2008年05月04日

ようこそ!アルカトラズへ

死刑賛成派も反対派も「終身刑を」 超党派で議連発足へ

 仮釈放のない「終身刑」の創設を目指して、死刑制度の存置派と廃止派の国会議員がともに、超党派の議員連盟を結成することになった。来年から始まる裁判員制度を前に、死刑判決の増加への懸念から終身刑の創設を目指す廃止側と、死刑の下に無期懲役より重い「中間刑」をつくりたい存置側が結びついた。存廃議論を切り離したことで、法案提出に向けて議論が高まる可能性が出てきた。
 新たな議員連盟は「裁判員制度の導入の中で量刑制度(死刑と無期懲役のギャップ)を考える会」(仮称)。自民党の加藤紘一衆院議員や平沢勝栄衆院議員らが働きかけた。与野党の約20人が呼びかけ人になっている。
 8日に初会合を開く予定で、いまのところ数十人が賛意を示している模様だ。制度が始まる前に実現させようと、今国会中に創設を盛り込んだ法案の提出を目指す。
 現行法では、死刑に次ぐ重い刑は無期懲役。しかし、法務省によると、平均25年程度で仮釈放されており、死刑より軽く無期懲役よりは重い刑として、終身刑の創設を求める声が少なくなかった。
 平沢議員は議連の意義について「死刑廃止論とは相いれないが、終身刑の創設の部分では一致している。平行線の存廃論議と切り離し、裁判員制度で市民が悩むことになる前に解決しなければいけない」と強調する。参加予定者の中には、山口県光市で起きた母子殺害事件の死刑判決をめぐり、「終身刑の必要性を考えるきっかけになった」と話す議員もいるという。
 裁判員裁判にあわせた終身刑の創設をめぐっては、「死刑廃止議員連盟」(会長=亀井静香・国民新党代表代行)が先月、死刑判決に関しては裁判員6人と裁判官3人の全員一致を条件とする特例法案とあわせた形で「死刑慎重化法案」をとりまとめている。(市川美亜子)

2008年5月3日 asahi.com


死刑廃止議連の言い出した終身刑創設が何か最悪の形で実現しそうであります。廃止議連の思惑では日本人の癖としてあまりよく考えずに「中間」を選択するのではないかということでしょう。一方で平沢さんたちの考えていることは無期懲役の厳罰化なのです。いずれにしても終身刑判決を下す場合には死刑判決と同じく「更生可能性」がない、あるいは著しく低いことがその理由となるはずですが、そんなことをほんの数日の公判で判断出来るとは到底考えられません。

先の光市母子殺害事件の差戻審判決においては、この点について「公訴事実を争ったら更生可能性を否定出来る」という画期的な新基準を打ち出したものですが、ああいういい加減な話しではなくて真面目な話しとして、被告人が「更生」し得るかどうかを裁判の中だけで判断することは極めて困難です。被告人はとても悪い奴に見えますし、実際に悪い奴であることが多いのですが、「悪」がその人の本質的特徴をなしているように見えるのです。「本質」ですから、これはもう変更出来ないように思えて来ます。しかし実際にはそうでもなかったりするわけです。それに被告人のやった「悪いこと」の重大さの程度に応じて被告人に宿る「悪」の大きさが大きくなり、強くなるようにも見えます。しかし常習的な掏摸よりも恨みで誰かを殺めた人の方が「更生」が困難であるということもないようです。

なにしろ多くの被告人は「更生」しようとか「更生」させようという試みとは全く無縁に生きて来た、そればかりか往々にしてそれとは逆の環境にいた挙げ句に被告人席に座るハメになっているのですから、やってみないことにはわかりません。とんでもなく酷い犯罪を犯した人が割と素直に「更生」したりする一方で「更生」に向けて努力したけども結局死ぬまで「更生」しなかった、という場合に結果として「終身刑」のようになってしまう場合もありえます。

まあこういう風に考えると、「更生」を目標とした「教育刑」主義は結局のところ罪刑法定主義と相容れない、というかついには「刑罰」そのものを否定して「治療」に接近しますけど。それに「公訴事実を争うような態度」そのものを「治療」の対象にしかねないという危惧も捨てきれません。もっとも一方であらかじめ定められた犯罪行為と刑罰の一覧は食堂のメニューのようなもので、定められた対価を払うことに同意するならばある行為を選択出来るということになります。たとえば自分の命をくれてやってもよい、ということであれば残虐な殺人や革命や政府転覆を企てても良いのです。死刑制度は人命というものをある人が支払いうる対価の限界ということにしているようです。必ずしも人の命を大切にしているというわけではありません。

ところで終身刑といえば囚人の考えることは脱獄と思い出だけなんだそうですが、昔観た映画での脱獄を思い出しても何かの参考になるとは思えません。しかし何かのヒントにはなるかも知れないし、観ているだけでも面白いものです。お奨めはブレッソンの『抵抗』とベッケルの『穴』、フランスばっかりじゃ困るんでこれにシーゲルの『アルカトラズからの脱出』も加えましょう。もっとも『アルカトラズ』の場合は脱獄に成功したのかどうかわかったもんじゃありませんが。

名高いアルカトラズ刑務所の歴史は南北戦争当時に遡ります。サンフランシスコ湾防衛のための要塞とされたアルカトラズ島は、同時に軍の刑務所でもあり、脱走兵やレイプや窃盗などの犯罪兵を収容して来ました。またアメリカ原住民の戦死も捉えられて収容されています。1906年のサンフランシスコ大地震の際に街の刑務所から数百人の囚人が移送されたのをきっかけに島は要塞の任を解かれ、アメリカ陸軍警察の管轄に入りました。1915年にはアルカトラズは「合衆国太平洋地区懲役用兵舎」とされ、第一次大戦中には多数の反戦運動家がここに収容されました。

1934年に司法省が、島の周辺の海の早い潮流と冷たい水、人食いザメまで出るという「脱出不可能」な環境に目をつけてここに連邦刑務所を設置しました。いわゆるアルカトラズ刑務所はここに始まります。ここには「更生不可能」とみなされたアル・カポネのような大物、脱走しそうな奴、そして面倒を起こすので他の刑務所から移された囚人などが収容されました。

脱走の企画は14件あり、34名の囚人が参加しています。うち7名が射殺され、2名が溺死、5名が行方不明ですが公式記録上は死亡とされ、残りの20名は全員捕まりました。行方不明者5名のうち3名がフランク・モリス及びジョンとクラーレンスのアングリン兄弟であり、彼らは1962年6月にレインコートを浮き袋にして脱出しました。彼らは溺死したことになっていますが、遺体は発見されていません。『アルカトラズからの脱出』はこの事件を描いたものです。その翌年の1963年、アルカトラズ連邦刑務所は閉鎖されました。

一方その頃、もう1人のアクション派の監督がアルカトラズを舞台にした囚人の映画を撮っているのですが、それは脱獄ものではありません。しかしながら男と男の戦いを描いている点ではアクション映画の心理的要件を満たすものであり、囚人である主人公が、始め看守長であり後にはアルカトラズ刑務所長となった男と長きにわたる闘争を繰り広げるのです。

ロバート・ストラウドという実在の囚人/鳥類学者を主人公とした『終身犯』においてもアルカトラズ刑務所のガードは固く、レブンワース刑務所から移送されて来たストラウドは鳥の研究を続けることは叶いませんでした。そのかわり彼は法律を研究し始め、刑務所改善についての論文を書いて公表しようとしますが、永遠の敵手シューメイカー所長はそれを没収します。彼はストラウドがそんなものを書いて制度に反抗していることに怒っていて、「お前は更生しようとする気がないんだな」と言います。

ストラウド「更生?」

シューメイカー「ああそうだ」

ストラウド「意味を知っているのか?」

シューメイカー「私を侮辱するのか」

ストラウド「ウェブスターの辞典には語源はラテン語とあった。本来は名誉回復を意味する。囚人の名誉や尊厳を回復する努力をしたか?“素行を正せ”という昔のあんたの声はよく覚えている。“行動は全て規則に従え”とな。あんたの方針は35年間変わっていない。囚人は操り人形じゃない。服従するものをひいきし、自分と同じ迎合主義者を好むなど倫理にもとる。最低だよ。所長失格だ。囚人のいちばん大切なもの、尊厳を奪った。囚人はおとなしい人形のふりをしているが、心の中は日々憎悪が募ってる。釈放された囚人の半数以上が再び投獄されてくる。理由はここに書いた、あんたも最後までよく読むといい」

さすがにこの長台詞の間にセリフを喋るストラウド(バート・ランカスター)の顔からそれを聞いているシューメイカー(カール・マルデン)の顔にショットを切り替えますが、この2人が揃いも揃って「更生」を「reabilitation」と言っているように聞こえます。そういう単語があるのかどうかわからないのですが、てゆうかこうして書いていても綴り間違いを警告する印がついてくるんですけど、なんかそう聞こえたので、僕も「更生」は英語で「reabilitation」とゆーのだ、と思っていたのですが、やはりどうもこれは「rehabilitation」らしい。「リハビリテーション」ですね。

一般的には身体機能回復訓練のことだと思われている「リハビリテーション」は、ウェブスターならぬ研究社の辞書によると「復職,復位,復権;名誉回復;復興,再建;リハビリテーション,更生;社会復帰」という意味なんだそうです。やっぱり「名誉回復」とか「復権」の意味です。ちなみに元になったラテン語は「ハビリス」のはずですが、これは「相応しい、適した」の意。ところが「ホモ・ハビリス」の「ハビリス」は「器用な」の意味だといいます。どっちだ。もっとも「相応しく」あることはある程度の「器用さ」を条件とするような気もしますし、何かに「器用である」ことはその事に「適して」いることに他ならず、それはその事に対する正当な権利を保証するのです。そういうわけで「リハビリテーション=更生」は単に身体が動くとか社会でなんとかおとなしくしていられるということにとどまらない、権利主体としての尊厳の回復という意味があるのでした。

「更生」に当たる英語には、その他に「regeneration」というのもあります。これは「generation」に「re」が付いたものですから「再び産まれること」でありますが、「regenerate」という動詞は本来はキリスト教に改宗させること、または改宗することを意味します。つまり「regeneration」とは宗教的な意味合いを強く持った「生まれ変わること」なのですが、日本で一般に「更生」とか言っているのはこっちの方が意味が近いかもしれません。この場合はむしろ「迎合主義者」となって「操り人形」として「生まれ変わる」という、ピノキオとは真逆の過程こそが「更生」とされるのですし、心理的には「世間」とか「社会」とか「国家」とかいうものに対するほとんど「宗教的」なまでの「畏怖の念」が問題になります。

最近では「reintegration」なんてことも申しまして、これは「再統合」ということですが、リインテグレートされる先の社会のあり方によって「更生」は「リハビリテーション」であったり、逆に「リジェネレーション」だったりするわけです。その一方は自己回復であり、もしも「ability」の語源も「ハビリス」だとすれば能力の回復であるのに対し、他方は無能力化であり、自己放棄を意味します。しかしこの場合は往々にして放棄するのではなくて剥奪されることになるようです。元々犯罪者は「剥奪された」という感情を強く持っていたりするものですから「放棄」は期待出来ませんし、これ以上の「剥奪」は悪循環をしかもたらさないでしょうから、たしかにこの意味の「更生」は多くの人において「不可能」でしょう。したがって「更生=regeneration」である社会では全ての犯罪者を死刑に処することで文字通りの「生まれ変わり」を期するのが正しいのですし、そうしないのであれば「更生」を「rehabilitation」として定義し直さなければならないでしょう。そうなった場合、死刑制度は想定出来ません。だからといって全て丸く収まるというわけではありませんけど。


posted by 珍風 at 16:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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