2008年05月25日

頽廃アタマと禿アタマ

件名

美少女アダルトアニメ雑誌及び美少女アダルトアニメシミュレーションゲームの製造・販売を規制する法律の制定に関する請願

要旨

 街中に氾濫(はんらん)している美少女アダルトアニメ雑誌やゲームは、小学生の少女をイメージしているものが多く、このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失っており、既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている。これらにより、幼い少女たちを危険に晒(さら)す社会をつくり出していることは明らかで、表現の自由以前の問題である。社会倫理を持ち合わせていない企業利潤追求のみのために、幼い少女を危険に晒している商品を規制するため、罰則を伴った法律の制定を急ぐ必要がある。
 ついては、美少女アダルトアニメ雑誌及び、美少女アダルトアニメシミュレーションゲーム製造及び販売規制の罰則を伴った法律を制定されたい


これが円より子さんによって提出された請願の「要旨」です。普通「要旨」っていうと内容をわかりやすくまとめたもんだと思われていますが、これは全然わかりやすくありません。しかしこれでも「わかりやすくまとめた」方なのかもしれないのです。とすると本文の方は一体どうなっているのか、興味津々たるものがあります。

とはいえ、この「要旨」だけでも請願者のアタマの中がどうなっているのか、およその見当がつかないというわけではありません。例えば「美少女アダルトアニメ雑誌やゲームは、小学生の少女をイメージしているものが多」いとされていますが、そうなんですか?小学生に見えるというのは何故なんでしょうか。ランドセルでもしょってるんですかねえ。黄色い帽子をかぶってるとか。笛を吹きながら帰るとか。そういうのが「多い」というのですが、なるほど、「街中に氾濫している」ところの『小学何年生』などという雑誌には「とんとん♪わんこバッグ」などという「美少女」漫画が連載されていますから、あれなどは「小学生の少女をイメージしている」といえるでしょう。しかしあれが「アダルト向け」だということになると小学館は困るのではないか。

それで「このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失ってお」るんだそうです。大変です。ゲームが青少年を誘ってくるんだそうです。でもって「心」を「破壊」されたり、「人間性」を「失って」しまったりという話しなんですが、「人間性を失って」いると誘われるようになるのか、誘われると「心を破壊」されるのか、そういう風になるためには相当深入りする必要があるのか、ちゃんとゲームをクリアしないとダメなのか、それとも誘われただけでそうなのか、その辺はよく判りません。

そういえばここで言う「心」だとか「人間性」というのも難解なシロモノですが、ちゃんと説明してもらわないと「ゲーム」と「心」や「人間性」との関係が不明です。さらにこの「要旨」の文章は判りにくく、「心」だの「人間性」だのといった話しと「既に幼い少女が連れ去られ殺害される事件が起きている」こととの関係も明らかではありません。

まあ何しろ(多分)アダルト・ゲーム屋とキ印教徒のそれ自体矛盾に満ちた合作によるものではないかという指摘もされているくらいですから、内容がグダグダでちゃらんぽらんなのもある程度仕方がないのですが、もしかすると半分はアホのせいで、しかし半分は意図的にそうなのかも知れません。

これは「ゲームによって青少年は必ず内面的な影響を受け、そのような影響を受けた青少年は必然的に幼女を殺す」というメッセージを、はっきりとは書かないけど読み取らせようとしているようです。無意識のうちにそういうメッセージが読み手側において構成される、そのために意図的に悪文になっているのですが、もちろん無根拠なデマにすぎないこのようなメッセージを、読み手側が「知らず知らずのうちに」構成させられることによって、読み手は「心を破壊され、人間性を失って」しまうのです。

このように、ほとんど常に「犯罪」と結びついて使われる「心」とか「人間性」という意味不明な言葉で表される人間の内面性と表現物との関係についてのお喋りは昔からなじみ深いものです。このような「心理学」による「科学的」な批判は二つの方向から同時に行なわれます。一つは円さんのように、表現が人間の内面性に働きかけることによって害を及ぼすというもの。この場合、そのような「悪い」表現物が「街中に氾濫」しているとされる一方ではその影響が具体的な「悪影響」として現れてくる割合が少ないことが難点ですが、「犯罪」という形で表れる以前の段階として多くの人が内面性に「悪影響」を受けているのであるという証明不可能な主張がなされることになります。

他方、このような表現が行なわれる原因として、表現者の側の内面性も問題視されます。例えばここで円さんは「社会倫理を持ち合わせていない企業利潤追求」をあげているのですが、これは資本主義における経済主体の一般的な態度に過ぎません。そこで事は「罰則を伴った法律の制定」の問題になるのです。

それとは別に、表現者における「心の破壊」や「人間性の喪失」を挙げる立場もあります。マックス・ノルダウの『Entartung』はその代表的なものでしょう。これは1892年の著作であり、日本でも大正時代に『現代の堕落』(大日本文明協会事務所)として翻訳されました。ブダペストにラビの息子として産まれたノルダウははじめ作家・評論家として活動を始め、後に医学を修めて精神医学者となりました。物書きとして成功を収めたのは1883年の『文化人の常套的虚言Dieconventionellen Lügen der Kulutrellen- menschheit』であり、この書も『現代文明と批判』として日本語訳が出ています。当時けっこう世界的に売れていたようです。

「Entartung」というのは「堕落」でもいいのですが、よく「頽廃(退廃)」と訳されます。ノルダウはロンブローゾの「生来性犯罪者」の概念を援用して19世紀末における印象派絵画、象徴主義文学や唯美主義文学を、隔世遺伝的に発現した原始人的形質が人格に現れた人が近代化・都市化する環境に適応出来ず、結果として「脳中枢に障害」が起きたことによるものであると論じました。それは人間の内面性の「頽廃」の表れなのですが、その「本質」には脳の「変質」があるというわけです。そのような「精神的不具者」としては、ラファエロ前派から始まってボードレール、マラルメ、ワイルド、ユイスマンス、ワーグナー、トルストイ、イプセン、ゾラ、ニーチェなどのそうそうたるメンバーが挙げられています。まるでPTAのように慧眼です。

この「変質」という概念も当時一世を風靡したもので、少なからず遺伝的・生来的な「堕落」もしくは「退化形態」として犯罪や病気の原因として想定されていました。現代の日本でも「痴漢」「性犯罪者」の意味で「変質者」という言葉が使われていますが、これはこの言葉の本来の用法に近いものです。すなわち「変質」とは何よりも「性」における「堕落」であって、当時の「性表現」や「性行動」に関する批判的な文脈で用いられていたものに他なりません。それは現代において「児童ポルノ」や「援助交際」を批判するのと同様の文脈を持っていますが、いくら女子高生が「援交」をしても「変質者」とは言いません。当時は「変質」した性行動といえどもその主体はあくまで男性であったわけで、その名残で現在も男性中心にに使われているのです。

ノルダウはユダヤ人であり、「頽廃」のあらわれの一つとして「反ユダヤ主義」もちゃんと挙げていたのですが、彼の理論はナチスの取り上げるところとなります。ナチスは「コスモポリタン的」もしくは「東方的」あるいは「ボルシェビキ的」で「非ドイツ的」な表現を批判するための道具としてノルダウの「頽廃」を利用したのです。彼らは表現主義絵画のデフォルメされた人物像と奇形者や病人の写真を並べてみたり、近代絵画と精神病者の絵画を並べてみたりして、その「類似」を指摘し、近代の表現を「病気」によるものであると断じ、「頽廃的」であるとして退けました。

ちなみに「頽廃」は「医学的」な概念ですが、治療は不可能であるとされております。まあ、もともとがもともとですから「治療」も何もあったもんじゃないのですが、そういうわけでこれも対策としては排除・追放・収容・殺害などの「法的」な手段がとられることになります。そしてそうすることによって「頽廃」が「社会」を「危険に晒す」ことを防ぎ、「社会」を「頽廃」の影響から守ろうとするのでした。

ナチスはそのような作品を購入した美術館の館長をクビにしましたし、芸術家には作品の制作を禁じました。絵の具も買わせなかったのです。そして各地の美術館から近代芸術作品を押収して、それを愚弄する有名な「頽廃芸術展」を企画して全国を巡回しました。当時の大衆は同時代の表現手法やそこで表現されている宗教や社会への批判に理解を示すこと少なかったので、みんなで一緒になってさんざんに馬鹿にし、悪態をついては大笑いをしたものです。その後で作品は海外に売却し、売れ残りは焼いてしまいました。その一方でナチスご推奨の「真性ドイツ民族芸術」を集めた「大ドイツ芸術展」も行なわれ、そっちの方は前世紀の焼き直しのようなものでわかりやすいし、農民の「少女」のヌードとか筋骨隆々たる男性の彫刻が並んでいたので、みんな「ゆらさないように」気をつけて帰って、「産めよ増やせよ」を実践したものだとされています。「少女」が小学生だったかどうかは、なにしろ裸なんでよくわかりません。

音楽についてもジャズや実験的な音楽、ユダヤ人作曲家の音楽は「頽廃音楽」とされ、「頽廃音楽展」も行なわれています。そういえばテクノ爺さんクラフトヴェルグの横笛吹きフローリアン・シュナイダー=エスレーベン(禿)はかつてインタビューに答えてこんなことを言っています。

ダダイズムやフューチャリズムなどの今世紀初頭のムーブメントには非常に影響を受けた。これらの動きは以後ナチスの迫害を受けて中止させられた。長く続いてきたドイツの伝統が断ち切られてしまった。私たちは、戦前のこの動きを継続したいと思っている。私たちは第二次世界大戦直後の世代なのだから。
 
1989年 銀星倶楽部11「テクノ・ポップ」


ドイツでは表現主義以来、ナチスによる弾圧までに30年という「伝統」があったのであり、ベルリン・ダダも政治とキチガイがぶつかりあった非常に個性的な展開をしていましたし、なによりも映画『キャバレー』に代表されるようにカバレット文化は人類の財産となっています。ロンドン・レコードに「退廃音楽シリーズ」というものがあって、ウテ・レンパーのカバレット・ソングのアルバムが入っていたりします。電子音楽ではフリードリッヒ・トラウトバインが「トラウトニウム」という電子楽器を製作していました。一方現在の日本では分離派建築の代表的な作品である「検見川無線送信所」をぶっ壊そうとしているんですから困ったものです。『あぐり』が流行った時に「伝統」を守る会でも作っときゃよかったね。

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独逸の禿親爺。歳をとるということは良いことだ。


posted by 珍風 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

和田監督の資本主義リアリズム講座

「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論 

   日本テレビ系の人気ドラマ「ごくせん」の一部内容について、精神科医の和田秀樹さんが雑誌コラムで異論を述べ、ネットで議論になっている。不良少年や不勉強を正当化するな、というのが和田さんの主張だ。
「勉強をしている子の方が、不良よりはるかに安全」
   「ごくせん」は、俳優の仲間由紀恵さん(28)扮する熱血高校教師「ヤンクミ」が、ワルの生徒たちに体当たりして更生させていく姿を描く。2002年、05年と大ヒットし、08年4月19日から第3シリーズが放送中だ。初回に関東地区で26.4%の高視聴率を出し、その後も安定した人気となっている。
   このドラマに、和田秀樹さん(47)が噛み付いた。和田さんは、日経ビジネスアソシエ6月3日号のコラムで、ごくせんについて持論を展開。現代版「水戸黄門」と評されるのも分かる痛快なドラマだとしながらも、「看過できない内容があった」と述べている。それは、「秀才学校の生徒の方が不良より性格がねじ曲がっているように描かれている点だ」という。
   そして、和田さんは、こう問題を指摘する。
「(秀才が)勉強のできない人間を、『覆面+鉄パイプ』で『世直し』と称して襲うという設定である。この手の『秀才=悪』『不良=心はきれい』という図式は、ある種の青春ドラマのステレオタイプのようになっている」
問題にする理由として、和田さんは、進学校生徒の犯罪発生率などのデータを示し、「勉強をしている子の方が、不良よりはるかに安全」であることを挙げる。そのうえで、「このような番組は勉強ができない人間の価値観を強化し、ますます格差を広げる結果になりかねない」と危惧し、番組作りを再考するよう求めている。
   ごくせんは人気作だけに、和田さんの意見表明は早速、ネット上で話題になった。2ちゃんねるでもいくつかスレッドが立ち、「『ごくせん』は不良を助長する作品」「不良は圧倒的に悪い奴が多いだろ」と、和田さんに同調するような意見が多く寄せられている。
秀才にありがちな欠点指摘する声も
   一方で、異論もある。「優等生がほんとうに優等生ならいいが、腐ったことをいったりやったりする奴も多い」「受験競争の過程で挫折した人間が、その後どうなるかについて、 和田の視点は全く欠落している」といった意見だ。
   異論をまとめると、優等生だって天下り官僚や悪い弁護士になっている、勉強だけでは創造力がなくなる、お金持ちが進学に有利な社会が悪い、不良はむしろ正義に敏感だから反抗する、勉強できない子はフィクションの中では主役になれる、などがある。
   では、和田さんの言う秀才と不良の対立図式は、実際に子どもたちの間で広がりつつあるのだろうか。
   これについても、学校現場で見方が分かれた。
   「ごく一部に限られる」としているのが、学校裏サイトを日常的にチェックしている全国webカウンセリング協議会理事長の安川雅史さん。「ごくせんは、最後は正義が勝つという設定です。しかし、秀才そのものが悪いとは言っていません。秀才でも悪いことをやっている子は、最後にやっつけられるというストーリーで終わっています。ですから、子どもたちも、重く受け止めないで、スカッとする番組として見ているのでは。裏サイトの書き込みで目立つわけでなく、影響を受けているのは、思い込みの激しい子だけだと思います」
   一方、東京・多摩地区のある市立中学校校長は、「現代型のいじめ」だとして、頭がいい真面目な子がバッシングの対象になることが多いと明かす。テレビで金八先生がもてはやされた20年ほど前から言われている話だという。「中学時代は悪くてもいい、その後、立派に成長しているから、とメディアがドラマなどであおってきた影響でしょう。しかし、そんな子はごく一部で、実際は立ち直れない子がいっぱいいるんです。秀才や不良少年の一面だけを描かれると、子どもたちがそのメッセージを強く受け取ってしまいます」
   和田さんは、こうした議論に対し、次のように説明している。
「子どもたちの間で、不良少年がもてはやされているとは存じあげていませんし、そこまでなっていないと思います。ですが、私が問題にしているのは、学力低下がみられる時代で、勉強できない子が『人間性がしっかりしていればいい』と勉強しないことを正当化してしまうことです。20〜30年前なら社会的に意味のある番組だったかもしれませんが、時代によってテレビのあり方が変わらなければいけないということです。また、優等生に悪いやつがいるというのは、確率論の問題です。悪いやつもいればいいやつもいる。しかし、子どもに勉強させた方が、犯罪者の比率が低い、確率が高いですよ、ということです」

2008年5月24日 J-CASTニュース 


映画監督、といってしまうと大神源太さんも立派なシネアストなわけですが、まあそういう意味では双璧をなす、というか同類の和田秀樹監督ですが、初監督作品にして早くも遺作の声が高い『受験のシンデレラ』の興収のほうはどうだったのでしょうか。せっかく「モナコ国際映画祭」で4部門受賞したんですから、もうちょっと入っても良かったんじゃないでしょうか。もっとも「モナコ国際映画祭」、正確には「暴力描写のない映画のためのモナコ国際映画祭 」というんですが、「暴力描写がない」ことがそんなに良いことなのかどうかはともかくとして、フィルムに箔をつけたい人には意外と穴場かも知れません。

そうでなくても産經新聞に寄稿した和田監督の「芸術」論によれば、「コマーシャリズムに流れない芸術映画」というのは、「暴力シーンのない映画」のことなのだそうですから、「アンチ・ハリウッド=芸術」という短絡的な発想でいくつもりならそういう「芸術」もアリかも知れません。もっとも「ハリウッド」的なものから遠くはなれようとするあまりに、観客に受容される物語のパタンを拒否するのも「芸術」だから別に構わないのですが、見てもらえない映画を作った挙げ句「助成金」をもらえなかったことを恨む、更には人気作品に噛み付いてみたりするのも「芸術」としてのパフォーマンスであればいいんですけど。カンヌ映画祭を粉砕した人もいましたし。

僕は「青春」は森田健作で懲りてますんで「ごくせん」って観てないんですが、「優等生」と「不良」ってのは、例えば時代劇では「悪代官」と「ヤクザ」に当たるんでしょうね。勧善懲悪にピカレスクを加えたもの。いわゆる「悪漢」が、より大きな「巨悪」と戦う、というパタンでしょう。「優等生」というのは役人などになりがちであります。中には良い役人や悪い役人がいるわけですけど、「巨悪」というのは構造的なものであるところ、それを「悪役」としての登場人物個人に代表させることになるのは「お話」というものの約束事だから仕方ありません。

まあ、そういう「巨悪」に立ち向かうのが「悪漢」であるというのもよくあるパタンで、そういう境遇の人じゃないとそんな大それたことを出来ないという、これもおかしな話しなんで多分に封建的な感じがしますが、そういうパタンのほうが受容されやすいらしい。いわば誰かが観客の代理となって「悪」を倒すということなんですが、その場合何らかの常人とは異なる「力」を持った人ということになります。水戸黄門やウルトラマンがそうですが、「ヤクザ」とか「不良」などの「悪漢」も普通の人の持っていない「力」を持つものとして登場するのです。

というような「物語」の「ステレオタイプ」が「時代によって変わらなければいけない」とうのも一つの主張ではありますが、いくつかの定型が神話から民話から小説演劇映画TVに至まで絶えず繰り返し語り直され続けているのが今までの人類の歴史であるようです。権力に「巨悪」を観てこれをやっつけるという「ステレオタイプ」は、少なくとも社会に権力というものが存在する「時代」には変わりようがないでしょう。現状ではTVであろうが映画であろうがそこで語られるパタンが「変わる」ような「時代」であるとはいえません。「物語」に「変わって」ほしかったら社会の方を変えた方が話しが早いようです。

というようなことを映画も撮る「芸術」に造詣の深い「精神科医」が知らないわけではないでしょう。いや、本当は知らないのかも知れませんが、知っていても和田さんの役には立たないようです。和田さんによる「コマーシャリズムに流れない芸術映画」の定義にはもう一つあったんです。それは「国民に啓蒙(けいもう)すべき内容を盛り込む」ということなのでした。対象が「国民」なもんですから「芸術」の定義の中心に「政府公報」を置こうという野心的な試みのようにも見えますが、「啓蒙」などという難しい(産經新聞の読者には読めないものと想定されている)漢字に惑わされずに読んでみると、これはつまり「宣伝」ということです。「コマーシャリズムに流れる」ことと、最初から確固とした「コマーシャリズム」の考えで製作することとは違うようです。営利を目的として「主人公が病気で死ぬ」などといった「ステレオタイプ」に頼ることと、通信教育の宣伝のために映画を撮ることとは違うわけです。それは「国益を考えた」、ついでに私益も思いっきり考えまくった「資本主義リアリズム」の思想に基づいた「芸術」であり、商業主義に魂を売った「商品」ではないのです。その証拠に観客が入りません。
posted by 珍風 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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