2008年04月28日

夢見る遺族たち

もっとも、本当の「ナイーヴさ」というのはたとえばこういうものなのかもしれません。

「親としては不満、控訴を」=歌織被告判決に遺族が手記−夫殺害切断

 外資系会社社員三橋祐輔さん=当時(30)=殺害事件で、妻歌織被告(33)に懲役15年の判決が言い渡されたことを受け、三橋さんの遺族が28日、代理人を通じ、「親としては不満。検察官には控訴してほしい」などとした手記を公表した。
 手記は、判決が同被告の完全責任能力を認めたことを評価。一方、同被告が三橋さんから配偶者暴力(DV)を受けていたとした点には、「祐輔は自分の言葉で反論できず、事実を語ることができない。本当に悔しさを感じる」とした。

2008年4月28日 時事


親が言うとねぇ。こういう立派な親御さんの息子さんであれば、これはもう間違いない。多分ご両親に似た立派な方だったのでしょう。世の中の優れた人々と同じように法に触れない範囲でやっておられたに違いありません。やられてた方が闇雲に反撃すればそれは往々にして「犯罪」となり、懲役です。世の中の仕組みというものはこの親御さんたちのような正しい方々の味方です。

だからといって、たとえば本村洋さんがこの人たちよりも幾分かマシであるかどうかというと、いささかの疑問を呈しないわけにはいきません。確かに彼は自分の口から発した言葉よりも産經新聞の「要約」の方が自分の言葉であると思い込んでしまいそうな、素直な好青年ではありますが、ややもすると現実から遊離した桃源郷に遊ぶが如きところが見受けられるのはいかがなものでしょうか。

本村さんによると今回の判決は「ほころびのない素晴らしい判決」であって、「社会はどうすれば犯罪を減らせるのかを考えるきっかけになる判決」なのだということです。それは「どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会を作るのか、どうすればこういう死刑という残虐な、残酷な判決を下さない社会ができるのかを考える契機」となるような判決であったということであります。

「契機」ですから、判決の中にそういうことに対する考察が含まれていることになります。例えば判決は

死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無を検討するに当たり、被告人が本件各犯行をどのように受け止め、本件各犯行とどのように向き合い、自己のした行為についてどのように考えているのかということは、極めて重要である。


と前提したうえで、争いのある公訴事実について全面的に検察側の主張を認めることによって被告人側の主張を「虚偽の弁解」と決めつけ、そうすることで「酌量すべき事情」を奪っておいて死刑判決を導きだしています。

これは明らかに死刑判決を導出するためのロジックであり、人はこの判決を見て「なるほど裁判というものは不公平なものだ」と考えるかもしれません。その結果として人が裁判にかけられることを回避しようとするものとすると、その原因の一つである触法行為を差し控える可能性がないわけではありません。もっとも世の中には冤罪がある一方で捕まらない犯罪者もいたりしますから、無実の罪で捕まって不公正な裁判にかけられるよりも自分から犯罪を犯した方がマシですし、それで捕まらなければ尚結構なことです。

一方で判決はなぜ被告人が犯罪を犯したかということを解明することを避けています。被告人の生育環境について

被告人は幼少期より実父から暴力を受けたり、実父の実母に対する暴力を目の当たりにしてきたほか、中学時代に実母が自殺するなど、生育環境には同情すべきものがある。また、実父が年若い女性と再婚し、本件の約3カ月前には異母弟が生まれるなど、これら幼少期からの環境が被告人の人格形成や健全な精神の発達に影響を与えた面があることも否定できない。もっとも、経済的に問題のない家庭に育ち、高校教育も受けたのであるから、生育環境が特に劣悪であったとはいえない。


と述べる一方で被害者の家庭環境については

被害者は一家3人でつつましいながらも平穏で幸せな生活を送っていたにもかかわらず、最も安全であるはずの自宅において、23歳の若さで突如として絶命させられたものであり、その苦痛や恐怖、無念さは察するに余りある。…被害児は両親の豊かな愛情にはぐくまれて健やかに成長していたのに、何が起こったのかさえも理解できず、わずか生後11カ月で、あまりにも短い生涯を終えたものであり、まことにふびんである。一度に妻と子を失った被害者の夫ら遺族の悲嘆の情や喪失感、絶望感は甚だしく、憤りも激しい。


と、あまりにも鮮やかな対比が描かれているのであり、「経済的に問題がないから劣悪ではない」という結論は穏当を欠いています。人によっては生育環境の経済面だけではなく、そこで「道徳教育」が行なわれなかったことを問題にしたい場合もあるかもしれませんが、判決はその点についても「劣悪ではない」と言い切ってしまっているのですから、ここでも「「どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会を作るのか、どうすればこういう死刑という残虐な、残酷な判決を下さない社会ができるのかを考える契機」を見いだすことは出来ません。

本村さんは被告人の背中を眺めていたようですが、判決をちゃんと聴いていたのかどうか、ちょっと心配です。もっとも会見では

最後まで事実を認め、誠心誠意、反省の弁を述べて欲しかった。そうすれば、もしかしたら死刑は回避されたかもしれない。


などということを自分の考えのように言っていますから、どうだかわかりません。これは判決の趣旨そのものですから、本村さんは鸚鵡返しをしているのか、ぼんやりしている間に耳に入ったことをアタマに刷り込まれたのか、どちらかではないでしょうか。

ちなみに判決をよく聴いていると、これも相当にアヤシゲな話しであることに気がつくはずです。すなわち「酌量すべき事情」として

第1審判決が説示するように、被告人は公判審理を経るに従って、被告人なりの反省の情が芽生え始めていたものである。もっとも、差し戻し前控訴審までの被告人の言動、態度などをみる限り、被告人が遺族らの心情に思いを致し、本件の罪の深刻さと向き合って内省を深め得ていたと認めることは困難であり、被告人は反省の情が芽生え始めてはいたものの、その程度は不十分なものであったといわざるを得ない。


として、「差し戻し前控訴審までの」被告人の「反省の情」が「不十分」であったことを認める一方で

被告人が上告審での公判期日指定後、遺族に対し謝罪文を送付したほか、窃盗の被害弁償金6300円を送付し、当審においても、遺族に対し被害弁償金として作業報奨金900円を送付した。平成16年2月以降は自ら希望して教戒師による教戒を受けている。また、被告人は当審公判において、これまでの反省が不十分であったことを認める供述をし、遺族の意見陳述を聞いた後、大変申し訳ない気持ちで一杯であり、生涯をかけ償いたい旨涙ながらに述べている。


「上告審での公判期日指定後」には「反省の情」を示していることを述べています。つまり検察側の「公訴事実」を認めていた間は「反省の情」が薄く、事実関係を争い始めると「反省の情」が厚くなったのです。このことから判決では「公判期日指定後」の「反省」を「偽りの言動」であると看做していますが、これを裏返せば「公訴事実を全面的に認めていた」こともまた「その罪の深刻さに真摯に向き合」っていなかったが故のことであるということになります。

どちらが本当なのか。判決は被告人が自暴自棄になって検察の言い分を何でも認めてしまうことを求めています。そうしてくれれば死刑にはしないというようなことを言いますし、仮に死刑回避を第一に考えるのであれば被告人側もそれに従うはずです。でもそうしなかったわけです。

一方で本村さんは「反省してくれ」と言いますが、被告人がいくら「反省の情」を示しても、事実について争う以上は司法はどこまでも「反省」を認めません。かえって「反省の情」を示さなくても公訴事実について争わない態度が評価されています。これが本村さんの従来の意に添う判決であるとは到底思えないことから、本村さんはどうやら死刑判決が出ることに満足して、判決文が読み上げられている間、ぼうっとしていたか、居眠りをしていたか、それとも何か別のことを考えていたものと考えざるを得ません。総理大臣になる夢を見ていたか、おそらく判決後の会見で喋ることを考えていたのでしょうね。


posted by 珍風 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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