2008年05月31日

「カルマの法則」であなたも脳障害

S・ストーンさんを永久に無視=「大地震は報い」発言−中国メディア

 【成都30日時事】米女優シャロン・ストーンさんが中国の四川大地震について、チベット弾圧の「報い」ではないかと発言した問題で、これに反発した約30の中国メディアが30日、今後のニュースでストーンさんを永久に無視するとの声明を発表した。
 声明を出したのは被災地である四川省の成都晩報や北京青年報、羊城晩報(広東省)など各紙とヤフー中国などポータル(玄関)サイトの娯楽ニュース部門。ストーンさんを今後、一切報道しないとした上で、ほかのメディアにも同調を呼び掛けている。
 また、一部の中国メディアによると、上海国際映画祭の組織委員会も同日、ストーンさんを永久に招待しない方針を明らかにした。

2008年5月30日 時事


「永久に無視」なんてのが小学生みたいでカワイイ。シャロン・ストーンさんも「報い」だとか「カルマ」だとかヘンなことを言ってこれもカワイイものです。50歳にもなってカワイイというのは並大抵のものではありません。

中国では古来より統治者の「徳」ということが強調されているわけですが、この「徳」は統治者の道徳的資質という意味を表すと同時に、自然の生成力という意味でも使われます。そこから転じて物の「機能」や、更にその「機能」が作用した結果としての「利得」も「徳」というので、例えば「三徳ナイフ」というのは立派な道徳的資質を三つも身につけた刃物のことではなくて、肉、野菜、魚という三種類の材料に使える包丁のことです。

こうしたところから古代人は統治者の資質と自然現象とが連関していて、統治者が優れた資質を持たない場合は自然環境もまた荒れるものだと考えたようです。これは統治者が悪いことをすると自然の方から「報復」を受ける、ということとは若干違います。これはそのような因果関係で考えられているのではなくて、「徳のなさ」が一方では政治において、他方では天災として表れる、といったところでしょう。

もっともオイノリやマジナイのようなもので自然の方をナントカする、というのは統治者の仕事の一つでしたし、統治者が身を修めれば天災の方も治まるとも考えていたようですが、天災が起こるとそれは統治者がいわば天命に見放されたことの指標として考えられ、「革命」を正当化するものともなったのです。

一方でシャロン・ストーンとかダライ・ラマがいうところの「カルマ」は因果法則ですから、古代中国の発想とは異なるものですが、いずれにしても天災と政治批判を結びつける言い方は中国においては過激な政権批判と受け止められる可能性があります。さすがに現代の中国では「被災者への冒涜だ」くらいのことで済ましていますが、これが100年くらい前だと輪姦のうえ斬首といのがもっとも慈悲深い処置だったりしかねません。

古代の考えでは人間の「倫理」と自然の仕組みが一体不可分とされ、善悪正邪の判断もまた「自然」に決まっているもんだとされていたようですが、現代では少なくともシャロン・ストーンと『週刊新潮』を除いてそのような蒙昧からは解放されているようです。もっともつい200年くらい前までは西洋でも神様を法源とする自然法が実定法に授権するくらいのことは平気で言ってのけていたようですから、誰がエラいというものでもありません。「神様」から一段降ろして「自然」とか「理性」とか言っても同じことで、法が普遍的正義に基づくとしながらも人為的な強制によらなければ執行されないという矛盾から逃れられません。そこで例えば「頽廃」としての「犯罪」というようなアイデアも歓迎されることになりますが、そのようにすると一種の「病気」を、したがってある種の自然現象や幾つかの生物を「自然」から排除するという不都合が生じます。「地球温暖化」に関する議論はそのような「自然」観に関わるものなのかも知れません。

とはいっても、ビルマの軍事政権をサイクロンが襲撃したりしているのを見ると、「天の怒り」だとか言いたくなるのもわからないわけではありません。ましてアメリカのブッシュ政権をハリケーンが見舞ったということであれば尚更であります。そういうことを全て「地球温暖化」のせいにしたり「悪政」のせいにしたりするのは大変単純で魅力的な思いつきです。だからといって脳震盪を起したり脳内出血で倒れたりするのはシャロン・ストーンさんにどのような失徳があった故なのか不明であります。確かにラジー賞の常連ではありますが。

「天の怒り」とか「報い」などということは「他人事」として語るものなのです。日本では多くの人が苦しんでいますが、これは「天変地異」によるものではなく、統治者のめちゃくちゃな行動が原因です。このうえ更に地震や台風が来たら泣き面に蜂ですから、あまり面白がっている余裕はありません。「悪政」に「天災」が重なるのは困りもので、せめてどっちか片方にしてもらいたいというのが人情です。もっとも「悪政」が「天災」の被害を拡大することがあるのは言うまでもありませんが。ともあれ、シャロン・ストーンさんによれば大阪や東京は危険がいっぱいです。早く逃げないと大変なことになるぞ。
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2008年05月30日

大阪「笑われ」芸人の痴呆自治

過去最悪の1校1.74人 経済的理由の私立高中退者

 経済的な理由で二〇〇七年度中に私立高校を中退した生徒は、一校当たり一・七四人に上ることが三十日、全国私立学校教職員組合連合(全国私教連)の調査で分かった。〇六年度の〇・九七人から大幅に増え、一九九八年度の調査開始以来、最悪の数字となった。
 全国私教連は「経済格差が進んでいるほか、学費を滞納する生徒に対して学校側が猶予を与えずに退学させる傾向が強まっている」として学費負担の軽減や私学助成の拡充を求めている。
 調査には二十八都道府県の私立高校二百三十四校(生徒総数計十九万五千二百六十四人)が回答した。
 調査によると、私立高校二百三十四校で、生徒の0・21%に当たる四百七人が中退した。都道府県別で一校当たりの中退者が多かったのは熊本(七・六〇人)、埼玉(五・〇〇人)など。
 また、〇七年度末時点で三カ月以上学費を滞納している生徒は、千八百五人(一校当たり七・七一人)に上り、このうち六カ月以上滞納している生徒が七百十人だった。
 調査では、中退の理由として、保護者の失業や両親の離婚による収入減、アルバイトで家計を助けるため―といった回答が多く寄せられた。

2008年5月30日 中国新聞


高校生の餓鬼がいるくらいの親父が失業したら、もう収入は元には戻りません。半分以下にはなるんじゃないか。そうなったら私立高校の学費は払えないでしょう。どのくらい滞納すると学校を追い出されるのか明らかではありませんが、6ヶ月以上滞納している710人の諸君の学園生活は風前の灯で、1校あたりおよそ3人の割合になります。3ヶ月以上滞納者もまだ時間に余裕がありますが、保護者の経済状況が急に好転する可能性は極めて低いのでこれも退学一歩手前です。これが1校あたり7.71人。既に退学した人も含めて、経済的理由による退学者及びその予備軍が1校あたり10人存在することになります。

一方そのころ、大阪で知事をやっている橋下徹さんは例によって下手なボケをかましてご機嫌を伺っております。

橋下知事「所得に応じた学校を選ぶのは当然」 私学授業料削減の見直し要望で

 大阪府の橋下徹知事直轄の改革プロジェクトチーム(PT)は30日、財政再建プログラム試案(PT案)をめぐる担当部局との議論で、私立高校などの授業料軽減助成削減について、世帯収入430万円以下への補助額を手厚くするなど一部修正する案を示した。年間削減額は約8億9400万円で当初案と変わらず、私立学校を所管する生活文化部は「保護者らの同意は得られないだろう」と、さらなる見直しを要望したが、橋下知事は「義務教育でない以上、所得に応じた学校を選ぶのは当然ではないか」と持論を展開した。
 再提示案では、世帯年収288万円以下の生徒への年間助成額を、当初案の18万円から現行と同じ25万円に増額。430万円以下の世帯についても16万円から18万円(現行比7万円減)に変更した。生活保護世帯は当初案と同様、現行と同じ35万円とした。年間削減額は当初案と同じ約8億9400万円となる。
    
 小学1、2年生対象の35人学級制の存廃をめぐる府教委との議論では、橋下知事は「1クラスが36人になったら、18人の2クラスに分けるというのは疑問。集団生活のルールを学ぶ最低限の人数は20人くらいではないか」と主張。35人制を廃止すべきとする従来の意向を改めて強調した。

2008年5月30日 産経ニュース


この人のアタマの中はどうなっているのか、「18人」てのは「20人くらい」ではないか。「くらい」というのがどの「くらい」の誤差を許容するものなのか、はなはだ興味深いところですが、1割「くらい」でガタガタいう橋本さんの「持論」の程度というものは1割減では済まされないような惨状を呈しています。なにしろ場合によっては200人でも大丈夫だというような、いきなり10倍というフランス人も真っ青の数値感覚(現東京都知事による)ですから「保護者」でも誰でも同意する人はいないのかも知れません。

その他にも「行政に携わったり、財界の人だったり、そういう層は、ちょっとインテリぶってオーケストラだとか美術だとかなんとか言うが、お笑いの方が根づいているというのが素朴な感覚」だから大阪センチュリー交響楽団への補助金を廃止しようというのですから、現代美術をさんざん馬鹿にした一方で自分の「文学碑」にフランスで立派に数を勘定して帰ってきた岡本太郎原作の太陽をひっつけた東京の石原さんは完敗です。いくら何でも自分に票を入れてくれた人たちをここまでバカにはしないでしょう。少なくとも橋下さんのアタマに限っては「オーケストラだとか美術だとか」よりも「お笑いの方が根づいている」ことは確かなようです。もっとも「笑かす」のと「笑われる」のは少し違うようですが。

「行政に携わっ」ているそこらの木っ端役人どもが「インテリぶって」いるかどうかはともかく、こと教育に関しては日本は顔を上げて外を歩けないような状態にあることくらい知っていても府知事として損にはならないでしょう。日本は「国際人権規約」A規約(社会権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約))第13条第2項の(b)(c)即ち中高等教育の無償化については留保したままであります。

1 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育が、すべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること、諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを可能にすべきことに同意する。
2 この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。
(a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。
(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。
(d) 基礎教育は、初等教育を受けなかった者又はその全課程を修了しなかった者のため、できる限り奨励され又は強化されること。
(e) すべての段階にわたる学校制度の発展を積極的に追求し、適当な奨学金制度を設立し及び教育職員の物質的条件を不断に改善すること。
3 この規約の締約国は、父母及び場合により法定保護者が、公の機関によって設置される学校以外の学校であって国によって定められ又は承認される最低限度の教育上の基準に適合するものを児童のために選択する自由並びに自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。
4 この条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない。ただし、常に、1に定める原則が遵守されること及び当該教育機関において行なわれる教育が国によって定められる最低限度の基準に適合することを条件とする。


「義務教育でない以上、所得に応じた学校を選ぶのは当然ではないか」というような「持論」は、そこらのゴロツキ三百代言がちょっと「過激」なことを言って周りを「笑かす」にはお似合いですが、橋下さんはあれで一応大阪府知事なもんですから、世界中から「笑われる」こと請け合いです。大阪府民も笑われてしまいます。大阪府以外で大阪弁を喋っていたりしたらどんな目に遭うかわかりません。

まあ、多くの保護者の同意を得られる程度ということであれば、「アタマの程度に応じた学校を選ぶのは当然」という「くらい」にしておいた方がいいでしょう。それでも上記の(b)では中等教育については高等教育についてはいわれている「能力に応じ」という文言が存在しないことに注意しなければなりません。そのうえで「すべての者に対して機会が与えられるものとすること」ということになっていますから、人権規約では中等教育は義務教育に準ずるものと位置付けられているようです。少なくとも学業成績が思わしくないとか、経済状況が悪いとかで教育を受けられないことは「当然」ではありません。

「教育再生懇談会」とやらも、ケータイがどーだとか下らないことを言っている暇があったら、どうやら「初等教育を受けなかった」か「又はその全課程を修了しなかった」としか思えない橋下さんに対する「基礎教育」を強化した方がよさそうです。橋下さんもとっとと「自分のアタマの程度に応じた職業を選ぶ」のが「当然」でしょう。
posted by 珍風 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月27日

みんなで松尾裁判長の自殺を止めよう

長崎市長射殺、暴力団幹部に死刑・地裁判決

 長崎市で昨年4月、市長選の選挙活動中だった伊藤一長市長(当時61)が射殺された事件で、殺人や公職選挙法違反(選挙の自由妨害)などの罪に問われた暴力団幹部、城尾哲弥被告(60)の判決公判が26日、長崎地裁であった。松尾嘉倫裁判長は「民主主義を根幹から揺るがす凶悪、卑劣な犯行」として求刑通り死刑を言い渡した。
 金銭強奪目的などではなく、被害者が1人で、殺人の前科がない被告に対する死刑判決は異例。城尾被告の弁護人は判決を不服として、即日控訴した。
 松尾裁判長は判決理由で「当選阻止が犯行の目的で、選挙の自由を妨害する犯罪でこれほど直接的で強烈なものはない」と非難。「被害者が1人にとどまる点を考慮しても極刑はやむを得ない」と結論付けた。

2008年5月26日 NIKKEI NET


殺害当時伊藤さんは確かに長崎市長だったのですが、同時に選挙活動中であり、その意味では市長候補のひとりであったわけです。城尾さんとしては長崎市に対して色々と不満があったということで、市のトップに矛先を向けて「世間を震撼」させようとしたんだそうですから、城尾さんが撃ったのは長崎市長としての伊藤さんであるようです。

という事実を認める一方で松尾嘉代、じゃなかった松尾嘉倫裁判長は伊藤さんが選挙活動中であったことを捉えて「当選阻止が犯行の目的で、選挙の自由を妨害する犯罪」であるとしました。つまり殺されたのは市長候補としての伊藤さんなのです。ここら辺は非常に微妙なところで、城尾さんにもうちょっとよく聞いた方がよくはないかと思われます。

なにしろ遺族ですら「争点には私たちが知りたかった(犯行の)背景は入っていなかった」とか、「なぜ殺害までする必要があったのか、最後まで分からなかった。まだ自分の中では納得できていない」という不満を残す裁判です。 別に何から何まで遺族を納得させる必要はありませんが、犯行に至る「事実」の解明が不十分であり、刑事裁判の体をなしていないのではないかと疑われるところであります。

もしかすると城尾さんが「市長候補」を殺害することによって、選挙という民主主義の手続を妨害した、というのは松尾さんの独断である可能性があるのではないでしょうか。城尾さんにはそんなつもりはさらさらなくて、「市長」に仕返しをするためにやっただけでしょう。それが選挙運動中であったのは、たまたま「市長」に身近に接近することが出来る機会が選挙のときしかないからでしょう。

そうだとすると、これは単に「怨恨」による犯行であって、松尾さんが言うようなそんな「民主主義を根幹から揺るがす」ような大袈裟なものではなかったと思われます。その場合、この犯行はなるほど傍から見れば「当選阻止」の効果を持つものの、それを「目的」だと言い切るのはちと問題でしょう。アメリカでケネディ家の人々を次々と殺してしまうような政治的暗殺とはだいぶ違うようです。

裁判では公判前手続が行われ、犯行の動機についてはあまり追求しなかったようですが、その結果裁判官が親切にも被告人が考えてもいなかったような社会的に重い意味を持つ「動機」を与えてくれて、立派な「政治的犯罪」になってしまったようです。やはりそこらへんが「暴力団幹部の力」というものなのかも知れません。

司法が「暴力団」の威光に負けて、その犯罪に「箔」をつけてしまったのは大変嘆かわしいことですが、ことによるとそんなことはないのかも知れません。松尾さんは大変立派な方であると聞いています。よく知りませんが、とにかくヤクザに脅かされてビビるような人ではない、という、これは飽くまで噂ですが、まあ、未確認情報とか口からでまかせというようなものです。そうではなくて、城尾さんの怨恨殺人が政治的暗殺になってしまったのは、死刑判決を出すためだという、そういう話しもあります。

この判決は異例中の異例といってもいいものであり、怨恨によってあまり残虐でない方法で1人を殺したものに対する死刑判決は今まで出ませんでした。松尾裁判長はあえて「死刑のハードル」をまた一段下げることに挑んだようです。松尾さんはこの犯行を評して「選挙の自由を妨害する犯罪でこれほど直接的で強烈なものはない」としてその「政治的」効果の大きさを指摘し、そこから「被害者が1人にとどまる点を考慮しても極刑はやむを得ない」という結論を導きます。このストーリーを描くために「公判前」に「動機」は捏造され、城尾さんがこのストーリーから外れようとすると、それは「理解に苦しむ憶測を交えたもの」とされて切り捨てられてしまうのでした。

そこでこの判決は裁判員制度の施行を前にして死刑判決を増やし、それに国民を馴れさせるという効果を持ちます。知らない人が知らない所でテキトーに死刑になる分には誰も文句は言いませんが、自分の責任で自分の目の前にいる人間を殺す、というのはそんなに簡単なことではありません。死刑をもっと気軽な、気楽でカジュアルなものに、楽しみでワクワクするというのは難しいにしても、少なくとも「よくあることさ」ぐらいにする必要があります。そうしないと裁判官と違ってクビになりたがっている裁判員どもは死刑を回避してしまう虞があります。

そういうわけで今回はちょっと無理をして死刑判決を出してみました。どこが「無理」って、「市長候補」を1人殺すことが「民主主義を根幹から揺るがす」としてしまったのがかなり苦しいのです。通常のよくある殺人事件でも、その被害者が将来において「市長候補」になる可能性を完全に排除することは出来ないのですし、多くの場合既に「有権者」だったりするのですから、人1人殺すということは「民主主義を根幹から揺るがす」という点において城尾さんに引けを取るものではないのです。

ですからこの場合だけ「民主主義」がどーたら言うのは無理矢理に死刑判決を出すために松尾さんがないアタマを絞って考えたものだとしても、非常に残念な結果に終わったとしか言いようがありません。この判決は「現市長であり当選する可能性の高い市長候補の命を奪うことはそこらの有象無象の有権者の命を奪うことよりも重大であるから死刑にする」という判決なのであって、したがってこの判決自体が「民主主義を根幹から揺るがす」ことになってしまったのは大変残念なことです。特に松尾さんとそのご家族にとってはとても残念です。松尾さんは「民主主義」を守るためには死刑をも辞さずという立派なお考えの持ち主なのですから。
posted by 珍風 at 20:21| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月25日

頽廃アタマと禿アタマ

件名

美少女アダルトアニメ雑誌及び美少女アダルトアニメシミュレーションゲームの製造・販売を規制する法律の制定に関する請願

要旨

 街中に氾濫(はんらん)している美少女アダルトアニメ雑誌やゲームは、小学生の少女をイメージしているものが多く、このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失っており、既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている。これらにより、幼い少女たちを危険に晒(さら)す社会をつくり出していることは明らかで、表現の自由以前の問題である。社会倫理を持ち合わせていない企業利潤追求のみのために、幼い少女を危険に晒している商品を規制するため、罰則を伴った法律の制定を急ぐ必要がある。
 ついては、美少女アダルトアニメ雑誌及び、美少女アダルトアニメシミュレーションゲーム製造及び販売規制の罰則を伴った法律を制定されたい


これが円より子さんによって提出された請願の「要旨」です。普通「要旨」っていうと内容をわかりやすくまとめたもんだと思われていますが、これは全然わかりやすくありません。しかしこれでも「わかりやすくまとめた」方なのかもしれないのです。とすると本文の方は一体どうなっているのか、興味津々たるものがあります。

とはいえ、この「要旨」だけでも請願者のアタマの中がどうなっているのか、およその見当がつかないというわけではありません。例えば「美少女アダルトアニメ雑誌やゲームは、小学生の少女をイメージしているものが多」いとされていますが、そうなんですか?小学生に見えるというのは何故なんでしょうか。ランドセルでもしょってるんですかねえ。黄色い帽子をかぶってるとか。笛を吹きながら帰るとか。そういうのが「多い」というのですが、なるほど、「街中に氾濫している」ところの『小学何年生』などという雑誌には「とんとん♪わんこバッグ」などという「美少女」漫画が連載されていますから、あれなどは「小学生の少女をイメージしている」といえるでしょう。しかしあれが「アダルト向け」だということになると小学館は困るのではないか。

それで「このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失ってお」るんだそうです。大変です。ゲームが青少年を誘ってくるんだそうです。でもって「心」を「破壊」されたり、「人間性」を「失って」しまったりという話しなんですが、「人間性を失って」いると誘われるようになるのか、誘われると「心を破壊」されるのか、そういう風になるためには相当深入りする必要があるのか、ちゃんとゲームをクリアしないとダメなのか、それとも誘われただけでそうなのか、その辺はよく判りません。

そういえばここで言う「心」だとか「人間性」というのも難解なシロモノですが、ちゃんと説明してもらわないと「ゲーム」と「心」や「人間性」との関係が不明です。さらにこの「要旨」の文章は判りにくく、「心」だの「人間性」だのといった話しと「既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている」こととの関係も明らかではありません。

まあ何しろ(多分)アダルト・ゲーム屋とキ印教徒のそれ自体矛盾に満ちた合作によるものではないかという指摘もされているくらいですから、内容がグダグダでちゃらんぽらんなのもある程度仕方がないのですが、もしかすると半分はアホのせいで、しかし半分は意図的にそうなのかも知れません。

これは「ゲームによって青少年は必ず内面的な影響を受け、そのような影響を受けた青少年は必然的に幼女を殺す」というメッセージを、はっきりとは書かないけど読み取らせようとしているようです。無意識のうちにそういうメッセージが読み手側において構成される、そのために意図的に悪文になっているのですが、もちろん無根拠なデマにすぎないこのようなメッセージを、読み手側が「知らず知らずのうちに」構成させられることによって、読み手は「心を破壊され、人間性を失って」しまうのです。

このように、ほとんど常に「犯罪」と結びついて使われる「心」とか「人間性」という意味不明な言葉で表される人間の内面性と表現物との関係についてのお喋りは昔からなじみ深いものです。このような「心理学」による「科学的」な批判は二つの方向から同時に行なわれます。一つは円さんのように、表現が人間の内面性に働きかけることによって害を及ぼすというもの。この場合、そのような「悪い」表現物が「街中に氾濫」しているとされる一方ではその影響が具体的な「悪影響」として現れてくる割合が少ないことが難点ですが、「犯罪」という形で表れる以前の段階として多くの人が内面性に「悪影響」を受けているのであるという証明不可能な主張がなされることになります。

他方、このような表現が行なわれる原因として、表現者の側の内面性も問題視されます。例えばここで円さんは「社会倫理を持ち合わせていない企業利潤追求」をあげているのですが、これは資本主義における経済主体の一般的な態度に過ぎません。そこで事は「罰則を伴った法律の制定」の問題になるのです。

それとは別に、表現者における「心の破壊」や「人間性の喪失」を挙げる立場もあります。マックス・ノルダウの『Entartung』はその代表的なものでしょう。これは1892年の著作であり、日本でも大正時代に『現代の堕落』(大日本文明協会事務所)として翻訳されました。ブダペストにラビの息子として産まれたノルダウははじめ作家・評論家として活動を始め、後に医学を修めて精神医学者となりました。物書きとして成功を収めたのは1883年の『文化人の常套的虚言Dieconventionellen Lügen der Kulutrellen- menschheit』であり、この書も『現代文明と批判』として日本語訳が出ています。当時けっこう世界的に売れていたようです。

「Entartung」というのは「堕落」でもいいのですが、よく「頽廃(退廃)」と訳されます。ノルダウはロンブローゾの「生来性犯罪者」の概念を援用して19世紀末における印象派絵画、象徴主義文学や唯美主義文学を、隔世遺伝的に発現した原始人的形質が人格に現れた人が近代化・都市化する環境に適応出来ず、結果として「脳中枢に障害」が起きたことによるものであると論じました。それは人間の内面性の「頽廃」の表れなのですが、その「本質」には脳の「変質」があるというわけです。そのような「精神的不具者」としては、ラファエロ前派から始まってボードレール、マラルメ、ワイルド、ユイスマンス、ワーグナー、トルストイ、イプセン、ゾラ、ニーチェなどのそうそうたるメンバーが挙げられています。まるでPTAのように慧眼です。

この「変質」という概念も当時一世を風靡したもので、少なからず遺伝的・生来的な「堕落」もしくは「退化形態」として犯罪や病気の原因として想定されていました。現代の日本でも「痴漢」「性犯罪者」の意味で「変質者」という言葉が使われていますが、これはこの言葉の本来の用法に近いものです。すなわち「変質」とは何よりも「性」における「堕落」であって、当時の「性表現」や「性行動」に関する批判的な文脈で用いられていたものに他なりません。それは現代において「児童ポルノ」や「援助交際」を批判するのと同様の文脈を持っていますが、いくら女子高生が「援交」をしても「変質者」とは言いません。当時は「変質」した性行動といえどもその主体はあくまで男性であったわけで、その名残で現在も男性中心にに使われているのです。

ノルダウはユダヤ人であり、「頽廃」のあらわれの一つとして「反ユダヤ主義」もちゃんと挙げていたのですが、彼の理論はナチスの取り上げるところとなります。ナチスは「コスモポリタン的」もしくは「東方的」あるいは「ボルシェビキ的」で「非ドイツ的」な表現を批判するための道具としてノルダウの「頽廃」を利用したのです。彼らは表現主義絵画のデフォルメされた人物像と奇形者や病人の写真を並べてみたり、近代絵画と精神病者の絵画を並べてみたりして、その「類似」を指摘し、近代の表現を「病気」によるものであると断じ、「頽廃的」であるとして退けました。

ちなみに「頽廃」は「医学的」な概念ですが、治療は不可能であるとされております。まあ、もともとがもともとですから「治療」も何もあったもんじゃないのですが、そういうわけでこれも対策としては排除・追放・収容・殺害などの「法的」な手段がとられることになります。そしてそうすることによって「頽廃」が「社会」を「危険に晒す」ことを防ぎ、「社会」を「頽廃」の影響から守ろうとするのでした。

ナチスはそのような作品を購入した美術館の館長をクビにしましたし、芸術家には作品の制作を禁じました。絵の具も買わせなかったのです。そして各地の美術館から近代芸術作品を押収して、それを愚弄する有名な「頽廃芸術展」を企画して全国を巡回しました。当時の大衆は同時代の表現手法やそこで表現されている宗教や社会への批判に理解を示すこと少なかったので、みんなで一緒になってさんざんに馬鹿にし、悪態をついては大笑いをしたものです。その後で作品は海外に売却し、売れ残りは焼いてしまいました。その一方でナチスご推奨の「真性ドイツ民族芸術」を集めた「大ドイツ芸術展」も行なわれ、そっちの方は前世紀の焼き直しのようなものでわかりやすいし、農民の「少女」のヌードとか筋骨隆々たる男性の彫刻が並んでいたので、みんな「ゆらさないように」気をつけて帰って、「産めよ増やせよ」を実践したものだとされています。「少女」が小学生だったかどうかは、なにしろ裸なんでよくわかりません。

音楽についてもジャズや実験的な音楽、ユダヤ人作曲家の音楽は「頽廃音楽」とされ、「頽廃音楽展」も行なわれています。そういえばテクノ爺さんクラフトヴェルグの横笛吹きフローリアン・シュナイダー=エスレーベン(禿)はかつてインタビューに答えてこんなことを言っています。

ダダイズムやフューチャリズムなどの今世紀初頭のムーブメントには非常に影響を受けた。これらの動きは以後ナチスの迫害を受けて中止させられた。長く続いてきたドイツの伝統が断ち切られてしまった。私たちは、戦前のこの動きを継続したいと思っている。私たちは第二次世界大戦直後の世代なのだから。
 
1989年 銀星倶楽部11「テクノ・ポップ」


ドイツでは表現主義以来、ナチスによる弾圧までに30年という「伝統」があったのであり、ベルリン・ダダも政治とキチガイがぶつかりあった非常に個性的な展開をしていましたし、なによりも映画『キャバレー』に代表されるようにカバレット文化は人類の財産となっています。ロンドン・レコードに「退廃音楽シリーズ」というものがあって、ウテ・レンパーのカバレット・ソングのアルバムが入っていたりします。電子音楽ではフリードリッヒ・トラウトバインが「トラウトニウム」という電子楽器を製作していました。一方現在の日本では分離派建築の代表的な作品である「検見川無線送信所」をぶっ壊そうとしているんですから困ったものです。『あぐり』が流行った時に「伝統」を守る会でも作っときゃよかったね。

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独逸の禿親爺。歳をとるということは良いことだ。
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和田監督の資本主義リアリズム講座

「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論 

   日本テレビ系の人気ドラマ「ごくせん」の一部内容について、精神科医の和田秀樹さんが雑誌コラムで異論を述べ、ネットで議論になっている。不良少年や不勉強を正当化するな、というのが和田さんの主張だ。
「勉強をしている子の方が、不良よりはるかに安全」
   「ごくせん」は、俳優の仲間由紀恵さん(28)扮する熱血高校教師「ヤンクミ」が、ワルの生徒たちに体当たりして更生させていく姿を描く。2002年、05年と大ヒットし、08年4月19日から第3シリーズが放送中だ。初回に関東地区で26.4%の高視聴率を出し、その後も安定した人気となっている。
   このドラマに、和田秀樹さん(47)が噛み付いた。和田さんは、日経ビジネスアソシエ6月3日号のコラムで、ごくせんについて持論を展開。現代版「水戸黄門」と評されるのも分かる痛快なドラマだとしながらも、「看過できない内容があった」と述べている。それは、「秀才学校の生徒の方が不良より性格がねじ曲がっているように描かれている点だ」という。
   そして、和田さんは、こう問題を指摘する。
「(秀才が)勉強のできない人間を、『覆面+鉄パイプ』で『世直し』と称して襲うという設定である。この手の『秀才=悪』『不良=心はきれい』という図式は、ある種の青春ドラマのステレオタイプのようになっている」
問題にする理由として、和田さんは、進学校生徒の犯罪発生率などのデータを示し、「勉強をしている子の方が、不良よりはるかに安全」であることを挙げる。そのうえで、「このような番組は勉強ができない人間の価値観を強化し、ますます格差を広げる結果になりかねない」と危惧し、番組作りを再考するよう求めている。
   ごくせんは人気作だけに、和田さんの意見表明は早速、ネット上で話題になった。2ちゃんねるでもいくつかスレッドが立ち、「『ごくせん』は不良を助長する作品」「不良は圧倒的に悪い奴が多いだろ」と、和田さんに同調するような意見が多く寄せられている。
秀才にありがちな欠点指摘する声も
   一方で、異論もある。「優等生がほんとうに優等生ならいいが、腐ったことをいったりやったりする奴も多い」「受験競争の過程で挫折した人間が、その後どうなるかについて、 和田の視点は全く欠落している」といった意見だ。
   異論をまとめると、優等生だって天下り官僚や悪い弁護士になっている、勉強だけでは創造力がなくなる、お金持ちが進学に有利な社会が悪い、不良はむしろ正義に敏感だから反抗する、勉強できない子はフィクションの中では主役になれる、などがある。
   では、和田さんの言う秀才と不良の対立図式は、実際に子どもたちの間で広がりつつあるのだろうか。
   これについても、学校現場で見方が分かれた。
   「ごく一部に限られる」としているのが、学校裏サイトを日常的にチェックしている全国webカウンセリング協議会理事長の安川雅史さん。「ごくせんは、最後は正義が勝つという設定です。しかし、秀才そのものが悪いとは言っていません。秀才でも悪いことをやっている子は、最後にやっつけられるというストーリーで終わっています。ですから、子どもたちも、重く受け止めないで、スカッとする番組として見ているのでは。裏サイトの書き込みで目立つわけでなく、影響を受けているのは、思い込みの激しい子だけだと思います」
   一方、東京・多摩地区のある市立中学校校長は、「現代型のいじめ」だとして、頭がいい真面目な子がバッシングの対象になることが多いと明かす。テレビで金八先生がもてはやされた20年ほど前から言われている話だという。「中学時代は悪くてもいい、その後、立派に成長しているから、とメディアがドラマなどであおってきた影響でしょう。しかし、そんな子はごく一部で、実際は立ち直れない子がいっぱいいるんです。秀才や不良少年の一面だけを描かれると、子どもたちがそのメッセージを強く受け取ってしまいます」
   和田さんは、こうした議論に対し、次のように説明している。
「子どもたちの間で、不良少年がもてはやされているとは存じあげていませんし、そこまでなっていないと思います。ですが、私が問題にしているのは、学力低下がみられる時代で、勉強できない子が『人間性がしっかりしていればいい』と勉強しないことを正当化してしまうことです。20〜30年前なら社会的に意味のある番組だったかもしれませんが、時代によってテレビのあり方が変わらなければいけないということです。また、優等生に悪いやつがいるというのは、確率論の問題です。悪いやつもいればいいやつもいる。しかし、子どもに勉強させた方が、犯罪者の比率が低い、確率が高いですよ、ということです」

2008年5月24日 J-CASTニュース 


映画監督、といってしまうと大神源太さんも立派なシネアストなわけですが、まあそういう意味では双璧をなす、というか同類の和田秀樹監督ですが、初監督作品にして早くも遺作の声が高い『受験のシンデレラ』の興収のほうはどうだったのでしょうか。せっかく「モナコ国際映画祭」で4部門受賞したんですから、もうちょっと入っても良かったんじゃないでしょうか。もっとも「モナコ国際映画祭」、正確には「暴力描写のない映画のためのモナコ国際映画祭 」というんですが、「暴力描写がない」ことがそんなに良いことなのかどうかはともかくとして、フィルムに箔をつけたい人には意外と穴場かも知れません。

そうでなくても産經新聞に寄稿した和田監督の「芸術」論によれば、「コマーシャリズムに流れない芸術映画」というのは、「暴力シーンのない映画」のことなのだそうですから、「アンチ・ハリウッド=芸術」という短絡的な発想でいくつもりならそういう「芸術」もアリかも知れません。もっとも「ハリウッド」的なものから遠くはなれようとするあまりに、観客に受容される物語のパタンを拒否するのも「芸術」だから別に構わないのですが、見てもらえない映画を作った挙げ句「助成金」をもらえなかったことを恨む、更には人気作品に噛み付いてみたりするのも「芸術」としてのパフォーマンスであればいいんですけど。カンヌ映画祭を粉砕した人もいましたし。

僕は「青春」は森田健作で懲りてますんで「ごくせん」って観てないんですが、「優等生」と「不良」ってのは、例えば時代劇では「悪代官」と「ヤクザ」に当たるんでしょうね。勧善懲悪にピカレスクを加えたもの。いわゆる「悪漢」が、より大きな「巨悪」と戦う、というパタンでしょう。「優等生」というのは役人などになりがちであります。中には良い役人や悪い役人がいるわけですけど、「巨悪」というのは構造的なものであるところ、それを「悪役」としての登場人物個人に代表させることになるのは「お話」というものの約束事だから仕方ありません。

まあ、そういう「巨悪」に立ち向かうのが「悪漢」であるというのもよくあるパタンで、そういう境遇の人じゃないとそんな大それたことを出来ないという、これもおかしな話しなんで多分に封建的な感じがしますが、そういうパタンのほうが受容されやすいらしい。いわば誰かが観客の代理となって「悪」を倒すということなんですが、その場合何らかの常人とは異なる「力」を持った人ということになります。水戸黄門やウルトラマンがそうですが、「ヤクザ」とか「不良」などの「悪漢」も普通の人の持っていない「力」を持つものとして登場するのです。

というような「物語」の「ステレオタイプ」が「時代によって変わらなければいけない」とうのも一つの主張ではありますが、いくつかの定型が神話から民話から小説演劇映画TVに至まで絶えず繰り返し語り直され続けているのが今までの人類の歴史であるようです。権力に「巨悪」を観てこれをやっつけるという「ステレオタイプ」は、少なくとも社会に権力というものが存在する「時代」には変わりようがないでしょう。現状ではTVであろうが映画であろうがそこで語られるパタンが「変わる」ような「時代」であるとはいえません。「物語」に「変わって」ほしかったら社会の方を変えた方が話しが早いようです。

というようなことを映画も撮る「芸術」に造詣の深い「精神科医」が知らないわけではないでしょう。いや、本当は知らないのかも知れませんが、知っていても和田さんの役には立たないようです。和田さんによる「コマーシャリズムに流れない芸術映画」の定義にはもう一つあったんです。それは「国民に啓蒙(けいもう)すべき内容を盛り込む」ということなのでした。対象が「国民」なもんですから「芸術」の定義の中心に「政府公報」を置こうという野心的な試みのようにも見えますが、「啓蒙」などという難しい(産經新聞の読者には読めないものと想定されている)漢字に惑わされずに読んでみると、これはつまり「宣伝」ということです。「コマーシャリズムに流れる」ことと、最初から確固とした「コマーシャリズム」の考えで製作することとは違うようです。営利を目的として「主人公が病気で死ぬ」などといった「ステレオタイプ」に頼ることと、通信教育の宣伝のために映画を撮ることとは違うわけです。それは「国益を考えた」、ついでに私益も思いっきり考えまくった「資本主義リアリズム」の思想に基づいた「芸術」であり、商業主義に魂を売った「商品」ではないのです。その証拠に観客が入りません。
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2008年05月24日

死んでんだもの

mutsuo.jpg
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2008年05月22日

「津山30人殺し」は無かった!!!!!

なんと、そうなんだそうですよ。

http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20080521

本気で反論しているらしい人がいますが。

ついでに申し添えれば、都井睦雄君は自殺を偽装した身代わりを殺害した後中国山地に逃げ込みました。人形峠付近に潜伏していた都井君はウランを食べて巨大化、旅人を襲いながら修行を重ね、ついに7年後、チンポから精液と放射能火炎をまき散らしながら広島・長崎を襲ったことが知られています。

その後も中国山地に隠れ住んでいたようで、1970年に目撃された時にはだいぶ小柄になっていた(身長150センチ程度?)ようです。おそらく人形峠のウランの品質が悪かったせいでしょう。「ヒバゴン」として知られているのがそれです。今でも多分そのへんに生きているかも知れません。見かけたら石を投げたりしないで気軽に声をかけてあげたいものですね。
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2008年05月21日

事実上仮想模擬虚偽似非裁判の現実

「悪」とはバーチャル・リアリティである、とはっきりと言ったほうがいいのかどうかわかりませんが、第一これでは片手切断のそしりを免れないような気もします。「善」もバーチャル・リアリティであるとも言わなければならないのかもしれません。しかしこの際ですからリアリティはバーチャル・リアリティである、と言っても構わないような気もします。そう言ってしまうと「リアリティ」をバーチャルしてるのはどこの婆ちゃんなのか、ということが気になってくるわけですが、火のないところに煙は立たないそうですから、リアリティのないところに婆ちゃんはいないようです。そこには魚市場のようにナマモノがゴロンと転がっていて、単なる死体が生ゴミになる前に急いで加工して食通を唸らせる「本物の味」にするために婆ちゃんが忙しく立ち働いていそうなのです。

しかしながら実を言えば「virtual」というのは「みんなはどう思ってるか知らないけど本当は〜なんだよ」という意味ですから、「仮想」というのとはかなり違うんで、「バーチャル・リアリティ」というのは「公式のとは違う実質的なの現実」ということになって、かえって「より本当」っぽいニュアンスです。この意味で言うと「バーチャル・リアリティは悪である」というのは「世界は本当は悪い」というような意味になるか、「上辺の見せかけを暴くのは良くない」という意味になるわけですが、日本では「バーチャル・リアリティ」というのは「ウソ」のように思われがちです。とくにCGなんてものは「巧みなウソ」の代名詞みたいなもんで

裁判員制度:司法解剖の遺体写真、裁判員にはイラスト−−法医学会と最高検

 ◇心理的負担に配慮
 来年5月に始まる裁判員制度で、日本法医学会(理事長・中園一郎長崎大教授)と最高検は、市民から選ばれる裁判員の心理的負担を軽くするため、遺体の写真の代わりにイラストやコンピューターグラフィックス(CG)を使った立証を積極活用する方針を決めた。
 事件性が疑われる遺体の死因を究明する司法解剖の結果は鑑定書にまとめられ、裁判の証拠になるが、残酷な遺体や傷の写真も添付される。難解な専門用語が並ぶことも多く、学会と最高検は昨年7月に研究会を作り、司法解剖の結果をいかに裁判員に説明するか協議してきた。
 遺体や傷の写真は裁判員にショックを与える恐れもあることから、代わりにイラストを鑑定書に添付したり、鑑定医が法廷で証言する際にCGを使う案が浮上。学会内には、傷ができていく過程を連続イラストで表すアイデアを提案する学者もおり、裁判員が目で見て分かる説明方法が検討されている。
 また、学会は、司法解剖の結果を裁判員に分かりやすく伝えるため、初めての一般向け法医学用語集の作成にも乗り出した。今年3月から、裁判員が参考にできる法医学用語集の作成を開始。鑑定書に登場しやすい「死斑」(重力の作用で血液が下がることによって遺体の表面にできる変色)▽「絞頸(こうけい)」(ひも状のものを首にめぐらせ、手などで絞めて圧迫し、窒息させる)といった用語を分かりやすく解説する作業を進めている。
 約1500語を盛り込んで来年3月までに完成させ、市販や裁判所への納入も検討している。執筆者の一人の福永龍繁・東京都監察医務院長は「裁判員制度を見据えた用語集だが、一般の方が法医学への理解を深めるためにも有用と考えている」と話している。【伊藤一郎】
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 ■ことば
 ◇裁判員制度のスケジュール
 来年5月21日にスタート。同日以降に起訴される重大事件が対象で、年間3000件前後と想定される。初公判の6週間前までに呼び出し状を裁判員候補者に送るため、最初の裁判員裁判は来年7月下旬〜8月上旬の見通し。

2008年5月21日 毎日新聞


グロな写真はキモイので「絵」で代用すれば大丈夫だと思ったようですが、この「絵」は誰かが写真を見て描くことになるんでしょう。この場合、その誰かが写真を解釈して判りやすく、気持ち悪くないように「描き直す」ということになるわけですから、証拠物件としては派生的なものになるでしょう。写真と同様の証拠価値を持つものとはみなすことは出来ません。

裁判員の参加する裁判は「有害」な写真なんかを排除し、「要点」が「整理」されて既製品の「事実」を扱う、いわば「お子様向け」のものになるようです。そもそも証拠に触れることの出来ない人を参加させようという点に無理があるのですから、裁判そのものの質を落としてまで無理矢理こんなことをする必要はないでしょう。止めておくにこしたことはありません。裁判が1回無駄になるだけです。

てゆうか裁判員がどのような結論を出しても検察側か被告人側のいずれかが控訴するのは目に見えているのですが、二審より上では裁判員抜きの審理が行われるわけです。そこではキモイ写真はダメだとか言う人はいませんし、CGだかイラストだか知りませんが、無用なお絵描きの付け入る隙間はないのです。いうなればそこからが「実質的」な裁判であって、素人裁判員がいい加減な「絵」を見てゴチャゴチャ言う第一審は双方にとっては全く無駄な「お遊び」につき合わされることになるのです。検察はともかくとして被告人には遊んでいるヒマはないようですが、強制的につき合わされる「遊び」ほど苦痛なものはありません。特に被告人にとっては裁判を受ける権利の侵害となるでしょう。

むしろ「残酷な遺体や傷の写真」も、裁判員などだけではなく広く一般に公開して判断を仰いだほうがよいでしょう。どこの馬の骨だかわからないような裁判員の法医学的な知識は限られたものでしかない可能性が高く、あまりアテに出来ない一方で、世間にはどういうワケだかそういうことにやたら詳しい人も大勢います。判決までいちいち広く世間の人々の意見を聞く必要などありませんが、判決について一般の人々がその適否を事後的に判断する材料を与えることは極めて重要です。特に一般国民が全て「裁判員」として裁判に参加する可能性がある制度の元では、まさに「明日は我が身」なのですから、そのようなことは必須であるといえるでしょう。

また、過去の刑事事件とその判例及び証拠の一切が、国民の誰でもがアクセス出来るように公開されなければならないでしょう。そうでなければ裁判員制度などはパンピーの無知につけ込んだ司法ポピュリズムでしかありません。もっともそのように情報を公開するとプライバシーの問題などが発生するわけですが、逆に裁判員であれば裁判に関わる個人情報を知るところとなっても「悪用」したりしないという保障は全くありません。てゆうか警察官などはしょっちゅう悪用しまくっているわけです。僕たちはよく知らない人、信用出来るんだかどうだか知れたものではないような人たちに警察の仕事をさせていて、その連中が特権的に様々な情報に触れることに無頓着でいるのです。我ながらおめでたい限りですが、逆に「プライバシー」も「公知の事実」になってしまえば「悪用」のメリットはなくなるものです。みんなで恥ずかしいところをさらけ出し合う世の中というものも悪くないかも知れません。小さい小さいと思っていたけど結構普通だなとか、小さくて何が悪いとか、みんな結構小悪人じゃないかとか、虫も殺さん顔してようやるわとか、恥も外聞もあったもんじゃない。
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2008年05月20日

私は如何にして娘さんに惚れるのを止めて山を愛するようになったか

『週刊朝日』のインタビューに答えた「只友登美男」さんによると、

昔は成人式が済んで、21歳で徴兵検査を受けて、嫁をもらったんじゃ。それで、ワシも22歳の時に(事件のあった)隣の地区から嫁をもろうた


といいます。こう言ってはあるいは失礼に当たるかもしれませんが、極めて単純極まる人生です。毎年イベントをこなしていけばオッケーです。といってこれは何にも悪いことでもなんでもありません。真理は単純にして美しい。人生もまた単純であり、それ故に美しいのです。まあ、そう上手くいけばの話しですが。

とにかく「普通は」そういうことになっているのであり、「登美男」さんもごく「当たり前」のようにそのようにしたようです。このような「当たり前」を真っ当にやっていられる人は良いのですが、世の中にはそうもいかない人もいたわけです。都井睦雄君などは徴兵検査に落ちたものですから、こういう「美しい」人生を送る見込みは立たなくなってしまいました。しかしアッチの方は立つのですからそれはそれで困ったことです。

こういう「通過儀礼」のようなものがあると、それを通らなかった人はどうなるかというと、やはり「半人前」の取り扱いを受けることになるのです。たとえば結婚出来ないとかそういうことがあるんですが、要するに「劣等」の印を一生背負って行くことになります。よほど悟った人でなければ、普通でもそのような状態は耐え難いものであると思われますが、都井君のように餓鬼の頃になまじ優秀だったりすると、そのような先の見通しは尚更受け入れ難いものともなるでしょう。

村にはこんな「半人前」の先輩がいます。例えば「馬鹿に近いお人よし」と呼ばれていた樵の「岡本和夫」さんなどはその例です。この場合、「馬鹿」は「お人よし」を修飾する語でありますが、実際には「お人よし」の方が省略されがちなものです。こういう場合に、その人の奥さんが浮気のようなことをするのは普通のことですが、そのせいかどうか、「岡本」さんは4回も離婚しています。そして5人目の奥さんの「みよ」さんも、「岡本」さんの「馬鹿」のせいでビンボーだったこともあり金持ちである「寺井倉一」さんとの関係があり、また都井君とも関係があったものです。

「岡本」さんが「みよ」と「寺井倉一」さんとの関係を知っていたのかどうか判りませんが、知ったところで「岡本」さんにとって「寺井倉一」さんは抵抗し難い相手であったでしょう。しかし「岡本」さんは「みよ」と都井君との関係については大いに問題にしました。そこで都井君は土地の習慣により酒一升を買い求めて詫びに行きましたが、その際に炭焼兼猟師の「今田勇一」さんも一緒に行ってもらいました。このときは酒ばかりではなく自分が仕留めたという「兎の肉」も携えて行ったので「岡本」さんも喜び、みんなで宴会となったのですが、この「兎の肉」が実は都井君が飼っていた犬の肉だったというのは悪い冗談です。

この「今田勇一」という人も「お人よし」のようで、犬の肉を喰わされたばかりではなく、都井君が使う火薬を彼の狩猟免許で買わされています。これは違反なのですが、「今田」さんは知らなかったようで、都井君に利用される形になったわけです。

都井君はこんな風に「馬鹿」な人たちをハメたりしていたようです。都井君としては内心このような人たちを多いに蔑視していたようですが、都井君自身も彼らに非常に近いところにいたのに気がついていたのでしょうか。あたかも「岡本」さんは樵、「今田」さんは炭焼兼猟師と、農村の中では山に追い上げられるように生活していた人たちだったのですが、都井君も山で密かに射撃の練習をしていたのでした。そして都井君がついに最後を迎えたのも山の中に他なりません。

森深い山は「馬鹿」な「へのけ者」が恥辱に塗れた身を隠すには格好の場所です。それはまた他所との境界である「峠」であり、村からの出口でもあったのです。同級生が一斉に徴兵検査を受け、だいたい同時期に結婚する中で、そのようなパタンから逸れた人は「山」に向かうことになるでしょう。しかし都井君はそもそもそれ以前から、もっと若い頃から「出口」を探し続けていたようです。

それは「岡山の中学への進学」であったかもしれませんし、村の女たちの体に求める「大阪」であったのかもしれません。しかし何よりも自宅の屋根裏が村からの「出口」だったようです。そこで彼は「小説」を書いていたのです。その「小説」自体が既に発表されたものの翻案でしたが、それだけに尚更それは直接に外部とつながっていたのではなかったか。「オリジナリティ」などはあまり問題ではないのでした。彼はそのようにして外部と通信していて、例えば『雄図海王丸』の登場人物の1人が二・二六事件の青年将校のうち岡山出身の野中大尉と似ていると言われたこともあります。彼がそれを書いていた屋根裏部屋、村の真ん中にある奥まった暗いところが反転して外への通路となっていました。

これは「引きこもり」のように見えるのですが、多分実際のところ「引きこもり」に他ならないようです。そしてうまく「引きこもり」を続けることが出来れば、例えば彼が姉に漏らしたように「小説家」になりおおせていれば、もしかすると破綻は生じなかったのかもしれません。しかし彼が書き続けながら、どうやら「小説家」というのは無理のようだ、と気がついた時、そして自分と同級生の「只友」さんが「良子」さんと結婚したときに、彼の前途には「岡本」さんのように周囲から馬鹿にされながら生きながらえるという惨めな未来しか残されていないことがはっきりと判ったのではないか。

22歳で結婚の見込みがないということがかなり重大なことだと考えられたに違いありません。何だか知りませんが結婚しないと「一人前」とみなされないようです。一方で「一人前」でなければ「結婚」もままならないという事情もあるのですが、いずれにしても男性が「社会」の中で「普通の」位置を占めて生活して行くには、「女性」というものの存在が大きなウェイトを、いくら痩せた女性でも大きなウェイトを占めるように見えます。実際には女性にしても結婚相手を好きなように選択出来るわけではありませんが、少なくとも誰かを「嫌う」ことは彼女たちに許された数少ない自由の一つでもあったでしょう。その一方で嫌われたりした男性の方は、「正規の」ルートで生きて行けない、生きようとしない者を蔑み、惨めにする「社会=女性」という抑圧装置があるように見えて来ます。このとき、彼は自分が「社会=女性の敵」であったことに気がつくでしょう。

山男よく聞けよ 娘さんにゃ惚れるなよ
娘ごころはよ 山の天気よ
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2008年05月19日

私は如何にして鳥を殺す道具を作るのを止めて拳銃を愛するようになったか

事件後、都井睦雄君の家は「松浦登美三」という人に50円で売却されたそうです。都井君が岡山県農工銀行で400円を借りたときの担保が農地三反歩でしたが、1反をだいたい10アールとすると、中国地方における2007年度の平均田地価格は965万円ですので、三反歩の価値は現在では約3000万円に相当します。したがって1円が7万5千円になりますから、50円は375万円になりますか。

もっとも、農地の評価は当時と現在ではかなり違うようですし、戦前の1円は今の1万円くらいに相当するという話しもある一方で10万円相当だという人もいるのでよくわからないんですが、老朽家屋でもあり、家屋にはほとんど価値がなかったようであり、「松浦」さんは早速家屋の取り壊しにかかることになります。そのさい屋根草を11円で「山田武蔵」さんに売却します。事件のあった年の11月27日に、この山田さんが屋根を取り壊していたところ、家屋中央部の屋根裏に「至極幼稚なる玩具の如き模擬拳銃一個」を発見しました。

これは発射の機能ない形だけのものであったようですが、これで僕が思い出したのが「カリベーヌ」というものでした。「カリベーヌ」とは、1835年6月3日に母親と妹と弟を斧で惨殺したピエール・リヴィエールが製作した、「誰も見たこののないような、鳥を殺す道具」のことです。それがどのようなものであったのか、今では知る由もありませんが、それは「鉄砲に似た」ものであったということです。彼はそういうものを作ったものの、思い通りに作動しなかったようで、これを「埋葬」したといわれています。

この「埋葬」の際にも、それは彼の年少の友人たちとともに行なわれたのでした。彼は自分と比べて極めて年少の、9〜10歳の少年たちを友人としていました。それというのも彼は一般には「低能」とみなされており、同年輩の人々との付き合いが出来なかったからです。彼は少年たちを連れて手製の弓屋を射たり、小動物を磔刑に処したりしていたのですから、なるほどちょっと「低能」だと思われても仕方のないようなところがあるようです。

しかしながら彼も学校の成績は優秀であり、畑仕事をするようになっても聖書や公教要理などの宗教書、ローマ史などの歴史関係や科学関係に至る様々な書物を読んで学習に励んでおり、聖職者になることを考えていたようです。彼は「無限性」とか「栄光」の観念に取り憑かれていて、自分は他の人たちとは違うんだと思っていました。しかし自らの優秀さに固執する一方では実際の社交場面ではからきしダメで、ぎこちない、というのでは済まないような相当程度不自然な挙動にでてしまうことがあったようです。新発明の「カリベーヌ」というのは、有用な発明によって知的に優位に立とうとする試みであり、「社会」のなかでの劣位を補償しようとしたものでした。

このことには彼が自らの「偉大さ」のために「肉欲」と戦ったこと、わけても「近親相姦」の誘惑と格闘していたことが絡んでいると思われます。彼は近親相姦の罪を極度に恐れ、家族の女性に近づきすぎてしまったと感じた時には、手で何かヘンな仕草をしたようです。彼には強烈な「肉欲」、なかでも祖母か妹を対象にした「近親相姦」への強い欲望があったようですが、「優秀性」へのこだわりのためにどっかテキトーなところで「肉欲」にふけることが出来ず、それが反動的に女性一般への蔑視、敵視となっていきました。

彼は犯行及びその動機、そして自分自身について手記を残していて、そこではいかに父親が母親によって酷い目に遭ったか、ということが克明に記されています。それを読むと確かにヒドイ女がいたもんだな、と思うことが出来ます。しかしこの事件に関する詳細な資料があまりないために、ここで述べられている母親並びに妹の「悪行」の数々の真偽のほどについては判定の難しいものです。これは近親相姦の欲望が反動形成した思い込みなのかも知れないのです。とはいうもののここで述べられている事柄はそんなに突飛なことでもなく、まあそんなこともあるだろうな、という程度の真実性が感じられないわけではありません。これから結婚を考えている男性諸君には一読の価値のあるものです。

したがって彼の犯行の動機として挙げられているのは、第一に悪い母親から父親を救うためというものです。それは人間の法律を超えた「神」の正義、制度としての宗教を超えた「神」の裁きであり、彼はそのような立場に立って事を行ったのでした。彼自身の意識としてはその犯罪は「正義」に適うことであり、それが彼の「栄光」となったのです。

都井睦雄君も遺書を三件まで残しており、そこに述べられているのは女性たちへの恨みつらみに他なりません。これが姉に対する近親相姦的欲望との関係で読めることは指摘される通りです。しかしながら筆が進むにつれて彼は女たちの「裏切り」を「近隣の冷酷圧迫」というふうに一般化し、そのような「社会悪」への復讐、という形に位置付けてゆきます。そして最後には女性ではない特定の人物の名を挙げて、「この世からからもうむるべきだ」などと言い出すに至っては、彼もまたある種の「正義」の立場に立ったものの言い方をしているわけです。もはや殺人は公益性を持った目的のために違法性を阻却されかねない勢いです。

ピエールの妹は母親と共謀して父親を苛めていたのでこれも殺さなければなりません。弟は「母親と妹を愛していたから」殺されるべきなのです。「悪」を愛するものもまた「悪」でなければならず、したがって殺される。これも都井君が恨みのある女性の一家をまとめて殺してしまったのと軌を一にします。ピエールの殺人と都井君の事件とは極めて類似していると考えられます。どちらも壁にぶつかって餓鬼にしか相手にしてもらえない「優秀性」が、自分を蔑む「社会」が奉っている「正義」を奪い取ってきてもう一度「社会」の連中の上に立ち、そいつを滅多矢鱈と振り回して絶対的な位置からうっぷんを晴らすのです。この意味で「社会」はその「権威」を逆用されて自分自身から攻撃を受けるのだといってもいいでしょう。要するに村を外部から守るためのメカニズムが村の内部の排除の対象によって村そのものに対して作動する場合ですね。
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2008年05月17日

私は如何にして犯罪について考えるのを止めて遺族を愛するようになったか

映画『丑三つの村』が「恋愛映画」になってしまったのは主演の古尾谷雅人のせいなのか、監督の田中登の考えなのか、脚本を書いた西岡琢也のたくらみか、プロデューサーの奥山和由が悪いのか、はっきりしないのですが、もしかすると奥山さんならやりかねないような気もします。

「地獄」そのものであるような「孤独」の砂漠でのたうち回るかわりに「恋愛」でねっとりと甘ったるくなってしまった「犬丸継男」には、しかし映画においては原作とはまったく別の「動機」が与えられています。「ダダアキ」という「他所者」が村を荒らしていますが、実は「タダアキ」がそうするのには誰かが誰かに畑を騙しとられた報復という背景があるらしいのです。しかしある夜「継男」は、村の実力者である「赤木勇造」(それはもしかすると畑を騙しとった人かも知れません)を中心とした人々がこの「タダアキ」を自殺を装って殺害してしまうのを目撃するのです。

「継男」は不注意にも、「勇造」(夏木勳)たちがいる前でそのことを警官に訴えようとするのですが、「勇造」たちにキチガイ扱いされ、嘲笑されて追い返されます。しかし「勇造」たちの嘲笑は、笑う者たちが笑われる者を排除するというような通常の嘲笑には留まらず、はっきりと殺意を含んでいたのです。

そこでこのシーンの直後に「継男」は猟銃を買い求め、「犬丸継男の戦場」地図を描いて「戦争」のシミュレーションを開始します。したがって「継男」の叫びは原作にある「なんでおれだけさせてくれんのじゃ」というような、そこらのモテない童貞が言うようなセリフではなく、「殺せるもんなら殺してみやがれ」という、甚だしく乱暴極まるものに置き換わっているのです。

既に臨戦態勢に入っている「継男」は、射撃の訓練をし、いつも銃を持ち歩きます。はては以前より情交のあった「赤木ミヨ子」(五月みどり)の夫「赤木中次」(石橋蓮司)とトラブルを起こして銃口を向けるにいたり、ついには「赤木中次」一家が村を捨てて逃げるという騒ぎに発展します。

ここに至ってついに「勇造」は「継男」に「村の人間や思って今まで何も言わなんだが、好き勝手もええかげんにしとけや」とたしなめますが、「継男」はそれに対して「殺すのやったら早う殺してくれや」と応じます。「勇造」は「近いうちにみんなと相談して、おまえの処遇を決めておばやんに報告に行くさかいな」と言って立ち去ります。これがいわば「宣戦布告」だったのであり、「継男」は直ちに行動に移るでしょう。

このように映画では「継男」が「勇造」たちからの攻撃を予期して防衛に走ったことを強調しています。つまり村を外部から守るためのメカニズムが村の内部に向かって作動を始めた時に、その反作用として村の内部から村自身を滅ぼす動きが生じたというわけです。ちょうど実際の「事件」があった前年には盧溝橋事件から南京大虐殺に至る時期であり、この山村でも「畑を騙しとる」という「対外侵略」の行なわれていたことが示唆されていることから、「勇造」が外国を侵略し国民に銃口を向ける「軍隊」の隠喩として描かれていることは明白でしょう。

そこで「継男」は一種の「レジスタンス」のようなことになるわけですが、随分と立派になったもんです。実際とはだいぶ違うような気もしますが、こうなると「ヒロイン」がいなくてはならない理由もはっきりして来ます。抵抗運動の戦士には「今日は帰れない」とか「さらば恋人よ」とかを歌う相手がいなくてはお話しにならないのです。

もっとも「継男」はそんなハイカラな歌を歌うわけではありませんが、日本の歴史上にもそんな「レジスタンス」があったわけではありません。そこで山奥に繰り広げられる隠喩劇をそのままで一般化しなければならないのです。つまり自覚した組織的な抵抗が存在しないところには犯罪が現れるということになります。もとよりそれはこの映画のように、現実の犯罪を一度小説にして、さらにその原作をかなり裏切る形で作り替えたときに始めて出てくる話しですから、あまりアテには出来ません。このような次元で済ませてしまうのは、犯罪理解としてちょっと浅薄なような気がしますし、それが『天国からのラブレター』のプロデューサーの言ったことだとすれば、なおさら疑わしいって感じ。
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2008年05月16日

子どもに読ませたくない日本語

日本PTA全国協議会によれば「ロンドンハーツ」が5年連続で「見せたくない番組」の1位だったそうですが、そんなのよりも霊能者番組はどうなんだとか、PTAはそんなことをやっているからだめなんだとか、いやそうではない「見せたくない番組」で挙げられた番組はほとんど歴史に残る優れた番組であってPTAは見る目があるんだとか、いろいろと言われておるわけですが、しかし今の「ロンハー」は以前ほど面白くないです。

小中学生に携帯持たせず=教育再生懇の中間報告素案

 政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)がまとめた中間報告の素案が16日、明らかになった。インターネット上の有害情報対策として「小中学生に携帯電話を持たせない」と明記した。同懇談会は素案をたたき台に、6月中にも中間報告をまとめる。
 素案はまた、携帯電話使用を認める場合は、有害情報を閲覧できないように遮断する「フィルタリング」を「法的に義務付ける」よう求めている。また、携帯電話の機能を「通話と居場所確認に限定する」案も示している。

2008年5月16日 時事


これが「教育再生会議」の後継組織であります。何を考えているのかよくわかりませんが、「再生」された「教育」が「教育」ではないことは確かなようです。これはあたかも「再生」された演奏が演奏そのものではないことに似ていますが、「懇談会」では単に「再生」するだけでは飽き足らずに、主要なパートのチャンネルをカットしたり、エフェクトをかけたり編集したりして全く違うものにしてしまうようです。

「インターネット上の有害情報対策」がどうして「教育」になるのか、事情がよくわからない人もいるでしょう。僕もよくわかりません。本来ならば情報の受け手への「教育」によって「インターネット上の有害情報」に対抗する力を身につけさせることが話し合われそうなものですが、そこは元の素材に敬意を払わない「教育リミックス会議」です。「教育」のことにはあまり関心がないようです。この人たちは教育をするかわりに、なんと情報の遮断に興味を示しています。

そもそも「有害情報」が果たして「有害」なのか、しかし誰にとって?という問題もあるわけですが、それはともかく、この人たちは他人に目隠しをして耳を塞ぐことをもって「教育」だと言い張っています。普通に理解されている「教育」とはかなり異なるようですが、「再生」された「教育」ですからそういうことも大いにあり得ることです。なにしろこの「懇談会」では「趣旨」として

活力ある日本、世界に貢献する日本を支えるのは人である。社会が大きく変化する時代にあって、明日の日本を担う若者を育てるためには、学校のみならず、家庭、地域、行政が一体となって、不断に教育の改革に取り組んでいく必要がある。このため、21世紀にふさわしい教育の在り方について議論するとともに、教育再生会議の提言のフォローアップを行うため、教育再生懇談会を開催する。


と言っているのです。本当は「再生」よりも「改革」をしたいらしいのです。これにはもちろん「教育」という概念の「改革」も含まれているのですから、「教育」という言葉の意味が大幅に、もしかすると全く正反対に「改革」されてしまったとしても不思議ではありません。

しかしながら、国民が「望ましくない」情報にアクセスすることを妨げることが「教育」であるとすれば、これはやはり識字能力に注目すべきでしょう。国民が文字を読み出すと碌なことがありません。その証拠に「インターネット上の有害情報」のほとんどが日本語による文章で出来ているか、文字を解さなければアクセスすることが出来ないようになっています。学校では文字を教えるなどはもってのほかであり、教科書は識字能力者をあぶり出すために使用すべきです。必要以上に、例えば平仮名だけではなくてカタカナも読めるとか、「一」とか「二」などのいくつかの漢字が読めそうな生徒は容赦なく頭をぶん殴って忘れさせるのが「教育」の真髄であります。

これは別に冗談ではなく、「懇談会」では「携帯電話の機能を「通話と居場所確認に限定する」案」を出そうとしているのですから、まずは生活に密着した携帯電話から「文字」を追放しようという意欲に満ちあふれています。「教育」の「再生」は国民の非識字化の方向で進められると考えうる十分な証拠があるといっていいでしょう。ちなみに読み書きが不自由な「教育再生懇談会」のメンバーは

赤田英博  社団法人日本PTA全国協議会会長
安西祐一郎 慶応義塾長
池田守男   株式会社資生堂相談役
小川正人   放送大学教授
木場弘子  キャスター、千葉大学特命教授
篠原文也   ジャーナリスト
菅原眞弓   東京都立川市立第九小学校教諭
田村哲夫  学校法人渋谷教育学園理事長
野依良治   独立行政法人理化学研究所理事長
若月秀夫   東京都品川区教育委員会教育長

のみなさん。名前の漢字が一つだけ多いのに敬意を表して安西さんが座長で、あとはみんな四文字の似たり寄ったりですが、「教育再生会議」の座長としてノーベル賞の権威を地に落とした野依さんと、どうやら暇を持て余しているらしいキ印教徒の池田さんが「留任」の形です。PTAの赤田さんも入っていますが、お笑い番組の宣伝をしているのかどうかは不明です。

木場弘子さんはプロ野球選手と結婚した元女子アナ。上手く立ち回っているようです。篠原文也さんは元日経でテレビ東京解説委員。「永田町周辺居住者」の立場から、つまり要するに身内びいきの「政治ウオッチ」をしている心強い味方です。そして田村哲夫さんは「アメリカの反知性主義」の研究成果を日本で生かそうという実践的な学校経営者です。

あっちでは文字が26しかないのに読めないとか書けないとかいう人がいっぱいいますが、こっちは平仮名だけでその倍もあるんですから楽勝です。しかもそのうえ、日本への留学生を増やして無知と文盲を輸出して相手国の国力を衰微させようという「反知性化戦争」を企んでいるのですから遠大な計画であります。もっとも留学生はレベルの高い大学がある国に行きたがるものですから、無理にでも連れてこなければなりませんが、その点日本には北朝鮮に「留学」して来た人がいますから拉致の技術も万全です。
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2008年05月15日

私は如何にして姉と寝るのを止めて爆弾娘を愛するようになったか

映画『丑三つの村』の「問題」は田中美佐子さんに集中しているようです。田中美佐子さんがヌードシーンを不満としているためにこの作品はDVD化されていないとのことで、現在のところ「幻の映画」のようになっています。観たい人は以前に松竹ホームビデオから発売されていますから、それを探さないといけません。

この映画は「成人映画」ということになっているのですが、それは何も田中美佐子さんのヌードがイヤラシいからではなくて、「全編が残虐で非道」なのがその理由であります。これだけでも立派な作品であることが判ります。古尾谷雅人が村人を撃ちまくります。弾着シーンではトビー門口さんの技術が見所であります。っても今の若い人は知らないかもしれません。

さてその田中美佐子さんなんですが、この映画ではヒロインの「赤木やすよ」を演じています。しかしこのキャラクターはかなり大胆に変更されています。原作の西村望『丑三つの村』ではこれはほぼ「寺井ゆり子」に相当する人物なのですが、そもそも原作には「ヒロイン」などというものは登場しません。彼女はたしかに一度は主人公「犬丸継男」と結婚の約束のようなものをしていますが、その後徐々に疎遠になっていき、他の男と結婚してからは主人公との関わりは概ねないと言っていいのです。そして里帰りした際に襲撃を受け、隣の家に逃げ込んで喉に怪我をします。

ところが映画では「ヒロイン」ですから、彼女は主人公としょっちゅう関わることになっています。原作通りに結婚の約束をしながらもやがて他家に嫁するのは原作と同様ですが、そこから離婚して帰って来てからも何かと主人公と関わりがあります。その中に「問題」の「ヌードシーン」もあるわけです。

出戻った「やすよ」の入浴を「継男」が覗くシーンがあって、このときにカメラは田中美佐子さんの足元から全身を捉えます。そのあと、こともあろうに「継男」は浴室に乱入してしまうのです。そして「やすよ」を抱きすくめるのですが、浴槽の湯の中に喀血してしまいます。そうすると「継男」は手桶でそのお湯を頭からかぶるのです。すると「やすよ」もその手桶を奪うようにして自分もそのお湯を、喀血が混じっていて結核菌が沢山いるやつをかぶってしまいます。

これは村中で「やすよ」だけが「継男」を結核患者として排除・忌避していないことを現していて、良いシーンですから田中美佐子さんもちょっと考え直してほしいところであります。その後、再婚の決まった「やすよ」と「継男」の結ばれるシーンがあって、いよいよ「継男」は犯行に取りかかるというわけですが、その前に「継男」は意外な行動に出ます。なんと他所の村に嫁いでいる「やすよ」に、犯行声明文を送るのです。

ちなみに原作では風呂覗きのくだりは全然別の人、「やすよ」が最初に結婚した相手の母親と妹の入浴を覗くことになっています。当然血を吐いたりお湯をかぶったりということはありません。また、たしかに「継男」は犯行前に「やすよ」に手紙を書いていますが、それは「やすよ」をおびき寄せるためのニセの手紙なのです。

むしろ映画の「犯行声明」は、実際の都井睦雄君が、がやはり遠くに嫁いでいた彼の姉に書いていたかも知れないものであることから、映画における「赤木やすよ」は原作の「赤木やすよ」と姉の「ふみ子」、つまり「寺井ゆり子」と実姉「みな子」を合成したキャラクターであると看做すことが出来ます。都井君はお姉さんをとても愛していたことが知られているのですが、映画にはお姉さんの「ふみ子」は登場しないのです。

それで映画では「犬丸継男」は、この姉代わりでもあり、しかも実姉とちがってオマンコも出来る「ヒロイン」を得て、事前に犯行を予告するまでに心を開いているわけですが、まあたしかにその女は再び他の男と結婚するわけだし、自分は結核で余命幾ばくもないんだとしても、そういう女性がいるんだったら何もあんなことをしなくてもいいんじゃないかという気もしてしまうのです。

原作では「継男」は「やすよ」に徹底的に振られているばかりか、他の女性たちからも蛇蝎の如く嫌悪され、村の中では「へのけ」にされ、青年団への入団の勧誘もなく、完全に孤立した状態に置かれています。そしてそれは最終的には性的な孤独であって、「共同の閨」としての村の性的なネットワークに参入出来ないこと、「なんでおれだけさせてくれんのじゃ」という絶望的な怒りなのです。そうであってこそ、あるいは銃弾を女たちの下半身にぶち込み、あるいは日本刀で女たち刺し殺しまくるという惨劇にも納得がいくというものでしょう。

ところで映画は「やすよ」が「継男」の子を身籠ったことを暗示して終わります。これは脚本を書いた西岡琢也の完全な創作でしょう。それは「鬼の子」であり、「餓鬼を作ることは世の中に爆弾を投げ込むことだ」というまったくもって正しい思想です。ちなみにこの餓鬼は僕の親の世代ということになります。現在70歳くらいの人たちです。しかし最近の文献によれば、これは何も「正しい思想」でもなんでもなく、実際にあったことなのではないかという可能性が指摘されています。「寺井ゆり子」と都井君との間に産まれた娘がいるという話しがあるのです。もっともこの件は明らかになることはないでしょう。彼女が本当に「爆弾娘」であったのならともかく、そうでもないようですから。
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2008年05月13日

私は如何にしてクヨクヨするのを止めて宴会を愛するようになったか

昨年から今年にかけて女がらみでショットガンを持ち出してぶっ放すお兄さんや、経済的な理由で進学を断念させられた挙げ句了解不能な凶行に及ぶ餓鬼が出ました。こういう人たちはあまり後先の考えというものがなく、バレないように工夫しようとか、きちんと逃げようという形跡が見られません。刑務所上等、死刑上等な人たちですから困ったものです。金もいらない、名もいらない、命もいらないという奴ほど始末に負えない者はいません。

こういう人たちに「国家の大事」を任せる、というのもなかなかゾッとする話しですが、金も名も命も惜しいという連中が特に悪気もなく他人を死ぬに任せるのが今の政治の現状です。悪気のない方がよっぽど恐ろしいような気もしますが、どっちにしても死ぬのはこっちなのですから大差はないようです。

まあ、こういう「割り切った私たち」の大先輩だと思われているのが津山三十人殺しの都井睦雄君でありますが、『週刊朝日』の5月23日号で

実録・津山30人殺し
「八つ墓村」事件70年目の新証言

なんてやってますので、見た人もいるでしょう。これは「隣町に住む90代の男性Aさん」こと、筑波昭の『津山三十人殺し』では「東加茂村桑原の農業只友登美男」とされている人物の「新証言」です。

以下「筑波本」に従いますが、「登美男」さんは22歳の時に隣の地区から嫁をもらいました。その嫁の実家が都井君の近所だったのです。この「嫁」というのが「西川秀司」方の長女「良子」さん(当時22)。都井は自宅から始めて3軒目にこの家を襲い、「良子」さんの母親「とめ」さん(当時43)をはじめ一家4人を皆殺しにしています。

「只友登美男」さんに嫁いでいた「良子」さんがこの日帰郷していたのは、母「とめ」が風邪を引いた見舞いとも言われていますが、夫の「登美男」さんによれば、結婚して3ヶ月ほどたった5月20日、「登美男」さんの妻「良子」さんの友人である同郷の女性が、「弟が結婚したから、祝いをかねて里帰りする」から一緒に帰らないかと誘ったといいます。

この女性が「寺井ゆり子」さん(当時22)です。「ゆり子」さんは都井君のいわば「本命」ということのようですが、都井君によれば「良子」さんとも「関係」があったとのことで、たまたまこの日2人が里帰りしていたのが犯行のきっかけとなったといわれています。「登美男」さんもこの日は「良子」さんの実家に誘われたのですが、「どうにもたいぎくて行く気にならんかった」ので行きませんでした。もっとも妻の実家に行きたがる夫も少ないのですが、「登美男」さんは危ないところで難を逃れたというわけです。

なお、「登美男」さんは「良子」さんと都井君の関係について否定していますが、夫ですからそう言うのも無理もありません。その一方では「ゆり子」さんについては、彼女が嫁に行く時に都井君が茅を積み上げて通せんぼしたという話しをして、2人の「関係」を強調しています。

「ゆり子」さんは都井君を振ってこの年の1月に同じ部落の「丹羽卯一」と結婚しましたが、都井君がこれにも夜這いをかけるので3月に離婚しています。5月には上賀茂村大字物見の「上村岩男」と再婚していて、この度の里帰りは再婚してから2週間目ですから、これは土地の習慣に習ったもののようです。「通せんぼ」の件がどちらの結婚の際のことであったか不明ですが、いずれにしても70年も前のことであり、「登美男」さんもこれを伝聞として語っているようですから、どれほど当てになる話しかはわかりません。

実家に帰って来ていた「ゆり子」さんは都井君の襲撃を受けて直ちに家を脱出し、既に惨劇の舞台となり終わった「西川秀司」方へ向かいますが、途中で転んで「寺井茂吉」方へ逃げ込みます。この家は都井君の襲撃計画に入っていなかったのですが、「ゆり子」さんを匿ったために襲撃の対象となり、「茂吉」の父「幸四郎」が射殺、四女の由起子は大腿部に銃創を負います。都井君は襲撃を諦めて次の家を襲いに行きましたが、また襲ってくるかも判りませんから、この家の人々と「ゆり子」さんは床下に隠れて難を逃れました。

ところが「登美男」さんが今回語ったところによると、都井君は「おまえを残しちゃいけんのや!」と言って、床下に隠れた「ゆり子」めがけてバンバン撃ち込んだようです。その際「ゆり子」さんの喉元を銃弾がかすめ、擦過傷を負わせました。

多数の文献においてこの傷については述べられていないものの、西村望の小説『丑三つの村』には、「ゆり子」さん(小説では「やすよ」)が床下に隠れる前に「のどのあたりを射たれたらしく、しきりに素手で血を拭いている」様子が描写されていますから、怪我を負ったことは確かであると思われます。傷そのものは大したことはないようですが、「登美男」さんが言う通り「もう少しずれてたら即死」というところだったのです。「全ての原因」のように言われがちで、「登美男」さんにとっても「良子」さんを里帰りに誘って殺される原因を作ったのですから悪印象を持っているわけですが、この「ゆり子」さんはたしかに「運が強い」ようです。山岸涼子さんははっきりと「悪運が強い」と書いています。

この「ゆり子」さんという人は、ちょっと興味深い人物であると言えるのですが、西村望の小説を奥山和由がプロデュースして映画化した『丑三つの村』という映画では、この「ゆり子」にあたる「やすよ」の設定が大幅に変更されていますので要注意です。床下に隠れたりなんかしないのです。そればかりか事件の最中にいかにもおかしな登場の仕方をします。

ともあれ、この記事の中では都井君が事件の1時間前まで自宅裏手のお堂で村の若者5、6人と宴会をやっていたという話しがありまして、これは初耳でした。家でおとなしく計画を練っていたか、いろいろ考え込んでいたものとばかり思っていたのですが、みんなでお酒を飲んで、それからしっかりと準備を整えてから大殺戮に取りかかったというのです。何だか豪放な感じがしますが、「結核」で線の細いような印象とは裏腹に大虐殺をやってのけ重装備で山道を駆け上がるという「睦やん」は、やっぱりちょっと判らん奴です。
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2008年05月11日

血まみれ母の日

第1回ベストマザー賞に黒木瞳さん
「働いていて、キレイだけど強そうな女性」が理想
軸丸 靖子

 5月11日の母の日を前に、憧れや目標となるお母さんを選ぶ「第1回ベストマザー賞2008」(NPO法人ひまわりの会主催)が9日、発表された。個人賞5部門のうち、芸能部門で選ばれたのは女優の黒木瞳さん。政治部門では自民党衆院議員として初めて出産した小渕優子議員が選ばれた。
 賞は、母子手帳配布窓口にハガキつきリーフレットを置き、出産を控えた女性に「こんな母親になりたい」と憧れる有名人を聞き、ハガキで投票してもらった。芸能、政治、学術、経済、文化の各分野から「ベストマザー」を選出したほか、出産育児支援に顕著な取り組みのあった自治体や企業も選んだ。
 個人賞でベストマザーに選ばれたのは、黒木さん、小渕さんのほか、昭和女子大学学長で「女性の品格」著者の坂東眞理子さん(学術部門)、公認会計士で「お金は銀行に預けるな」の著者・勝間和代さん(経済部門)、料理研究家の栗原はるみさん(文化部門)。
 特別賞としては、自治体部門で福岡県、東京都世田谷区、埼玉県さいたま市が、企業部門ではジョンソン・エンド・ジョンソン、NEC、カスミの3社と、水産物市場改善協会が選ばれた。
 東京都内のホテルで9日あった授賞式では、受賞者らに100本の赤いカーネーションの花束を贈呈。登壇した黒木さんは、
 「10歳になった娘に10年分ありがとうと言われたようで嬉しい。同時に身が引き締まる思い。これからお母さんになる若い女性たちに、頼もしい存在と思われるよう頑張らなきゃと思う」(黒木さん)
と喜びを語った。
 一方、出産してまだ7カ月という小渕さんは、
 「正直、私はまだお母さんとしては不十分。勉強しながらやらせていただいている。頑張れと言う意味で頂いたんだと思う。これから産もうかという人に相談を受けることもあるが、大変なこともあるけれど、自信を持ってチャレンジして、といいたい」
と抱負を語った。
 高校3年、中学3年、小学4年の3人の子どもを育てている勝間さんは、
 「娘たちには受賞するといったら『ベストワーカーだけどベストマザーではないよね』『でもベストな子どもを育てたマザーという意味もあるからいいんじゃない』といわれたので、謹んで賞をお受けしようと思った」
と会場の笑いを誘った。
 すでに子育てを終えた坂東さんと栗原さんは、
 「働いていたから、子どもと過ごせる時間は少なかったが、その中でベストを尽くそうとはしてきた。そういう意味でのベストマザーかと思う。いまの若い人たちに、本当に頑張ってね、という応援の気持ちでいる」(坂東さん)
 「家族が幸せでいることが私の幸せという気持ちでやってきた。(若いお母さんに選ばれた理由は)子育てでも仕事でも『どうせやるなら楽しくやりましょう』という姿勢が届いたのだと思う」(栗原さん)
と、次世代へのエールを込めた感謝を述べた。
 日本マザーズ・デイ委員会の会長・野田聖子衆議院議員は、第1回の受賞者について
 「いまの妊婦さんたちにとって、憧れる対象は働いていることが前提のよう。受賞者はみなさん強そうですよね。キレイだけど強さを感じる、そういうイメージが(憧れる母親像に)求められているのだと思う」
と語った。

2008年5月9日 オーマイニュース


「芸能、政治、学術、経済、文化の各分野から」選んだんだから「働いていること」は「いまの妊婦さんたちにとって、憧れる対象」の条件でもなんでもなくて、この「ベストマザー」に選出されるための必要最低条件になっているだけでしょう。さすがは野田聖子さん、さっぱりわけがわかりません。とはいうものの、「芸能、政治、学術、経済、文化」という「分野」が、比較的子育てがしやすい「分野」として「妊婦」の「憧れ」になっているのかもしれません。「比較的」というのは「農業」とか「会社員」、「店員」や「パートタイマー」、「店舗経営」、「ソープランド勤務」、「看護婦」などの「各分野」と比べて、ということですが。

したがってそれらの「各分野」から誰が選出されているかということはどうでもいいことです。しかし実際に「妊婦」の「投票」によるものだとすると、ここに「妊婦」における興味・関心の傾向が垣間見れるのかもしれません。なにしろ僕などは外見はともかくとして実際には「妊婦」ではないので、黒木瞳に10歳の娘がいることも知りません。「黒木香」に名前が似た人、くらいの認識しかなかったので仕方ありませんが、「子どものいる女優」といわれて急に思いつくのは三田佳子だけです。「芸能」だとスザンヌの母のキャサリンが思い当たります。しかし黒木瞳さんは「理想の上司」とかそういうのによく名前が挙がっています。そこらへんのからくりはよくわかりませんが、世の中では黒木さんはそういうことになっているようです。

小渕さんは最近子どもを産んだ議員として知られていますし、「学術」などは一般の「妊婦」が必ずしも詳しくない分野ですから、坂東眞理子さんになっちゃうのも仕方ないでしょう。本が書店で平積みにされているのが一つの指標となります。勝間和代さんも同様です。「文化」というと素人はすぐに「作家」とか「声楽家」とかを思い浮かべてしまうところですが、「妊婦」にとって「文化」とは「文化包丁」ですから、栗原はるみさんということになります。さすがは「妊婦」、よく「食育(笑)」の藤野真紀子のことを思い出さなかったものです。といっても藤野さんのことを思い出すのは、今では誰にとっても大変困難なことなのです。

このところマスコミなどで「母の日の起源」の話しを紹介しているようですが、この元ネタが「ひまわりの会」です。この法人のHPによると

起源は17世紀のイギリスで復活祭(イースター)の40日前の日曜日を 「Mothering Sunday」として奉公中の子供達が年に一度、里帰りをする日としたのが始まりです。 その後、1900年代アメリカ・ウェストバージニア州で教師のアンナ・ジャービスという人の母親が亡くなりました。 やがて、彼女がフィラデルフィアの教会で記念会を持ち白いカーネーションを贈ったのが一般的になる始まりと言われています。
http://www.best-mother.jp/about_md/index.html


というのが今日流布されている母の日の起源に関する話しの内容ですが、これはかなり極端に端折ってしまっているので、なんだかわかりません。何故アンナ・ジャービスの母親を偲ぶことがそんな影響力があったのでしょうか。何よりも西洋の「薮入り」みたいなものとの関係がよくわかりません。実は彼女の母親アン・ジャービスは、当時「アンナ・ジャービスという人」よりもよほど有名であったのです。

ウェストヴァージニア州の小さな教会の牧師の妻であるアン・ジャービスは色々な社会活動をしていて、1858年に「Mother's Day Work Club」を結成して病人のための募金活動や公衆衛生のための活動を展開しました。南北戦争の時にはこのクラブは中立を宣言して南北双方の傷病兵の看護に当たります。さらには「Mother's Friendship Day」というイベントを企画し、双方の兵士や住民を招いて和解を促進しました。敵同士を一堂に会するこのイベントは、しかし混乱に陥ることなく大成功を納めたといいます。

このような活動を通じて、アン・ジャービスは大きな影響力を持っていたようです。たとえば南北戦争終結後、女性参政権運動家のジュリア・ワード・ホウが、おそらくアン・ジャービスの「Mother's Day」にヒントを受けて「Mother's Day Proclamation」を発表し、毎年「Mother's Day for Peace」を行なうことを提案します。「proclamation」といのは「宣言」というか「布告」、「宣戦布告」の「布告」に当たります。これはいわば「宣戦布告」のカウンターとしての「布告」といった意味合いでしょう。夫や子どもたちを戦場に送ることを拒否する「布告」なのです。

私たちの夫は、虐殺の血の臭いに満ちて帰って来るべきではない。

私たちの子供は、今まで私たちが教えてきた慈悲、寛容、忍耐を忘れるために、戦争に連れて行かれるべきではない。

私たち、この国の母親は、どこまで優しくなっていくのでしょう。

自分たちの子供が、相手の国の母親の子供を殺すのをだまって見過ごすほどに優しくなってしまうのでしょうか。

http://www.ochanoma.info/sc_mothersday.html


アン・ジャービスはいわば平和運動や福祉活動における名士なわけで、そうでなければ単なる田舎の女教師の母親の追悼式が隣の州の都会で行なわれるはずがありません。「母の日」とはアン・ジャービスを記念する日だったのであり、彼女の思いを受け継ごうというのが主旨なのです。その影響は「母の日」を通じて今日の極東の島国にまで及んでいるわけですが、「ひまわりの会」は大切なところを削除しています。アン・ジャービスの事績を紹介しない「母の日」の解説は、その起源における平和志向を隠蔽しようとしてるかのようです。

ちなみに「ひまわりの会」の主立ったメンバーはこんな人たちです。

会長
野田 聖子 ( 衆議院議員 )
理事
加藤 登紀子 ( 歌手、UNEP国連環境計画日本親善大使 )
アグネス・チャン ( 日本ユニセフ協会大使 )
南 裕子 ( 国際看護師協会 会長 )
東郷 良尚 ( 財団法人 日本ユニセフ協会副会長 )
奥 貴敏 ( NPO法人ひまわりの会 創設者 )

こんなところで何やってんだか知りませんが、加藤登紀子って反帝学連の藤本敏夫と結婚した歌手ですな。藤本敏夫はその後「自然」とかそっちの方に行って成功した人で、「大地を守る会」って有機栽培の野菜売ってるでしょう。あれを始めた人です。「大地」っていうと「血と大地」の「大地」ですか。違いますか。そうですか。ほー。パール・バックの方ですか。あの「大地」は喰えるんですよ。「鴨川シーワールド」で知られる千葉県の鴨川という所に「鴨川自然王国」という農場があって、彼が死んだ後も加藤登紀子はそこの理事とかやってるはずです。この人の「UNEP国連環境計画日本親善大使」というのはいわば「本物」でして、これとならべておくと「日本ユニセフ協会大使」もなんだかエラそうに見えるのかもしれませんが、「ひまわりの会」のHPの中には「ユニセフの親善大使」と書いちゃってるところもありますからhttp://www.npohimawari.or.jp/conversation/05/、くれぐれも油断は禁物であります。

ところで「ひまわりの会」の創設者というのも加藤さんのご同業のようで、「地産地消・食育のショッピングサイト」HAI!HAI!というのを運営している株式会社ハイハイの奥貴敏さんであります。やっぱり農産品などを販売しています。全国津々浦々の「地産地消」を東京でコントロールするのは大変そうですが、よく見ると「自分の出身地」の産品を買うことが出来るのだそうですから、「地産地消」とはちょっと違うんじゃないかという気がしますが、ああいいう業界のことはよくわかりません。この会社も「ひまわりの会」も東京都千代田区三番町30番8号第2生光ビルにあるわけですが、ここにはもう一つ特定非営利活動法人がありまして、それは「日本食育士協会」というのです。「この法人は、国民全体に対して、食育全般に関する啓蒙のための事業を行い、人々の暮らしの安全と健康に寄与することを目的とする」のだそうであります。

「食育指導士」とか「食育インストラクター」とか、各社が色々な口座を設けてそれぞれに資格を発行しているわけですが、これもその一つです。ここでは基礎コース(2.5ヶ月)、中級コース(約3ヶ月×2)、上級コース(3ヶ月+集合研修)とあって、それらのコースを修了して試験に合格すると「食育士」というありがたい「称号」が「授与」されるという仕組みのようです。「基礎コース」だけは無料なのだそうですからそこから上は有料なんですが、いくらかかるのかはわかりません。喰うに困らない程度の料金だと助かりますね。世の中は喰ったり喰われたりです。

「ひまわりの会」の理事は有名な順に並んでいるようですが、「日本ユニセフ協会」との親密な関係は「大使」に留まりません。副会長の東郷良尚さんも理事の1人です。5人の理事のうち2人が八百屋で2人が「日本ユニセフ協会」なのです。東郷平八郎の親類で元日本航空の東郷さんは募金集めに辣腕を振るい、信販会社や『地球の歩きかた』読者名簿など、明らかにされていない様々なリストをどこからか入手してダイレクトメールを送付、今では150億円以上の募金を集めるようになり、港区高輪に「ユニセフハウス」なる建物まで所有するまでになりました。

ちなみに南裕子さんは「少子化への対応を推進する国民会議」などというものに参加していましたから、多少は「母の日」ともつながりがありそうです。もっともこの「国民会議」には、なぜか引越社の赤井英和がいたり、長女を出産する前の早見優がいたりして何だかわからないんですが。

まあ、ざっとこんな人たちが「母の日」の「非平和利用」に躍起となっているようなのですが、なにしろトップページから挨拶代わりに「出産、育児を支援し、そして子どもたちを守ることこそ、この国を守ることにほかなりません。」と言い出す始末です。なんであれ何かの意味を「この国を守る」ことに求めているくらいですから、順序としては「この国を守ること」のほうが「出産、育児を支援し、そして子どもたちを守ること」に優先することになっております。事と次第によっては「この国を守る」ために「出産、育児」や「子どもたち」のほうを犠牲にするそうですから、どこまで優しくないんだか知れたものではありません。自分の母親がこんな風だと息子としては大変不安になりますな。

ちなみに僕の「ベストマザー」はケイト・「マー」・バーカー。名高いバーカー・ファミリーのお母さんですよ。この伝説的な猛女と狂った息子たちの実話は、「血まみれギャングママ」(1970年、ロジャー・コーマン)の他にも「ビッグ・バッド・ママ」(1974年、スティーヴ・カーヴァー)、「クレイジー・ママ」(1975年、ジョナサン・デミ)と3度にわたってロジャー・コーマンの手によって映画化されている他、最近でも「FBIファイル第一級指定/パブリック・エネミー」(1995年、マーク・L・レスター)において扱われています。
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2008年05月08日

夜とあなたとバイ菌と

「手つかずと食べ残し、違う」船場吉兆の湯木社長

 本店だけでなく、博多店などすべての料亭で食べ残しの使い回しが明らかになった船場吉兆(大阪市)。「ほかにはない」の説明から一転、社長は「手つかずの料理は食べ残しとは違う」と強弁した。高級料亭の不祥事はどこまで広がるのか。
 「前社長の『もったいない』という指導の流れが今回のことにつながり、悔やまれてなりません」
 湯木佐知子社長(71)は7日夜、大阪市の本店前で、まず2日に発覚した本店での使い回しについて頭を下げた。報道陣が「佐知子社長は使い回しを知らなかったのか」「なぜ公表を控えたのか」と質問すると、「下げた料理は私の認知する領域ではない」「営業を再開し、こういうことのないようにするのが大事だとの一念で、発表すべきだとは思わなかった」などと答えた。
 博多店での使い回しが明らかになったのは、約30分の会見が終わり、佐知子社長が店内に入った直後。代理人弁護士が「博多店では使い回しがないと言っていたが、一部あったことが判明した」と切り出した。
 報道陣の要求を受け、佐知子社長は数分後に再び現れた。「ほかの店で使い回しはないのか」との質問に、「ないと思う」と答え、「手つかずの料理を食べ残しと表現するのはニュアンスが違うと思う」と釈明した。
 その約1時間後、福岡市の博多店で河合元子店長と前村政紀料理長が記者会見をした。前村料理長が心斎橋店(大阪市)で勤務していた当時、刺し身の添え物を使い回していたと述べ、さらに河合店長が天神店(福岡市)でもあったと説明した。前村料理長は「雲の上の人のような前社長が言うことがすべて。洗脳状態だった」と、使い回しに異議を唱えられなかった雰囲気を強調した。
 博多店の会見後、船場吉兆の代理人弁護士は朝日新聞の取材に対し、「全店舗の全従業員から今後聞き取りをする」と述べた。

2008年5月8日 asahi.com


高い金をとっておいて食べ残されたり手も付けられないような料理を出している高級料亭では、残っている料理を再び提供する場合に気をつけたい食中毒の原因菌は黄色ブドウ球菌です。その存在はありふれていて、化膿した傷口なんかには「うじょうじょ」いますが、そうでなくても健康な人の鼻孔内や、皮膚表面にも存在します。厨房では皮膚に膿瘍を持つような人は入れないのでしょうが、それでも黄色ブドウ球菌を完全になくすことは不可能に近いのです。

したがって全ての料理には黄色ブドウ球菌がついてるもんだと思って間違いありません。その数は常温で20分位の間に倍に増えます。したがって調理してから客に出すまでの時間を出来るだけ短縮すること、客の方も料理が出て来たらエラい人の退屈でくだらないスピーチなどに余計な事件を費やすことなく、直ぐに喰ってしまうことが食中毒予防の第1歩です。たとえば標準的な宴会時間が2時間だとすると、手つかず、または食べ残しの料理における菌数は、その間に64倍になっていることになります。

黄色ブドウ球菌似よる食中毒を起こすのはこの菌が産生するエンテロトキシンですが、この毒素の量は菌の量に比例します。時間が経てば経つほど、料理は危険極まる物体と化してゆくのです。また、この毒素は再加熱によって無毒化されません。一度下げて再調理してもダメなのです。そのような料理はあらかじめ多量の毒素を含んだ状態で提供されます。宴会なんかで皆で同じものを喰ったのに1人だけアタル人がいたりしますが、往々にして身体が不調だとか、飲み過ぎたんだとか思われがちで、弱い奴だとかだらしのない奴だとか批判されることも多いものです。しかしながら高級料亭に出入りするような場合には、その人の分に使い回したのが入っていた可能性も考えてあげる必要があるでしょう。

使い回しで最も危険なのが、同じ料理が何回も回転している可能性です。例えば船場吉兆ではアユの塩焼きや八幡巻き、「えびきす」などの評判が悪く、残ってしまうのでよく使い回しをしていたようですが、こういう評判の悪い料理においては次の客もそれに手をつけないことがあるでしょう。それをまた次にまわすということになると、その料理は相当に恐ろしい状態になっていることは容易に想像出来ます。これは知らない人の肛門をなめるのといい勝負です。

「手つかずの料理を食べ残しと表現するのはニュアンスが違うと思う」というのは、このような事情がよく理解されていないことを物語ります。「手つかず」は比較的きれいだけど「食べ残し」の場合は知らない人の唾がついているからキタナイ。もちろんこれには根拠があります。「食べ残し」の料理には高級料亭に出入りする人種の不潔な口腔内に存在するおぞましい微生物がたくさんついていますし、連中のベタベタした手が触れているのですから、黄色ブドウ球菌がその分だけ多いのは事実です。しかしながらそれは程度の問題でしかありません。「手つかず」のものであっても連中の汚い唾が飛んでいたり、あろうことかくしゃみや咳をしたり、想像を絶する環境に放置されていたのですから、同じようなものです。

食品衛生法ではこのような「使い回し」を禁止する規定はないようです。これは「使い回し」による健康被害がない、からではなくて被害が認識し難いことによるものでしょう。出席者全員が食中毒になれば大問題ですが、使い回しの食材は全員には回らないのです。被害は一部の人に留まりますから、原因が店側にあるとはなかなか思い当たりません。よしんば店側を疑ったところで、検食を調べても何も判らないのですから立証は困難です。しかし考えてみると危険なようなのですから、食品衛生法の第6条は改正する必要があります。もっとも、高級料亭に出入りするような連中は少なからず「同じようなこと」をやっている疑いが濃厚ですから、そういうところは適用除外にしてあげてもいいでしょう。連中の健康など知ったことではありません。一方でビンボー人が出入りする安居酒屋チェーンなどではこのようなことはよくあることですから、ビンボー人はいつの間にか調理してから時間が経っていそうなものが判るスキルを身につけていたりします。ああいう連中の支配する世の中で生きていくのは大変ですわ。
posted by 珍風 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月07日

俗悪有害兇悪劣情の闇は裏

なんだかんだ言って映画『靖国 YASUKUNI』というのを僕はまだ見ていません。ゴールデンウィーク中は連日満席で12時くらいには売り切れた、連休明けの今日だって午後2時には満席というのですから、仕事(GWも仕事なのでした)が終わってから行ったって無理なんですね。折角行ったのに、そんな、酷いじゃないか、って、暴れるわけにもいきません。映画館の前には警備員だかが2人も立っていて、映画を観せまいとする輩や強引に観ようという連中を排除すべく待ち構えています。まるで何か事件現場のような物々しさです。あの中では一体何が行なわれているのでしょうか。朝から並んでいた熱心な人たちが劇場に入っていくのを指をくわえて見ているしかないのでした。

というような状態でしたが、しかし、久しぶりに映画は「事件」になったのでした。おじさんの若い頃は映画というのは「事件」でしたね。東宝東和の宣伝を素直に信じるとすれば、そしておじさんも中学生くらいの頃はわりと素直だったですから、大変な「事件」が次から次へと発生していたものです。なんたって「全米何十州で公開禁止!」だったり、「上映反対デモ」が劇場を取り囲んだり、あまりのショックに死んでしまった観客がいるとか、そういうことがあるといけないのでお医者さんが待機しているんだとか、何だか知らないけどとにかくモノスゴイ、大変な事柄が映写されているんだとか、とにかく闇雲に「エライこと」が、TVなんかには映せないような「ヤバいこと」が起こっているというこのなので、映画を観に行くというとはある種の「危険」に立ち会うような期待があったもんでした。

まあ、期待というのは外れるためにある。しかしながら別に毎度毎度失望していたわけではありません。それどころか映画館では人間の首が切断され、人体は考えられないほど奔放に変形し、内臓は花のように弾け、血は噴水のようにほとばしり、気の狂った少女が十字架でオナニーをし、気の狂った中年男が少女の虜になって自滅し、気の狂った青年が全員殺して回り、気の狂った遊星が地球を木っ端みじんにしていたのでした。

映画の登場人物はおおむね悪党であり、犯罪者であり、そうでなくても何があったのか知りませんが1時間半もあれば人間としてやっていいことと悪いことの垣根を簡単に越えてしまう人たちばかりなのでした。そういう連中が超人的な力と勇気と残酷な想像力と突飛な行動力を駆使した常識を外れることおびただしいようなやり方で、神話的な善と悪との戦いを演じるのです。

しかしながら、もし単に悪があり、善が現れ、善が勝って悪が滅びる、というだけの話しならばそれは2巻分くらいで終わってしまうでしょう。これは30分ちょっとくらいでしょうか。その昔TVでは『刑事くん』という、30分で事件をたちどころに解決する優秀で凡庸な刑事のことを放送していましたが、ところが映画というものは短くても80分から100分、長くなると3時間を超える尺がありますから、色々なことをもっと入れることが出来ます。

ところで絵にしてみて面白いのはやはり「悪」の方なのでした。ヤバいことならゼニになるのです。その圧倒的な力、心臓を潰す残酷、脳が溶ける禍々しい魅力、腸をねじる滑稽と窒息させるような悲哀。それが映画の「主役」であり、そうであるからには神話の戦いは負けるが勝ちで転倒します。それはマイホーム用品屋さんがお届けする『刑事くん』から『水戸黄門』に至る毎週月曜の夜に退屈に反復される神話の「裏」なのでした。

したがって映画とは「悪」だったのであり、その故に「事件」だったのでした。世の中に「良い事件」などというものがあったためしはありません。あっても「どうでも良い事件」だけでしょう。ところでもしかすると「どうでも良い事件」としてひっそりと終わってしまっていたかも知れない『靖国 YASUKUNI』がすっかり立派な「事件」になられて、世の「事件=映画」好きの人たちに加えて単なる「事件」好きの士も席を埋め、あおりを食った僕がまだ観れないというのも、どっかの間抜けなお人好しがこの映画のことを「何だか悪いもの」のように言い出したおかげであります。映画では彼女のご尊顔をも拝することが出来るとのことですが、DVD化の際にはそのシーンの前に「脱帽」の字幕を入れとくべきでしょうな。

ちなみにシネ・アミューズでは10日から追加上映が決定とかゆーウワサです。
posted by 珍風 at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

防犯標語

マグロの赤身と紅白でまことに目出たいにぎりです。



いい加減でいいよ

帰っちゃおうかな

のんきに行こうぜ

おいらとおめえ

素っ裸のつきあいだ

死んでも地獄へ行くだけさ

sushi.jpg


挿し絵は警視庁HPより
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no20/koho20.htm

なんなのこれは。誰か教えてやってくれ。
posted by 珍風 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月04日

ようこそ!アルカトラズへ

死刑賛成派も反対派も「終身刑を」 超党派で議連発足へ

 仮釈放のない「終身刑」の創設を目指して、死刑制度の存置派と廃止派の国会議員がともに、超党派の議員連盟を結成することになった。来年から始まる裁判員制度を前に、死刑判決の増加への懸念から終身刑の創設を目指す廃止側と、死刑の下に無期懲役より重い「中間刑」をつくりたい存置側が結びついた。存廃議論を切り離したことで、法案提出に向けて議論が高まる可能性が出てきた。
 新たな議員連盟は「裁判員制度の導入の中で量刑制度(死刑と無期懲役のギャップ)を考える会」(仮称)。自民党の加藤紘一衆院議員や平沢勝栄衆院議員らが働きかけた。与野党の約20人が呼びかけ人になっている。
 8日に初会合を開く予定で、いまのところ数十人が賛意を示している模様だ。制度が始まる前に実現させようと、今国会中に創設を盛り込んだ法案の提出を目指す。
 現行法では、死刑に次ぐ重い刑は無期懲役。しかし、法務省によると、平均25年程度で仮釈放されており、死刑より軽く無期懲役よりは重い刑として、終身刑の創設を求める声が少なくなかった。
 平沢議員は議連の意義について「死刑廃止論とは相いれないが、終身刑の創設の部分では一致している。平行線の存廃論議と切り離し、裁判員制度で市民が悩むことになる前に解決しなければいけない」と強調する。参加予定者の中には、山口県光市で起きた母子殺害事件の死刑判決をめぐり、「終身刑の必要性を考えるきっかけになった」と話す議員もいるという。
 裁判員裁判にあわせた終身刑の創設をめぐっては、「死刑廃止議員連盟」(会長=亀井静香・国民新党代表代行)が先月、死刑判決に関しては裁判員6人と裁判官3人の全員一致を条件とする特例法案とあわせた形で「死刑慎重化法案」をとりまとめている。(市川美亜子)

2008年5月3日 asahi.com


死刑廃止議連の言い出した終身刑創設が何か最悪の形で実現しそうであります。廃止議連の思惑では日本人の癖としてあまりよく考えずに「中間」を選択するのではないかということでしょう。一方で平沢さんたちの考えていることは無期懲役の厳罰化なのです。いずれにしても終身刑判決を下す場合には死刑判決と同じく「更生可能性」がない、あるいは著しく低いことがその理由となるはずですが、そんなことをほんの数日の公判で判断出来るとは到底考えられません。

先の光市母子殺害事件の差戻審判決においては、この点について「公訴事実を争ったら更生可能性を否定出来る」という画期的な新基準を打ち出したものですが、ああいういい加減な話しではなくて真面目な話しとして、被告人が「更生」し得るかどうかを裁判の中だけで判断することは極めて困難です。被告人はとても悪い奴に見えますし、実際に悪い奴であることが多いのですが、「悪」がその人の本質的特徴をなしているように見えるのです。「本質」ですから、これはもう変更出来ないように思えて来ます。しかし実際にはそうでもなかったりするわけです。それに被告人のやった「悪いこと」の重大さの程度に応じて被告人に宿る「悪」の大きさが大きくなり、強くなるようにも見えます。しかし常習的な掏摸よりも恨みで誰かを殺めた人の方が「更生」が困難であるということもないようです。

なにしろ多くの被告人は「更生」しようとか「更生」させようという試みとは全く無縁に生きて来た、そればかりか往々にしてそれとは逆の環境にいた挙げ句に被告人席に座るハメになっているのですから、やってみないことにはわかりません。とんでもなく酷い犯罪を犯した人が割と素直に「更生」したりする一方で「更生」に向けて努力したけども結局死ぬまで「更生」しなかった、という場合に結果として「終身刑」のようになってしまう場合もありえます。

まあこういう風に考えると、「更生」を目標とした「教育刑」主義は結局のところ罪刑法定主義と相容れない、というかついには「刑罰」そのものを否定して「治療」に接近しますけど。それに「公訴事実を争うような態度」そのものを「治療」の対象にしかねないという危惧も捨てきれません。もっとも一方であらかじめ定められた犯罪行為と刑罰の一覧は食堂のメニューのようなもので、定められた対価を払うことに同意するならばある行為を選択出来るということになります。たとえば自分の命をくれてやってもよい、ということであれば残虐な殺人や革命や政府転覆を企てても良いのです。死刑制度は人命というものをある人が支払いうる対価の限界ということにしているようです。必ずしも人の命を大切にしているというわけではありません。

ところで終身刑といえば囚人の考えることは脱獄と思い出だけなんだそうですが、昔観た映画での脱獄を思い出しても何かの参考になるとは思えません。しかし何かのヒントにはなるかも知れないし、観ているだけでも面白いものです。お奨めはブレッソンの『抵抗』とベッケルの『穴』、フランスばっかりじゃ困るんでこれにシーゲルの『アルカトラズからの脱出』も加えましょう。もっとも『アルカトラズ』の場合は脱獄に成功したのかどうかわかったもんじゃありませんが。

名高いアルカトラズ刑務所の歴史は南北戦争当時に遡ります。サンフランシスコ湾防衛のための要塞とされたアルカトラズ島は、同時に軍の刑務所でもあり、脱走兵やレイプや窃盗などの犯罪兵を収容して来ました。またアメリカ原住民の戦死も捉えられて収容されています。1906年のサンフランシスコ大地震の際に街の刑務所から数百人の囚人が移送されたのをきっかけに島は要塞の任を解かれ、アメリカ陸軍警察の管轄に入りました。1915年にはアルカトラズは「合衆国太平洋地区懲役用兵舎」とされ、第一次大戦中には多数の反戦運動家がここに収容されました。

1934年に司法省が、島の周辺の海の早い潮流と冷たい水、人食いザメまで出るという「脱出不可能」な環境に目をつけてここに連邦刑務所を設置しました。いわゆるアルカトラズ刑務所はここに始まります。ここには「更生不可能」とみなされたアル・カポネのような大物、脱走しそうな奴、そして面倒を起こすので他の刑務所から移された囚人などが収容されました。

脱走の企画は14件あり、34名の囚人が参加しています。うち7名が射殺され、2名が溺死、5名が行方不明ですが公式記録上は死亡とされ、残りの20名は全員捕まりました。行方不明者5名のうち3名がフランク・モリス及びジョンとクラーレンスのアングリン兄弟であり、彼らは1962年6月にレインコートを浮き袋にして脱出しました。彼らは溺死したことになっていますが、遺体は発見されていません。『アルカトラズからの脱出』はこの事件を描いたものです。その翌年の1963年、アルカトラズ連邦刑務所は閉鎖されました。

一方その頃、もう1人のアクション派の監督がアルカトラズを舞台にした囚人の映画を撮っているのですが、それは脱獄ものではありません。しかしながら男と男の戦いを描いている点ではアクション映画の心理的要件を満たすものであり、囚人である主人公が、始め看守長であり後にはアルカトラズ刑務所長となった男と長きにわたる闘争を繰り広げるのです。

ロバート・ストラウドという実在の囚人/鳥類学者を主人公とした『終身犯』においてもアルカトラズ刑務所のガードは固く、レブンワース刑務所から移送されて来たストラウドは鳥の研究を続けることは叶いませんでした。そのかわり彼は法律を研究し始め、刑務所改善についての論文を書いて公表しようとしますが、永遠の敵手シューメイカー所長はそれを没収します。彼はストラウドがそんなものを書いて制度に反抗していることに怒っていて、「お前は更生しようとする気がないんだな」と言います。

ストラウド「更生?」

シューメイカー「ああそうだ」

ストラウド「意味を知っているのか?」

シューメイカー「私を侮辱するのか」

ストラウド「ウェブスターの辞典には語源はラテン語とあった。本来は名誉回復を意味する。囚人の名誉や尊厳を回復する努力をしたか?“素行を正せ”という昔のあんたの声はよく覚えている。“行動は全て規則に従え”とな。あんたの方針は35年間変わっていない。囚人は操り人形じゃない。服従するものをひいきし、自分と同じ迎合主義者を好むなど倫理にもとる。最低だよ。所長失格だ。囚人のいちばん大切なもの、尊厳を奪った。囚人はおとなしい人形のふりをしているが、心の中は日々憎悪が募ってる。釈放された囚人の半数以上が再び投獄されてくる。理由はここに書いた、あんたも最後までよく読むといい」

さすがにこの長台詞の間にセリフを喋るストラウド(バート・ランカスター)の顔からそれを聞いているシューメイカー(カール・マルデン)の顔にショットを切り替えますが、この2人が揃いも揃って「更生」を「reabilitation」と言っているように聞こえます。そういう単語があるのかどうかわからないのですが、てゆうかこうして書いていても綴り間違いを警告する印がついてくるんですけど、なんかそう聞こえたので、僕も「更生」は英語で「reabilitation」とゆーのだ、と思っていたのですが、やはりどうもこれは「rehabilitation」らしい。「リハビリテーション」ですね。

一般的には身体機能回復訓練のことだと思われている「リハビリテーション」は、ウェブスターならぬ研究社の辞書によると「復職,復位,復権;名誉回復;復興,再建;リハビリテーション,更生;社会復帰」という意味なんだそうです。やっぱり「名誉回復」とか「復権」の意味です。ちなみに元になったラテン語は「ハビリス」のはずですが、これは「相応しい、適した」の意。ところが「ホモ・ハビリス」の「ハビリス」は「器用な」の意味だといいます。どっちだ。もっとも「相応しく」あることはある程度の「器用さ」を条件とするような気もしますし、何かに「器用である」ことはその事に「適して」いることに他ならず、それはその事に対する正当な権利を保証するのです。そういうわけで「リハビリテーション=更生」は単に身体が動くとか社会でなんとかおとなしくしていられるということにとどまらない、権利主体としての尊厳の回復という意味があるのでした。

「更生」に当たる英語には、その他に「regeneration」というのもあります。これは「generation」に「re」が付いたものですから「再び産まれること」でありますが、「regenerate」という動詞は本来はキリスト教に改宗させること、または改宗することを意味します。つまり「regeneration」とは宗教的な意味合いを強く持った「生まれ変わること」なのですが、日本で一般に「更生」とか言っているのはこっちの方が意味が近いかもしれません。この場合はむしろ「迎合主義者」となって「操り人形」として「生まれ変わる」という、ピノキオとは真逆の過程こそが「更生」とされるのですし、心理的には「世間」とか「社会」とか「国家」とかいうものに対するほとんど「宗教的」なまでの「畏怖の念」が問題になります。

最近では「reintegration」なんてことも申しまして、これは「再統合」ということですが、リインテグレートされる先の社会のあり方によって「更生」は「リハビリテーション」であったり、逆に「リジェネレーション」だったりするわけです。その一方は自己回復であり、もしも「ability」の語源も「ハビリス」だとすれば能力の回復であるのに対し、他方は無能力化であり、自己放棄を意味します。しかしこの場合は往々にして放棄するのではなくて剥奪されることになるようです。元々犯罪者は「剥奪された」という感情を強く持っていたりするものですから「放棄」は期待出来ませんし、これ以上の「剥奪」は悪循環をしかもたらさないでしょうから、たしかにこの意味の「更生」は多くの人において「不可能」でしょう。したがって「更生=regeneration」である社会では全ての犯罪者を死刑に処することで文字通りの「生まれ変わり」を期するのが正しいのですし、そうしないのであれば「更生」を「rehabilitation」として定義し直さなければならないでしょう。そうなった場合、死刑制度は想定出来ません。だからといって全て丸く収まるというわけではありませんけど。
posted by 珍風 at 16:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月02日

わが罪、わが魂。

児童ポルノ「単純所持」に1年以下の懲役も…与党チーム

 与党の「児童ポルノ禁止法見直しに関するプロジェクトチーム」(森山真弓座長)は2日、児童ポルノの販売や提供を目的としない「単純所持」に、1年以下の懲役か100万円以下の罰金を科すことで一致した。

 単純所持はこれまで禁止されていなかったが、インターネットなどでの流出に歯止めをかけるため、罰金だけでなく懲役を科すこととした。現行法は、児童ポルノの提供者に「3年以下の懲役か300万円以下の罰金」となっている。
 一方、児童を描写したアニメやコンピューターグラフィックス(CG)の所持禁止や、ネット利用者が児童ポルノサイトに接続できなくなる「ブロッキング」制度の導入については「国が調査、研究を行う」とする付則を盛り込み、今後の検討課題とした。

2008年5月2日 読売新聞


実は「かくれみの」というのもなかなか不便なものらしく、ずうっとこれを着ていると自分が何をやっているのかわからなくなってくるようです。例えば表現の規制を目指す人々は現在のところ「児童ポルノ」を「かくれみの」として使っているわけですが、そもそも「児童ポルノ」とは何か、とか「児童ポルノ」のどこが問題なのか、ということが既にわからなくなっているようです。

「児童ポルノ」というのは児童労働や児童買春の問題を中心とした、経済システムの中に確固たる地位を占めた形の児童への人権侵害の一つのカテゴリーであって、ポルノを政策・販売する業者によって強制的に性労働に従事させられる児童における人権侵害が問題になっています。同じ性労働でも売春に比べると少ない資本で参入することが出来て、巧くすると経験の浅い人でも手広い商売が可能であるという特徴があります。

そこで児童の人権を守るためには、何をおいても薄汚いスタジオを急襲してそこにいる児童を救い出し、業者は処罰するとともに、餓鬼どもがそんなことをしなくても暮らしていけるようにいろいろとやらなければならないことが沢山あるようです。

ところが現状では餓鬼を助けることよりも業者を処罰することが優先され、制作者よりも販売者の摘発に重きが置かれているようです。まあ、イキナリ頂上に達するのは難しいですから川下へ川下へと流れていくのは笹舟や水死体と同様、ある程度は致し方ないようなものですが、ここへ来てついに「単純所持」者を処罰するという倒錯に立ち至りました。

思えば児童の人権が侵害されているのはまず第一に撮影なり何なりをしている現場である一方、「単純所持」というのは自分で持っているだけの人であり、「被害」の終着点であり、定義上「被害」の拡大を止めているポイントでありますから、随分と遠くに来たもんです。そんな人を懲役にしたところでシャシンに映っている女の子には何の関係もありませんし、これ以上の「被害」を未然に防ぐという意味もないばかりか、このような法制は「児童ポルノ」の取引をますます地下に潜行させてルートの解明を困難にし、ひいては保護されるべき女の子にはたどり着けない、ということになるでしょう。

ましてやアニメやマンガやCGなどの創作物の取り締まりを未だに諦められない「児童ポルノ禁止法見直しに関するプロジェクトチーム」は、この法律の目的にいう「児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害することの重大性」への認識が欠如しているようですし、「児童の権利の擁護に資する」という目的も見失ってしまったようです。

むしろ野田聖子さんあたりはこの辺のことがちゃんとわかっているようで、去年だったかには、「児童ポルノ法や児童虐待防止法は現実の児童を対象にしたもので、アニメなどフィクションなものに対応するには、かなりの法改正が必要となり、時間がかかってしまう。個人的には、改正よりも、新法を立てるべきだと思う」と言っています。どうしてわざわざ新法を立ててまでそんなことをしなければならないのかは明らかにされておりませんが、少なくとも森山さんあたりよりも法の目指すところを認識しているようであります。

これは去年の3月29日のことですからいささか旧聞に属しますが、在日スウェーデン大使館で行なわれたシンポジウムでの発言でした。このシンポジウムはあの日本ユニセフ協会とECPAT、ECPATスウェーデンとスウェーデン大使館が開いたもんで、野田さんは主賓だったのです。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2007/03/30/15252.html

ご案内の通りこのキ印邪宗門の信徒たちは、児童への人権侵害の問題の中から特に「児童買春」と「児童ポルノ」と「性的売買」の問題だけに取り組んでいるところです。「特に」そういうこと「だけ」をやる人たちなのです。児童への人権侵害からセックスがらみの要素だけを切り離して取り出してくるのは極めて困難であろうと思われるばかりではなく、有害ですらあるでしょう。特に日本のように餓鬼をタコ部屋に閉じ込めて絨毯を作らせたりしていないところでは、より広範で深刻な人権侵害の「かくれみの」効果を持つものと思われます。なにしろ児童労働で儲かっている人たちはいわゆるエラい人だったりもするわけです。それに対して「児童ポルノ」はチンピラやゴロツキのビジネスなのです。

もっとも邪宗門の教えによれば労働こそ神の恩寵なのですから、餓鬼でも早いうちから恩寵に浴すようにさせて、さっさと天国に召されるのが当人の幸福であろうということになります。それがアガペーというものなのです。愛とは時として迷惑きわまりないものなのです。それに対して邪宗門はセックスがどうも苦手です。はっきり言うとそれは何か天然の「毒」のようなものだとでも思っているようで、ただただ神に祝福された結婚の恩寵のみがそれを無毒化するということになっているようです。したがって連中が「児童ポルノ」や「児童買春」に反対するのも、兄弟たる邪宗門徒がわざわざバンコク辺りまで出掛けていって「毒」に侵されたり、センズリなどをこいて「毒」に触れるのを防ぐためなのですから、どっかのビンボーな汚い街に踏み込んで女の子を助けることよりも、清潔な自分の周りでの「毒」の蔓延を防ぐことに興味が向きがちなのも無理もないことなのです。

そんな能天気な人々によるこのシンポジウムでは、しかしよりぶっ飛んだ意見を伺うことも出来ます。たとえば警察庁総合セキュリティ対策会議委員にしてインターネット・ホットラインセンター副センター長の吉川誠司さんは、「ロリータマニアが集まる掲示板では、普通の子供の画像が貼られただけで、子供ポルノの公然陳列と見なすことも考えている」のだそうです。「ロリータマニア」が何人寄れば「集まる」ことになるのかわかりませんが、1人もいれば充分でしょう。例えば、まあ掲示板でもって誰かが突然、自分は「ロリータマニア」であることを表明する。そうすると別の人がかなり以前にその掲示板に自分の餓鬼の入学式の写真とか貼っていたりすると、それは吉川さんによれば「子供ポルノの公然陳列」だということになるんだそうです。

で、その餓鬼の写真を削除させるのかというと、そんな生易しいものではありません。上記の記事によれば「違法なコンテンツが置かれていたサーバー事業者が削除要請に応じなかったとき、そこに回線を提供している上位事業者に相談し、契約違反として回線提供を止めさせた事例があるという」のです。サーバーが接続している回線を止めちゃったそうです。そこに繋がって何か書き込んでる誰かが「「ロリータマニア」である」というだけでサーバーが繋がらなくなってしまうということです。そして吉川さんは「回線を止めたとこで、違法なコンテンツを置いていないユーザーにまで影響は出てしまうが、それは契約違反したサーバー事業者の責任になる」と言い放ちます。

このようにして「児童ポルノ」というものを使うだけで、警察は「違法」でないコンテンツの発信を妨げることが出来るのです。潰したいサイトや不都合なコンテンツがあったら、同じプロバイダにある全然無関係な掲示板に「普通の子供の画像」を貼付け、いきなり「ロリータマニア」宣言をすればそれで準備万端オッケーです。実にビックリする程簡単です。そこで僕も早速やってみましょう。これが「児童ポルノ」の「画像」です。そうに違いない。誘ってるし。
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posted by 珍風 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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