず、こんなデタラメに大きく頷いてしまうのでした。

そんなことはともかく、この条例が奇妙な点は第2条に列挙される「基本理念」ではありません。いちいちの点についてそれぞれ議論があることとは思いますが、「快適な生活を享受」するため、という根本のところはさして間違ったところを目指しているわけでもないんでしょうから、仮にそれはそれで良いということにして、なおかつテコヘンなのは第3条でしょう。なにしろ「県は、基本理念にのっとり、快適社会づくりに関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する」というのですから、「いばらき」県は今まで何をやっていたのか大変心配です。もちろん「快適」といっても誰にとって「快適」かということもありますが、今更特記しているところをみると「いばらき」の程度というものが計り知れます。

とはいってもやはり「快適社会」の内容、というものは気になるところです。第4条では県民は「快適社会づくり」に奉仕することを強要されています。「主体的に」「県及び市町村」に「協力しなければならない」のです。「主体的」というのはこの場合、「県及び市町村」に完全に合意することを指します。「服従」ではなくて「合意」です。「合意」を強制されるのですから「服従」のようなものですが、あくまで自ら進んでという態度が強制的に求められるということになります。

非常に難しい方言であることは間違いありませんが、鶴岡さんの大変分りやすい言い方によれば「個人の心の在り方」を条例で定めるということになります。したがってこの条例に反する「個人の心の在り方」は犯罪を構成します。これが現在模索されている「新しい犯罪類型」に他なりません。これは現在司法で行われている「反省」や「更生可能性」という名の下で「個人の心の在り方」によって死刑にしたりしなかったりという審判のあり方と全く同様のものであるといっていいでしょう。

ところが、前言を翻して申し訳ないのですが、これは別段「新しい犯罪類型」でも何でもありません。例えば刑法の第2編は色んな犯罪について定義してあるところですが、これの一番最初の第1章はその条文全体が削除されていますが、これは「皇室ニ對スル罪」でありまして、第73条などはこうなっておりました。

第73条 
天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス


これが「大逆罪」というやつでして、実際に天皇なんかを殺したり危害を加えた人はおろか「加ヘントシタル者」は死刑です。この「加ヘント」する行為は未遂はもちろん、予備行為や謀議、そしてその意志を抱くことも含まれます。実際問題として単にそういう考えを抱いていることを察知することは困難ですが、考えかたとして「個人の心の在り方」を犯罪として扱うということは既に過去において行われていたのでした。

昔はこんな風にして「個人の心の在り方」を画一的に強制していたものですが、「いばらき」の自民党はこういうことが「規範意識」だと思っていますから、現在「規範意識」が「低下」したり「欠如」したりしているのは当然のことです。しかしながら田舎の生活においては、ムラビトの「個人の心の在り方」が画一的であることを当たり前のように思っているもんです。ですから「モラル条例」のようなものも、「いばらき」のような「田舎」ではいとも易々と成立してしまいそうな気もしますが、世論の動向によるとその他の地方にも「田舎者」が沢山いるようですから分ったものではありません。田舎者の開き直りは始末に負えませんが、かく言う僕だって三代くらい遡ればどっかの田舎者ですし、考えてみれば色んな意味で日本は世界の「田舎者」であるのかもしれません。何しろ首都の首長があの調子ですし、第二の都市の首長候補があのザマです。もしそうだとすれば「モラル条例」が全国に出来てしまう可能性もありますし、そういえばつい1年くらい前に「教育基本法」とかいう、「モラル条例」に極めて類似した「田舎条例」が国の法律として決まってしまっていたのでした。もう日本は大きな「ムラ」なのかもしれませんし、これからだんだんそうなっていくのかもしれません。

ただし、日本がひとつの「ムラ」になってしまうということは、実をいうと大変に良い傾向である、と言えないこともありません。マチのもんはムラに何もしてくれませんが、ムラを滅ぼそう、ムラを焼き払おうという人は必ずムラの内部から出て来ることになっています。あと1000年もすれば「日本」は「邪馬台国」と同じくらいどこにあったのかよくわからんというようになっているでしょう。困ったもんですな。
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2007年12月12日

鈴香さんと肌が合って馬並み人でなし

どうもやはり相変わらず鈴香さんが人気ですね。しかし前に書いたやつは必ずしも鈴香さんが主役というわけではありませんでしたから、GOOGLEなんかでたどり着いた人は残念に思ったことと思いますので、今日は主役にします。生の声、に近いようなものです。

【鈴香被告 再び証言(8)】事件の核心つく女性裁判官 鈴香被告「橋にいたことも直後に忘れた」

 《被告人質問も大詰め。右陪席の女性裁判官は、鈴香被告が手を払ったため転落した「事故」だと主張する彩香ちゃん事件での不審点について、理詰めで質問を重ねていく》
 裁判官「鑑定人に対して、(彩香ちゃんを)手で払ったことも覚えていないと言わなかったか?」
 鈴香被告「違う」
 裁判官「払ったことは確か?」
 鈴香被告「はい」
 裁判官「落ちた直後に、助けようとか、見に行こうとかいう気持ちは起きなかったのか?」
 鈴香被告「そのときは尻もちをついて、何が何だか分からないような状態だった」
 《彩香ちゃん事件の核心部分。答えに納得しない裁判官は、さらに詰めていく》
 裁判官「その後に車に乗って家に帰っている。車に乗って帰るまでに、川を見に行こうとしなかった理由を説明できるか?」
 鈴香被告「できない。『なぜここにいるんだろう』としか思っていなかった」
 裁判官「車に乗るときには、『なぜここに』と思っていたのか?」
 鈴香被告「はい」
 裁判官「夜の真っ暗な大沢橋に、なぜ1人で来ているのか思い出せなかったのか?」
 鈴香被告「はい」
 裁判官「不思議に思わなかった?」
 鈴香被告「不思議には思ったが、早く帰って彩香に晩ごはんを食べさせなくちゃいけないという気持ちがあったので…」
 《事件当時の「記憶を失った」と主張している鈴香被告。だが、女性裁判官は「橋にいたことは覚えていたはずだ」という考えから、鈴香被告の不審な行動をさらに追及する》
 裁判官「探している間に、『橋で何をしているか分からない状態にあった』ことを(周囲に)言わなかったのか?」
 鈴香被告「自分1人で団地の中を探しているうちに、橋にいたのも忘れてしまって…後から思い出したので…」
 裁判官「橋にいたことは直後に覚えていたが、それも忘れてしまったのか?」
 鈴香被告「はい」

2007年12月12日 産経ニュース


ここらへんの流れはリアルです。「理詰め」で「追求」ということですが、殺人に慣れていない人が我が子を死なせるという状況ですから、「理詰め」で責めると矛盾をきたしたり、「不審な行動」をやらかしたりするのが当然なのでして、上手く論理的に説明出来たとしたらその方がオカシイのですね。

ただ、興味深いのは豪憲君のご両親の証言です。「せめてあの日、何があったのか。なぜ豪憲を殺さねばならなかったのか。今まで何を思っていたのか話して欲しかった」とおっしゃっていますが、お二人の証言がある種の示唆を与えているように思われます。

お母様は「長男と彩香ちゃんが同じ年の同じ月に生まれたので、(私が)育児休暇を取ったときに、被告人が彩香ちゃんを抱いて遊びに来て、子育ての話をしたことがある。そのときの立ち居振る舞いから、肌が合わないと感じた」と証言されています。なにも女同士で肌を合わせととはいいませんが、敵意はお母様の方から先に感じていたようです。その後も「同じヘルパー講習を受けていたが、鈴香被告が遅刻したとき、『前日の夜に眠れず、薬を飲んだら起きれなかった』」と、鈴香さんの方から話しかけたようですが、お母様としてはそんな睡眠薬なぞを常用しているというような話しをされるのが迷惑だったらしく、「親しくない私に話しかけてきた」としています。恐ろしいことです。女の人がこういう言い方をする時はかなり強い敵意の表れですから気をつけたいものです。

鈴香さんは子供を通して近所の人と接触を図って失敗したものと思われます。これが2人の子供の「殺害」の「動機」につながるものであるかどうかは分りませんが、「豪憲君殺害について、後悔や反省はしているが、彩香に比べて罪悪感はほとんど感じない。米山さんはなんで怒っているのかわからない。まだ(子供が)2人残っているではないか。今まで何の不幸もなく生きてきたのがうらやましい。私とは正反対だ」という平成19年10月21日付の日記の記述も、最後のところにポイントを置いて読めばそれほど理解不可能でもありません。ことの当否は別にして、鈴香さんが可成りの程度の不幸感を感じていたらしいことが伺われます。

こういう鈴香さんの感情には、豪憲君のご両親が感じた敵意も一役買っているようですが、その辺が理解出来ればご両親が求める「なぜ」もその近辺に見つかるのかもしれません。そうでなければ敵意に敵意でお返しをしてしまった鈴香さんに「罪悪感」などを求めても無駄なことでしょう。もっとも、多くの犯罪者が不幸であり、犯罪が不幸への逆襲であることがあるという事情をよく知っている検察は、であるからこそ被告人の「反省の不在」を指摘して量刑を重くしようとするわけです。

とはいうものの、一方では被告人がいくら「反省」を表しても、大巨神の如く「自分のために有利にするために」やってる「猿芝居」であると解釈して大激怒し続けることが可能ですし、他方では「反省」すれば同じことをやっても量刑が異なるという結果になればそれはそれでおかしいのではないかという議論もあることでしょう。

実は「反省」というのは裁判の過程ではなくて刑罰の過程において期待されているものでして、裁判の最中に反省してるとかしていないとか言うのは過程なき刑罰としての死刑を前提した考え方に他なりません。検察が自家中毒的な論告で人を死刑にしたがるのは、やはりしょっちゅう誰かを吊るす必要があるらしいのですが、被害者遺族も大いに犠牲となって協力しているところであります。鈴香さんのもそうですが、被告人が遺族宛に出して開封されずに検察の手に渡る「手紙」の存在って何なのか。被告人から来た文書類は検察に提出しなければならないことになっているんですかね。遺族が被告人の言葉に心を動かされてはマズイというわけでしょうか。

検察側からの質問に答える形で弁護士批判までしているご両親は模範的な遺族というべきでしょう。お父様と鈴香さんに「関係があった」という「デマ」は弁護士が流したんでしょうか、なんだかそんな風にも読み取れる極めて曖昧な証言ですが、橋下「弁護士」が今日ヒマだったら喜んでくれますかな。とはいえ被告人の家族にまで「謝罪」を要求するのは行き過ぎではないでしょうか。まあ、一部には「連座制」とか「保甲制度」とか「五人組」とか「隣組」なんかが好きな愉快な仲間もいますから、非常にマニアックな意見として一部ではウケるかもしれませんが、これも検察側が質問によって引き出しているわけですから、そのうち殺人犯の家族親戚も一緒に処刑するようになるのかもしれません。もっとも最近の裁判の傾向としては、ますます「反省」やら「人格」が審理の対象になってきています。ゆくゆくは刑事司法はもはや犯罪の発生を必要としなくなるに違いありません。「裁判員」がランダムに選ばれるんだったら「被告人」も同じようにランダムにしょっぴいても良いわけです。あとはあなたの運次第。
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2007年12月08日

自動処刑装置の御歳暮一覧

みなさんお歳暮の手配はお済みでしょうか。年末の大掃除の準備は進んでいますか。連日の宴会ご苦労様です。もうすぐクリスマスですね。プレゼントは何にしましょうか。おやおや、あなたは今年も「プレゼントはワ・タ・シ黒ハート」ですか。あなたそれ何年やってるんですか。「人間処刑台」こと「自動執行装置」鳩山邦夫さんは年末恒例の死刑執行で気前よく三体もゴロンとプレゼントしちゃってるんですよ。

執行された死刑囚3人の確定判決の認定事実要旨

 7日に刑を執行された死刑囚3人に対する確定判決の認定事実要旨は次の通り。
 【藤間静波死刑囚】
 藤間死刑囚は昭和57年、神奈川県藤沢市の女子高生=当時(16)=に交際を断られたことを逆恨みして自宅に押し入り、女子高生と妹=同(13)、母=同(45)=を次々に刺殺。犯行の手助けをした少年=同(19)=も兵庫県尼崎市で刺殺した。56年には金銭トラブルから神奈川県鎌倉市の男性=同(20)=を横浜市内で殺害した。
 2審途中の平成3年に控訴取り下げ書を提出。効力をめぐって公判が中断したが最高裁が無効と判断、7年後に審理が再開された。最高裁が16年6月、死刑の1、2審判決を支持し、上告を棄却した。
 【池本登死刑囚】
 池本死刑囚は昭和60年6月、徳島県日和佐町(当時)に住んでいた親類の男性=当時(46)=とその妻=同(54)=が自分の畑にゴミを捨てたと思い込み、狩猟用の散弾銃を持ち親類宅に押し掛け、夫婦を射殺。さらに以前から恨みを持っていた男性=同(71)=も近くの路上で射殺した。
 1審徳島地裁は無期懲役判決を言い渡したが、2審高松高裁は死刑を選択。最高裁も平成8年3月、死刑判決を支持し池本死刑囚の上告を退けた。
 【府川博樹死刑囚】
 府川死刑囚は同居中のホステスをクラブから辞めさせる資金を得ようと計画。平成11年4月19日夕、新聞勧誘で知り合った東京都江戸川区の女性=当時(65)=に借金の申し入れをしたが断られたため、女性と母親=同(91)=を刺殺、現金を見つけられず逃走した。
 東京地裁は求刑通り死刑判決を言い渡し、東京高裁は控訴棄却。本人が15年1月に最高裁への上告を取り下げ、死刑が確定した。

2007年12月7日 産経ニュース


ところで世の中には中国で覚醒剤を所持していたヤクザが中国の法律に基づいて死刑になるのは当然としながらもイランの女性同性愛者がイランの法律に基づいて死刑になるのは許せないという人もいます。どういうことになっているのかよくわかりませんが、その根拠はどうも「感性」のようです。とはいえイランで同性愛者が死刑になるのを許せないという「感性」はヤクザの死刑を中国の法律に基づいているから容認するという判断とは矛盾をきたします。何人も現地の法に抗弁することを許されないのであれば、中国の死刑も容認されなければなりますまい。しかしそうなのであればイラクの方も認めなければならない道理です。もっともイランの同性愛者は既にイスラム法の圏外にいて、イギリスが彼女をイランに送還するかどうかという問題だったのであり、イラン在住のその他の同性愛者にはあまり関係ない話しだったわけです。イラン国内の同性愛者は死刑になっても仕方がないというわけでしょう。「感性」は理性的判断に基づいて慎重に運用されています。

とはいうものの死刑存置派にとっては大多数の国民の「感性」が頼りであります。例えば名古屋の女性拉致殺害事件などは「感性」には強く訴求するところがあるようです。このような通り魔的な事件では被害者と加害者の間には面識がなく、被害者の事件との関わりは偶発的なものであり、別の誰かであってもよかったわけです。したがって加害者側においては自分の利得の追求が主要な動機とされ、他に被害者に対する怨恨、その怨恨を生じさせるに至った客観的事実などといった、情状を構成出来る要件がありません。

このような例を挙げることによって誰でもわりと気軽に「感性」的に死刑に賛成することが出来ます。もっともこのような事件は殺人の中でもいわば特殊な事例ではありまして、世の中そんなに都合の良い話しばかりではないのがツライところです。7日の三名様もそれぞれに一癖も二癖もあって、「良い」犯罪者とは言えないようです。それどころか内2人はどうやらキチガイです。

藤間静波さんは人格障害の例のように見えます。人格障害は治らないもんだと思われていて、そういう人による犯罪は「更生不能」ということでいかにも死刑が適当に思われがちです。しかしこういう人がやがてどうなるかというと、中年ごろになるとだいたいおとなしくなっているもののようです。「性格」は変わらないようですが、その行動は加齢と共に変化するようですから、「更生」は可能だと言っていいでしょう。どんな性格をしていてもその行動が「犯罪」の範疇に入らなければ法的に問題ありません。

ところが逮捕された藤間さんがオカシクなっちゃったのはまた別の問題かもしれません。彼は情状酌量を求めようという矢先にVサインをしてしまって死刑判決を受けたり、控訴を取り下げようとします。控訴の取り下げについては異常な精神状態によるものとして認められず、控訴審では死刑判決を支持していますが東京高裁の荒木友雄裁判長は拘禁精神病の可能性を指摘してます。その後上告が棄却されて刑が確定したのですが、最高裁第三小法廷の浜田邦夫裁判長は「法に定めた上告理由に当たらない」としました。というのは弁護側が被告の精神状態が悪化していることから原判決の破棄を主張したことに対したものですが、その時から藤間さんの精神状態がどうだったのか、明らかにされていません。悪化の一途をたどっているとも考えられますし、そもそもこれが拘禁精神病などではなく元来人格障害どころか立派な精神病であったのかも知れず、もしかすると彼の犯罪そのものも精神病との関係が疑われるところです。

この場合は刑法39条による刑の免除、もしくは減軽、裁判中にオカシクなった場合には刑事訴訟法314条の心神喪失者の公判停止に該当する可能性がありました。また、拘禁の影響であるにしてもこれが治癒していなければ国連の犯罪防止法刑事司法委員会による「死刑囚権利保障規定」において「妊娠している女子若しくは新生児の母又は精神病になった者に対して執行してはならない」とされていることに抵触します。もっとも死刑囚の状態ががこれに該当するかどうかは国民には分らないことになっていますから、この規定が遵守されていると考える根拠はありません。

池本登さんの例は妄想によるものであれば精神病であるし、妄想でないのであれば被害者側にいやがらせをした事実があることになります。どちらにしても多くの殺人同様、その場限りの憤怒によるものであり同様の重大な犯罪を犯す可能性が高いとは思えませんので、一審判決は無期懲役であったものです。ところが二審では高松高裁の村田晃裁判長は池本さんの過去における「粗暴な行動」を理由に死刑判決を出してしまいました。「粗暴」といってもショットガンの免許を取れる程度の「粗暴」ですから、死刑の判決理由としてはかなり「粗暴」ですし、これでは犯罪を裁くのではなくて人格を裁いているわけです。ちなみに散弾銃保持の許可や「粗暴な行動」、53歳にもなってまだ「粗暴」なことなどは、いずれも精神病の可能性を排除するものではありません。池本さんは3年前には再審請求を出していたはずですが、どうしたんでしょう。

そこへいくと府川博樹さんなどは、女に狂って犯罪に走る単なるバカのようにも思えます。そして実際にもどうも単なるバカのようで、人を殺しておきながら肝心のお金は見つからずに逃げています。しかも強盗ではなく、借金を断られてアタマに来てしまったのでした。この点で「女性の歓心を買い、独占するために生命さえもないがしろにする発想」とする一審の東京地裁木村烈裁判長の解釈は的を得ていません。断られて始めて「生命をないがしろに」し始めたものであり、「断られたら殺そう」という腹づもりもなかったようです。単なる逆上であり、東京高裁の高橋省吾裁判長は控えめに「計画的とはいえない」と評していますが、無計画の極みであるといえましょう。高橋さんは「動機は短絡的」とも言っています。判決理由の文脈からすると「計画的とはいえない」という部分が死刑を回避すべき要素であり、逆接される「動機は短絡的」が死刑にすべき理由のつもりでしょうが、同じことを違う面から言ってみたに過ぎません。恣意的な判決であるというべきでしょう。

昔は死刑判決を下すには相当の理由が必要とされていましたが、最近では死刑を回避する特別な事情が必要になってきているようです。戦後1949年をピークとして減少してきた死刑確定数は、ここ3〜4年で爆発的に増加しています。今年は今のところ23名の死刑確定が出ましたが、去年は20名、一昨年は11名、2004年は15名でした。それまではほぼ1桁、だいたい5〜6人で推移していたものです。今年の23名というのは、戦後の平均の倍に達します。現在確定死刑囚が110名もいて、何で早く執行しないんだと思う人もいるかもしれませんが、実はその半数以上がごく最近死刑が確定したばかりの人であり、そのまた半分は今年の話しなのです。

一方で死刑の執行は1990年から1992年の間事実上執行停止状態が続きましたが、1993年には7名、1994年2名ですが95年と96年は6名ですし、98年も6名ですから、今年の6名というのが特に多いというわけではありません。死刑執行も大事ですし、氏名や認定事実などを公表するのも当然とはいえ良いことに違いありませんが、判決は人が下すものであり、誰がどのような判断で死刑相当の判断を下したのかということも合わせて知る必要があるでしょう。これは鳩山さんにもお願いしたいところですが、マスゴミも事件が起こった時と死刑が執行された時ばかりではなく、刑の確定時にも、特にそれが死刑の場合であればそれなりに派手に扱ってもらいたいもんです。もちろん人殺しってのはオモシロいもんだよな、それが誰によるものであっても。でも人殺しにも「動機」というものがあるわけで、犯罪記事などを好んで読む人はこの「動機」にこだわるものです。だったら国家の「動機」も報道すればみんな喜んで読むと思うけどな。

しかしよく考えたら
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2007年12月06日

肥満は親孝行である

メタボ健診の控除見送りへ=08年度改正素案判明−自民税調

 2008年度税制改正要望事項に関する自民党税制調査会(津島雄二会長)の素案が4日、明らかになった。生活習慣病予防策として、40〜74歳を対象にメタボリック症候群(内臓脂肪症候群)を診断する特定健康診査などに掛かる自己負担分の医療費控除や、家庭の教育費負担を軽減する「教育費控除制度」の創設などは見送る方針を示した。同日午後の小委員会で議論した上で、今後の扱いを決める。

2007年12月4日 時事


「教育費控除」てのは教育費に使える金が沢山ある人はいいでしょうが、ビンボー人にはあまり関係のない話しでした。お金持ちは控除がなくたって教育に金かけるんだから、やっぱりあまり関係ありません。ちなみに教育を受ける機会の格差は社会的格差を再生産しますが、教育における格差を解消しても社会的格差はなくなりません。血縁や人脈といったもので格差は固定されますし、そもそも格差を経済活動のインセンティヴとしている資本主義では誰かが不幸にならなければイケナイことになっています。そこで「知足」ということが言われるわけですが、足なんか知っていてもどうなるものでもありません。庄司ゆうこさんの脚には1億円の保険がかかっているそうですが、足に税金をかけると歩けない人が増えます。

「メタボ控除」に至っては自己負担で特定検診を受ける対象者があまり多くないし、「メタボリックシンドローム」自体が相当あやふやなシロモノですから、いつ取りやめになるか分ったものではないばかりか、来年の4月とかいうのも延期になる可能性がないでもありません。そんなイイカゲンなことで税制を決めるのはたしかにちょっと考えものです。

メタボリック症候群:診断基準再検討の動き 内科学会など

 メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の診断基準を決めた日本内科学会など8学会が、基準再検討へ動き出したことが分かった。来年度から、この基準をベースに40〜74歳の全員を対象にした特定健診・保健指導制度が始まるが、基準や制度の妥当性が問われそうだ。
 日本内科学会(永井良三理事長)は10月、「メタボリックシンドロームの診断基準について」と題する文書を各学会に送付。男性85センチ以上、女性90センチ以上とした腹囲の基準などについて「問題点をご指摘いただき、再検討する機会を持ちたい」と訴えた。
 世界の人種別基準を作っている国際糖尿病連合は今年6月、日本人の基準を他のアジア人と同様に男性90センチ、女性80センチとすることを発表した。内科学会はこれを受け、「早急に関係学会の意見を取りまとめて見解を出す必要がある」と再検討を呼びかけたという。
 8学会は05年、心筋梗塞(こうそく)や脳卒中などの危険性が高い人を検出するため基準をまとめた。メタボは、危険因子となる脂質(コレステロール)異常や高血圧、高血糖の背景に内臓脂肪の蓄積があるとの考え方で、腹囲は内臓脂肪の量を反映するという。腹囲の基準に該当し、脂質、血圧、血糖のうち二つ以上が基準を上回るとメタボと診断する。
 8学会に加わったある学会の幹部は「基準は最善とはいえない。腹囲だけでなく他の検査数値も議論がある。国民の予防意識を高めた意味は大きいが、科学的な検討を加えることが必要だ」と話している。

2007年12月2日 毎日新聞


日本における「メタボリックシンドローム」の診断基準作成には日本動脈硬化学会、日本肥満学会、日本糖尿病学会、日本高血圧学会、日本循環器学会、日本内科学会、日本腎臓学会、日本血栓止血学会が関わっていますが、腹囲基準「男性85センチ以上、女性90センチ以上」については日本肥満学会によるものだということです。一方国際糖尿病連盟は昨年、日本人にもアジア人の基準値「男性90センチ以上、女性85センチ以上」を適用すべきなんじゃないかとしていましたが、今年はついに日本人のための基準として「男性90センチ以上、女性85センチ以上」を決定しました。

ご存知の通り世界中どの診断基準を見渡しても男性の基準値は女性のそれよりも上回っていまして、これが逆転しているのは日本だけです。もしかすると日本女性はスタイルが悪くて不細工なかわりに太っていても疾病リスクが低いという独特の体質を天から授かっているのかと思いましたが、IDFによるとそんなことはないようです。それだけでなく「他の検査数値も議論がある」そうですから、来年の春までに間に合うのかどうかわかりません。

そればかりか「メタボ」自体が疑問視されているところで、現に毎日新聞においても「メタボリックシンドローム」は「考え方」と説明されています。これは明らかに事実として認められているというわけではない単なる学説の一つにすぎない、ということを意味しています。腹囲についても内臓脂肪の量を反映する「という」という伝聞表現であり、もはや犯罪容疑者の供述程度にしか信用されていません。医学的知識の深まりの表れであると言うべきでしょう。

そんな「メタボ」にはもっと困った点があります。メタボリックシンドローム診断基準該当者が増加または減少することによって、健保組合などが負担する後期高齢者医療制度支援金が減少または増加することになっているのです。これはメタボリックシンドローム診断基準該当者の減少によって医療費が減少するという前提によって、その減少分を後期高齢者医療制度に回せるはずだということだと思われます。ところが診断基準該当者の減少が医療費の減少につながるものなのかどうかが怪しいわけです。最悪の場合診断基準該当者が減少しても医療費の減少にはつながらず、同時に後期高齢者医療制度支援金が減少することになる可能性があるのです。そうならないように、親の臑をかじっていた人は、これからは親に自分の腹をかじらせるのが良いようです。

しかしながら翻って考えてみれば、「男性85センチ」という診断基準そのものが後期高齢者医療制度の原資確保のためにわざと設定されているものなのかもしれません。この値は成人男性の腹囲の平均値ですから、大まかに言って半数が常にこの値を超えるはずですし、多数の男性が特に代謝系および循環器系の疾病に罹患していないこととあわせて考えると、大幅な減少はしないでしょう。健康な人を検査に引っ掛けることが大切です。

日本肥満学会の松沢佑次理事長は10月の19日に「基準値は、日本人の内臓脂肪のデータを基に肥満と診断されるウエストサイズを算出しており、データのない欧米とは設定方法が違う」んだから「当面数値を変える予定はない」と言っています。「代謝症候群」が「デブ病」になったのはこの人のおかげですが、一方では「腹囲の基準を超えたら病気、基準以下なら健康ということではない」と、まあ当然のことも言っています。しかし病気や健康とは関係なく「基準を超えたら」財政的な負担が発生するわけですから、そんな気楽なことも言っていられないというのも事実でしょう。松沢さんが強引に自分の守備範囲に引っ張り込んだ「メタボリックシンドローム」は、厚生労働省によって医学とは無関係な政策的ツールとして使われます。「国民の予防意識を高めた意味は大きい」と言っている人もいるようですが、様々な「健康」商法はすべて「国民の予防意識を高め」ています。「奇跡の水」なんかを飲んでいる人やマイナスイオン発生ドライヤーとか使っている人などはかなり「予防意識」が高いものと思われますので、「メタボリックシンドローム」と併せてご利用頂ければみんなウハウハウハウハ喜ぶよ。めっちゃめちゃ痩せるクスリもあるでよ。

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2007年12月04日

猛暑日に鈍感力で食品偽装をどんだけ大食いするネットカフェ難民王子に消えた年金は関係ねえ

流行語大賞に「ハニカミ王子」「どげんかせんといかん」

 今年の世相を反映した「2007ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞に、「(宮崎を)どげんかせんといかん」と「ハニカミ王子」が選ばれ、東京都内で3日、表彰式が行われた。
 大賞の東国原英夫宮崎県知事は、「方言が選ばれたのは地方からの悲鳴」とあいさつ。大賞以外でトップテン入りした「消えた年金」では、「受賞は恥ずかしい」と舛添厚労相も苦笑いだ。
 他には「大食い」「食品偽装」「そんなの関係ねぇ!」「鈍感力」「どんだけぇ〜」「ネットカフェ難民」「猛暑日」が選ばれたが、これらの言葉で“生き残る”のは、どんだけぇ〜?

2007年12月3日 産経ニュース


「民主主義」によって「徴兵制」っつうか「国民皆兵」を基礎付けようという議論はあるんですね。理念的には成る程そういうこともあるかもしれないというお話ですが、歴史的にはどんなもんなんだか分りません。徴兵制の敷かれている国や時代の方がそうでない国や時代よりより民主的であったのでしょうか。どっちにしろ、そういう話しは天皇制を廃止してからにしてもらいたいもんです。誰が天皇の為に死ぬかよ。それにしても宮崎県ではそのまんま東は86.7%の支持率があるそうですから、宮崎県民をどけんかせんといかん。

ハニカミ王子だかハンカチ王子だかなんだかもう忘れましたが、「なんとか王子」という言い方がちょっと流行ったのかもしれません。ハナカミ王子とか。なんでも「王子」を付ければご婦人方の人気者です。守屋さんも「これまでゴルフに一生懸命取り組んできてよかった」と言って奥さんの人気者です。

最高気温が35度以上の日のことを「猛暑日」と呼ぶことにしたのは気象庁で、埼玉県熊谷市直実商店会じゃありませんよ。こんなのがエントリーされてるあたりが「どんだけぇ〜」ですが、これはまあ、流行語だといっていいかも知れません。記事の「どんだけぇ〜」の用法は誤りです。しかしながら指摘する通り、自由国民社の「新語流行語大賞」ってのは、選定されると翌年には死語になる、と言われています。もっともそう思うように死語になってくれるかどうかわかりませんけど、「食品偽装」の一方で「大食い」、でも食品にまつわる様々な偽装を「食品偽装」という呼び方で一般化する言い方は一般には浸透していません。「大食い」が一般化したらエラいことですが、「大食い」は単に一般的な名詞であって、ギャル曽根がTVによく出てたかも知れませんが、特に「新語」でも「流行語」でもないんじゃないでしょうか。でもほとんど碌なもんを喰ってない「ネットカフェ難民」にとっては、喰うだけで金になるなんて夢のような話しです。ましてや生活保護を辞退させられて飢餓死する人もいたりして、僕としては逆に「おにぎりが食べたい」というのを流行語にしてしまいたいんですが、流行らそうと思って手始めに家で「おにぎりが食べたい」「おにぎりが食べたい」と言ってたら本当におにぎりが出てくるし。

「消えた年金」で授賞式に出て来た舛添は「こういう賞をいただくのは恥ずかしく、国民の皆様に申し訳ない」んだそうですが、「ネットカフェ難民」にも関係しているので恥ずかしさも二倍の快挙です。「おにぎりが食べたい」も入っていれば申し訳なさも三倍ですから、彼の人生としてはピークと言ってもいいでしょう。お詫びのしるしに頭を坊主にしないといけませんが、それは無理です。これからも最低賃金法を改正したと思ったら生活保護支給額を減らすんだそうですから、両方の制度で競うように減額していけば、「餓死」が流行って来年の大賞は舛添のものです。

おめでたいにも程がありますが、こんなときに大切なのがビンボー人の窮状に対する「鈍感力」です。これってコイヌミがバカ殿の支持率低下に「鈍感になれ」って言ったんです。ですから参院選で自民党が負けたのは渡辺淳一の責任ですが、責任には鈍感なのがコイヌミ、自由席権でグリーン車に座る鈍感さと移動するように言われると怒る敏感さの絶妙な使い分けが渡辺淳一です。ところでコイヌミって「鈍感力」読んだんですかね。コイヌミだけでなく誰にしても。多分これは「躁」とか「多幸」というのに近いようです。桂銀淑とかそういう「鈍感力」がつくクスリってのがあるわけで、お医者さんは手に入れやすいのかも知れません。リタとか。なんだかわかりませんが。

そうでなくても人間やめたくなる今日この頃、覚醒剤は追放、リタリンも追放されてSSRIとか、最近はSNRIを処方するようになるわけですが、その前にはアップジョンってのが流行ったな。あれもちょっと流行語になったかと思います。プロザックを個人輸入している人もいるかもしれませんが、市販薬でも漢方だか生薬だか抗鬱作用をうたったものが出て来ています。セントジョーンズワートは以前からサプリメントとして販売してます。実は煙草(ニコチン)も効くみたいです。カフェインもいいですけど、仕事が粗くなります。

憂鬱と不安は気分的にニュートラルな状態なので、アメリカみたいに無闇にアッパーな社会や、日本の会社のように大きな声で挨拶をしないといけないところでは、ギアを入れるのに何か必要ですよね。おクスリはヤクザか医者か、いずれにしても面倒な人の世話になんないといけない。煙草はすぐ買えて自分で量を加減出来るし当面不快な副作用もない。多分「禁煙」てのは製薬の陰謀に違いない。インポになるぞ、なんて相当悪質な脅しですが、「そんなの関係ねえ!」喫煙でインポになるんなら性関係によるゴタゴタや人殺しが大幅に減りそうなもんです。しかしそんな脅し文句が効く程度にはインポが多いってのは考えものです。これも鬱でしょうな。ちなみに新語では「ED」ですか。エドってなんですか。違いますか。そんなの関係ねえ!まあ、今のところは、ね。そろそろ齢だし、そのうち関係してしまいそうですが、それまでは「不適切な関係」を続けましょうか。
posted by 珍風 at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月01日

押川剛がK点越えて屋根越えてお山の大将自画自賛

宮崎知事、徴兵発言で釈明/今度は「徴農制」必要

宮崎県の東国原英夫知事は29日、徴兵制に賛意を示したとされる発言について「徴兵制を容認していない。戦争に直結するものでは全然ない」と弁明した。同時に、若者に一定期間、強制的に農業を体験させる「徴農制」などの仕組みが必要との考えを強調した。
東京都内で開かれた「道路整備の促進を求める全国大会」終了後に報道陣に答えた。
東国原知事は「徴兵制」発言について「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないかと言いたかった」と釈明。
「この国の道徳観の崩壊を心配しての発言と解釈してほしい」とした上で、知事は「例えば徴農制とかで一定期間、農業を体験するとか、介護、医療、災害復興の手伝いなどをある程度強制しないと今後の担い手不足、社会構造の変化に付いていけないと危惧している」と強調した。

2007年11月29日 四国新聞


なこと言ったって明らかに「徴兵制を容認」してるでしょ。「必要だと思ってる」んでしょうが。「徴兵制」が「戦争に直結」したら、それこそ「戦争」の方で迷惑するんですよ。「徴農制」ったって同じことで、「農」だろうが「兵」だろうが、要するに「徴」するわけだ。「徴」というのは強制的に取り立てることですけど、本人の意志に反することを暴力的に強制することが「規範」だと思っているわけです。

このことはそのまんま東本人の限界を露呈しています。そのまんま東によれば、人は強制されなければ局地的な関心を超えた公共的な関心を持ち得ないということのようです。したがって強制のない状態では人間は誰でも卑近で利己的な関心に基づいて行動しているということになります。そのまんま東をして強制的に県知事を務めさせているのは誰なのか、大変興味がわくところです。もし仮にそのまんま東が強制によらず自発的に県知事を務めているのだとすれば、それは利己的な動機によるものだということになります。

もしそうではないということであれば、そのまんま東は自分が他人とは違う立派な、格が違うステージにいるのだ、ということを自分で主張する、という、カリスマ的な地位を自ら要求していることになりますが、そのまんま東ではない僕の立場から見れば、県知事にでもなれば色んな女性とお近づきになれるよな、と考える方が納得がいきます。これは僕の欲求も少し、いや相当入っていることを否定はしませんが、そのまんま東の行動パタンから考えて納得がいく、ということです。だいたい僕はあんなんじゃないので、県知事なんかにならなくてもその辺に関してははまず満足のいく状態を保っていますし、悪かったね。

まあ、言い訳とういものはすればする程ドツボにはまるんだそうですが、覚醒剤なんかもやればやる程はまるんだそうです。というのも、押川剛さんを検索して当ブログにいらっしゃった方が何人かいらっしゃるわけですが、彼は昨日またもや「NEWS ZERO」にご出演あそばされていたのでした。なにか「本気汁」だか「本気塾」だかというものをつくったそうです。クスリとかはまってる人を「立ち直らせる」為の施設もしくは組織のようですが。で、昨日はそこに新たな覚醒剤常用者を収容しようというお話でした。

33歳の覚醒剤常用者がいるわけですが、警察に捕まったり精神病院に入れられたりという経緯を経ているようなのね。もちろん覚せい剤取締法というものがあるから警察のご厄介になったりすることもあるし、薬物常用の背景に精神障害があったりするのは珍しいことじゃない。けれどもこの人はどうも「本気塾」に入ることにした、ということなんですが、どうもこの人の母親が問題で、まあ、甘やかすわけですよね。「本気塾」はどうゆうわけかゲーム禁止なんだそうですが、ゲーム機を買い与えちゃうし、そのゲーム機を押川さんが買い取るんですが、そうすっと常用者の人は母親に抗議するわけ。すると母親はそのゲーム機を取り返そうとするんだよ。

話しにならないので入塾については一旦保留とするんだけど、常用者の人は頭を坊主にして何らかの決意のようなものを示したというわけで、それで母親は電車に乗って帰って行って、常用者の人は「本気塾」に入ることになるわけです。というストーリーを全部撮影して放送していたんですね。撮影しないと放送出来ませんから。放送しないんなら撮影しないんですが。それでこれは「子供がダメな親から自立する」というオハナシなわけです。

ところがこれってどっかで聞いたようなオハナシなんですよ。というのは例の渋谷さんとこの「ハーレム」が、そこの女のひとたちってのは問題のある家庭から逃れて来た人たちだったんじゃないか。つまり「本気塾」は渋谷さんの「ハーレム」のストーリーをなぞっているんです。要するに押川さんは渋谷さんの所から女の子を「奪還」することには失敗しましたが、その代わりに「ハーレム」のコンセプトを密かに持ち出して来ちゃったんですね。やっぱり「家庭」というものがイザというときには役に立たないことが多いもんだということに気がついたんでしょうか。やっぱり伊達に精神科の周辺でゴロついてるわけではないのかも知れません。

とはいうものの、やはり目的は「社会規範」である点が「ハーレム」とは異なる一方でそのまんま東と一致するところです。押川さんもやはり、最終的には「社会規範」を本人の意志に反した強制によって押し付けるしかないものと考えています。このように全ての人の意志に反するものとして「規範」を措定し、自分だけが「規範」の側に立つという位置を選んだ場合には、人は自らが特権的な地位を占めることを許します。これは他人から見れば愚かな独りよがりにしか見えませんが、当人にしてみればクスリなどでは味わえない程の陶酔をもたらすものなのかも知れません。なにしろ「「人のため」だけを考えて生きてきた男なのである。」と自分の部下に語らせるんですから、そこらへんの脳の壊れた薬物常用者も真っ青です。

こういう人はそのような「自己陶酔」を行動原理にしていますので、過去において往々にして「規範」からの著しい逸脱を経験しているのも不思議ではありません。かつてはワルの限りを尽くして来た彼らは、今では「正しさ」の皮をかぶることでより巧妙に快楽を引き出すのですが、これは「規範」の退廃した形態を巧妙に利用しているだけなのです。じゃあ「退廃」していない「規範」」ってのはどこにあるんだよ、と言われれば、当面そういうものはどこにも見当たりませんとしか言いようがなかったりしますが。
posted by 珍風 at 00:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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