2008年02月09日

「一般」に関する常識を一般公開

卒業式で起立・斉唱せず、再雇用拒否で都に賠償命令判決

 都立高校の卒業式などで国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったことを理由に、定年後の再雇用を拒否されたのは違法だとして、元教職員ら13人が、都に損害賠償を求めた訴訟の判決が7日、東京地裁であった。
 中西茂裁判長は「職務命令に従わなかっただけで再雇用しなかったのは、合理性や社会的相当性を著しく欠く」と述べ、原告1人あたり約210万円の賠償を都に命じた。一方、起立・斉唱を命じた校長の職務命令自体は合憲と判断した。
 判決によると、都教委は2003年10月、卒業式などの式典で国歌斉唱時に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを義務づけ、この職務命令に従わない教職員は服務上の責任を負うという通達を出した。原告らは、職務命令に従わなかったことから、定年後の嘱託員としての再雇用で不合格とされた。
 判決は、<1>過去には起立・斉唱しなかった教職員も採用されている<2>職務命令違反は1人を除き1回にとどまる<3>定年までの勤務成績を総合的に判断した形跡がない――などの理由から、「都は職務命令違反を過大視し過ぎており、裁量を逸脱、乱用している」と結論づけた。

2008年2月7日  読売新聞


都教委の悪逆非道なやり方に再考を迫るが如しですが、職務命令は合憲だそうです。やはり中西茂さんにも生活というものがあるようで、苦労の後がしのばれる合憲判断であります。裁判官とはいえ俸給生活者でありますから、僕も同じ仲間だと思います。中西さんは、仲間として涙なしには読めないような判決を書いていますが、実際に読むと笑ってしまうのが玉にキズです。

ア 一般に、自己の思想や良心に反するということを理由として、およそ外部行為を拒否する自由が保障されるとした場合には、社会が成り立ちがたいことは明らかであり、これを承認することはできない。
 もとより、人の思想や良心は外部行為と密接な関係を有するものであり、思想や良心の核心部分を直接否定するような外部行為を強制することは、その思想や良心の核心部分を直接否定することにほかならないから、憲法19条が保障する思想及び良心の自由の侵害が問題になるし、そうでない場合でも、思想や良心に対する事実上の影響を最小限にとどめるような配慮を欠き、必要性や合理性がないのに、思想や良心と抵触するような行為を強制するときは、憲法19条違反の問題が生じる余地があるといえるが、これらに該当しない場合には、外部行為が強制されたとしても、憲法19条違反とはならないと解される。
イ これを本件についてみると、原告らが、卒業式等の国歌斉唱時に「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱することはすべきでないとして、これを拒否することは、原告らにとっては、原告らが有する前記の歴史観ないし世界観又は信条に基づく行為であろうとはいえるが、本件職務命令は、卒業式等において国歌斉唱時に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを命じるものであって、原告らに対して、例えば、「日の丸」や「君が代」は国民主権、平等主義に反し天皇という特定個人または国家神道の象徴を賛美するものであるという考えは誤りである旨の発言を強制するなど、直接的に原告らの歴史観ないし世界観又は信条を否定する行為を命じるものではないし、また、卒業式等の儀式の場で行われる式典の進行上行われる出席者全員による起立及び斉唱であることから、前記のような歴史観ないし世界観又は信条と切り離して、不起立、不斉唱という行為には及ばないという選択をすることも可能であると考えられ、一般的には、卒業式等の国歌斉唱時に不起立行為に出ることが、原告らの歴史観ないし世界観又は信条と不可分に結びつくものということはできない。(原告らは、「国歌斉唱をしない」という信念を思想として有しているとも主張するようである。このような考えを持つこと自体が保障されることは明らかであるが、一般的には、このような考えが思想の核心部分とは解されない。)
ウ 加えて、本件職務命令が発出された当時、都立高等学校の卒業式等において、国旗である「日の丸」を壇上に掲揚したり、国家斉唱として「君が代」を斉唱することは広く実施され始めており、(前記第3、1(4)ないし(7))、また、全国の公立高等学校では、卒業式等における国旗掲揚や国歌斉唱は銃らから広く実施されているのであるから(乙10の1、12の1、16の1)、客観的にみて、卒業式等の国歌斉唱の際に「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱するという行為は、卒業式等の出席者にとって通常想定され、かつ、期待されるものということができ、一般的には、これを行う教職員等が特定の思想を有するということを外部に表明するような行為であるとすることは困難である。校長の職務命令に従ってこのような行為が行われる場合には、これを特定の思想を有することの表明であると評価することは一層困難であるといわざるを得ない。
 本件職務命令は、上記のように、高等学校における卒業式等の儀式的行事において全国的に広く行われていた国歌斉唱に際し、出席者である教職員等に国旗に向かって起立し、国歌の斉唱を命ずるものであって、原告らに対し、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。
エ 以上によれば、本件職務命令は、原告らの思想及び良心の核心部分を直接否定するものとは認められないが、本件職務命令が命じる国旗に向かって起立し国歌を斉唱することは、原告らの前記のような歴史観ないし世界観又は信条と緊張関係にあることは確かであり、一般的には、本件職務命令が原告らの歴史観ないし世界観又は信条自体を否定するものとはいえないにしても、原告ら自身は、本件職務命令が、原告らの歴史観ないし世界観又は信条自体を否定し、思想及び良心の核心部分を否定するものであると受け止め、国旗に向かって起立し国歌を斉唱することは、原告ら自身の思想及び良心に反するとして、不起立、不斉唱の行動をとったとも考えられる。そうだとすると、本件職務命令は、原告らの思想及び良心の自由との抵触が生じる余地がある。
 しかしながら、憲法15条2項は、「全て公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と定めており、地方公務員も、地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものである。このような地方公務員の地位の特殊性や職務の公共性にかんがみ、地方公務員法30条は、地方公務員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、かつ、職務の遂行に当たっては全力を挙げてこれに専念しなければならない旨規定し、同法32条は、地方公務員がその職務を遂行するに当たって、法令等に従い、かつ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定しているところ、原告らは、いずれも都立高等学校の教職員等であって、法令等や上司の職務上の命令に従わなければならない立場にあり、校長から学校行事である卒業式等に関して、それぞれ本件職務命令を受けたものである。そして、国旗・国家法は、日の丸を国旗とし、君が代を国歌とする旨明確に定め、また、学校教育法43条に基づき定められた高等学校学習指導要領は「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めているところ、卒業式等に参列した教職員等が、国歌斉唱時に国旗に向かって起立して、国歌を斉唱するということは、これらに規定の趣旨にかなうものである。他方、本件職務命令は卒業式等の儀式を行うに際して発出されたものであり、このような儀式においては、出席者に対して一律の行為を求めること自体には合理性があるといえるし、前記の通り、卒業式等における国旗掲揚や国歌斉唱は、全国的には従前から広く実施されていたものである。このような諸事情も総合すると、本件職務命令には、この目的及び内容において合理性、必要性が認められるというべきである。


「一般に、自己の思想や良心に反するということを理由として、およそ外部行為を拒否する自由が保障されるとした場合には、社会が成り立ちがたいことは明らか」であるとしていますが、中西さんのいう「一般に」がそうとうアヤシイもんであることはここでも「明らか」であります。実際には、このようにして全ての「命令」がそれに従う者がいないことによって無効となることによって社会が成り立たなくなることはありません。中西さんの頭では「社会」は「命令」と「服従」によって「成り立って」いるもんだと思っているようですが、いかにも「命令」によって「服従」させることに慣れた、もっともプリンスホテルは別ですが、裁判官としての職業的な習慣によってゆがめられた社会観であるといえるでしょう。

ほとんどの場合に人は「命令」どおりの行為をするものですが、これは何も「社会」が「命令」と「服従」によって「成り立って」いるからではありません。「服従」と解釈される行為は利害関心によるものであり、「命令」が、それに従うことによる利益よりも損害の方が大きい場合には「服従」を引き出すことができません。ここにいう「利害」が単に物質的なものに止まらないことは、本件事案自体が証明するところです。「命令」は被命者の権利の制限であって、被命者がこれを受け入れるかどうかは、自身の他の権利との比較検討によって決定されます。例えば生活のために自身の信条を裏切ることを決定した場合には「服従」とされる行為が表れます。逆に「社会が成り立ちがたい」程に不服従が多数を占めるならば、それは「命令」そのものがあまりにも不当であることの結果です。

例えば戦時における徴兵など、「服従」した場合に甚大な損害を受ける可能性が極めて高い「命令」が「発出」される場合においても、大多数の人は唯々諾々と戦場に赴くわけです。しかし、これを「拒否」した場合に本人及び家族等が被る損害が輪をかけて大きいこと、戦死の可能性の過小評価、生命の喪失という極大の損害に対して「靖国神社」などの利益を供与するシステムなどによってなんとかして「同意」をとりけるのでなければ「服従」させることは出来ません。本件の場合も中西さんは「職務命令」への「服従」によって被る「思想及び良心の自由」の侵害の過小評価に躍起になっています。

これは「思想及び良心の自由」を極めて限定的に解釈することによって行われます。それによると憲法で保障されているのは「思想及び良心」の「核心部分」だけなのです。どこが「核心部分」でどこが「枝葉末節」なのか、という点も「思想」に含まれるような気がしますが、「思想の核心部分が何であるかということについての思想の自由」は中西さんに取り上げられてしまいました。中西さんが「一般的には、このような考えが思想の核心部分とは解されない。」といってしまえば済むことのようです。しかし一般的には、「一般的には」という文言は根拠のない断言をみっともなくないように修飾する作用があります。中西さんの「一般的には」も、一般的な「一般的」と同様、苦しくなると出てくる呻きのようなもんだと思って間違いないようです。

中西さんは苦しい言い訳でもって国民から「思想及び信条の自由」を大幅に奪い去ります。憲法などどこ吹く風です。もっとも中西さんだって大学くらい出ているので、一応根拠みたいなものをつぶやくことがないわけではありません。それは外部行為は「歴史観ないし世界観又は信条と切り離して」行うことが可能であるという理屈です。しかし外部行為とは無関係に頭の中で何を考えていても自由、というのは当然の話しであって、外部に表れなければ何を考えているかなんて分りっこないんですから、んなものわざわざ憲法で保障されるまでもないでしょ。しかしここで思想及び良心は外部行為と不可分のものである、なんて主張をするのは僕の役割ではありません。

僕なんかより職務命令を出す人の方がよくわかってますから。判決文の中では平成15年11月11日に、近藤指導部長が「卒業式や入学式について、まず、形から入り、形に心を入れればよい、形式的であっても、立てば一歩前進である」などと話した事実が認められています。外部行為は単なる外部行為にとどまるものではなく、「原告らの歴史観ないし世界観又は信条を否定する」ための「一歩前進」なのであり、職務命令がそのために発出されたことは判決として事実認定されています。中西さんの理屈はみずからが認定した事実と矛盾した得手勝手な屁理屈でしかなく、JRだのNTTだのといった華々しい労働事案を任される中西さんらしからぬ体たらくであると言わざるを得ません。

「本件職務命令」の正統性を本件命令主体によって構築された既成事実に求めるあたりもまるで説得力に欠けるものですが、「本件職務命令は、…原告らに対し、特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。」という判断もアヤシイものです。やはり判決の中で平成15年10月23日に横山教育長が「教育改革は進んでいるが、日本人としてのアイデンティティーの課題が残っている」と語っていることが認められておりまして、これが「職務命令」の目的を示唆するものであることは明らかです。この場合に「日本人としてのアイデンティティー」を「特定の思想」の問題であると考える思想と、そうではないと考える思想がありますから、やっぱりこれは「特定の思想」の問題として議論の余地が大いにあるわけです。少なくとも「日の丸・君が代」と整合する「日本人としてのアイデンティティー」と、「日の丸・君が代」とは矛盾する「日本人としてのアイデンティティー」が共に想定可能であり、都教委が「日本人としてのアイデンティティー」という問題意識で「日の丸掲揚・君が代斉唱」を「命令」するのであれば、その職務命令は「特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするもの」であり、「特定の思想の有無について告白することを強要するもの」であり、「児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するもの」とみることが出来ます。

中西さんは合憲判断を出すように期待されているはずですが、都教委の連中は都合の悪いことばかり言っています。こんな連中を庇わなければならない中西さんは大変だと思いますが、他人事なのでどうでもいいです。とにかく、憲法15条2項は、「全て公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と定めており、地方公務員も、地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものであることから、このような地方公務員の地位の特殊性や職務の公共性にかんがみ、地方公務員が違憲命令に従うことは公共の利益を著しく損なうものであると考えざるをえません。

中西さんの論拠は例の「一般」というシロモノですが、しかし一番困るのは、さっきから引き合いに出している「出席者」の中には「教職員」でない人も入っているということです。「卒業式等」には教職員と「児童」(法的には18歳未満の者。学校教育法ではおおむね小学生のこと。都立高校の卒業式に出席する卒業生はそのどちらにも含まれない。さすがは中西さん、何を言ってるのか全然わからないですな)のほかに「保護者」なんかもいるわけですが、中西さんは何の命令も受けているわけでもない人も含む「出席者全員」が「起立及び斉唱」をするもんだと決めつけてみたり、こっちには何の相談もなく、「出席者」が「「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱するという行為」を「想定し、かつ、期待する」ことを期待しています。公務員ですらない「一般」の出席者にも「起立及び斉唱」を暗に強制するこの判決自体なかなかブキミです。実際に戸田市では起立しない父兄はチェックして教育長の腐った臓物を喰わせるということですから、グルメな都民の皆さんも近いうちに「食務命令」が出ることが期待出来そうです。もっとも石原は喰っても不味そうなので、僕のために死ににこなくていいです。


posted by 珍風 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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