2008年06月20日

アジャラカモクレン キューライソ テケレッツノパ

たぶん、刑法に「殺人の罪」がなくても、多くの人は他人を殺すことに抵抗を感じるのではないかと思われます。もしかすると感じない人も多いのかも知れませんが、出来たら感じていただけると他の人の命が助かります。そういった「殺人の禁忌」の感覚は、もちろん誰しも自分の命が大事だということから来るのかも知れませんが、これはほぼ社会的に共有されているものと思われます。だいぶ希望的観測ですが。

こういう「禁忌」はしかし、ときどき破られることがあります。てゆうか「殺人の禁忌」はしょっちゅう破られているのが実情です。俗諺に「ルールは破るためにある」とされますが、「殺人」などはまさに適例というべきでしょう。もちろんこういう場合はそれなりに大騒ぎをすることになっています。時折の侵害行為によって「禁忌」をみんなで再確認するのが習いのようです。

このとき例外的に「殺人」を犯すことが「禁忌」への侵犯ではない、という場合、いわば「許された侵害行為」を行なうことが出来る者というのは、「禁忌」をコントロールすることが出来る者、つまり「禁忌」を制定した「力」と同じものであるとみなされます。

「禁忌」の根源には、例えば実際に殺人行為があった場合のみんなの衝撃や哀しみや怒りといったものがあったんでしょうが、これを犯すことを許されたもの、というか力ずくで不問に付させてしまったものは、そのような「禁忌」の根源を隠蔽して「禁忌」の起源としての「力」の実体化として振る舞うことになるでしょう。これを「宗教的」といっているんですが、要するに「神」ですよ。それは「死」をコントロールする「神」であり、なによりもまず「死に神」として現れることになるでしょう。

朝日「死に神」報道に法相激怒 「死刑執行された方に対する侮辱」
このニュースのトピックス:メディア倫理

 今月17日に宮崎勤死刑囚(45)ら3人の死刑執行を指示した鳩山邦夫法相を、朝日新聞が18日付夕刊で「死に神」と報道したことについて、鳩山法相は20日の閣議後会見で、「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によって執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だと思う」と強く抗議した。
 「死に神」と鳩山法相を表現したのは、18日付朝日新聞夕刊のコラム「素粒子」。約3年の中断を経て死刑執行が再開された平成5年以降の法相の中で、鳩山法相が最も多い13人の死刑執行を行ったことに触れ、「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」とした。
 会見で、鳩山法相は「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。

2008年6月20日 産経ニュース


したがって朝日新聞がここで「死に神」という言葉を使ったのはある意味で正しいのです。鳩山さんのいう「悪影響」については、鳩山さん自身が「死に神」であるかのように書いてしまう限り事態を正確に伝えることに失敗していますから、その意味で「悪影響」があり得ます。「死に神」が特定の誰かを指すような書き方をしたとすれば、朝日新聞は間違っています。なにも鳩山さんだけが「死に神」であるわけではないからです。

たぶん自然発生的な「禁忌」の感覚を、いわば横取りして自分が決めたことのように言い出すのが「宗教」であるとすれば、いままで人類はそれを「神」から奪いかえして、それを「国家」に与えたわけです。しかしそのことによって「禁忌」が世俗化するかと思えばそうではありません。逆に「国家」が「宗教」の位置を占めることになります。国家の「宗教性」は国民の生命に対する高権として表現されています。

人類はこの段階から離脱しつつあるようですが、国家と宗教の関係の深い地域ではその過程が遅延しています。そうでない地域においても、国家のための戦争において死んでもらうことを強制する力を手放していません。しかしながら「戦死」は一面において「事故」であり得ます。それは国家において必ずしも望まれていない死である、そのように振る舞う余地が残されているのです。

しかし「死刑」は掛け値なしに国家の命令による死ですから、ここにおいて国家は「殺人の禁忌」を侵犯する「力」であること、つまり「禁忌」を意のままにする「力」であること、すなわち「禁忌」の源泉であることを誇示することになります。日本では偶数月にこのような宗教的な示威、要するに「祭」が行なわれるようになっているようです。それはそのために集められ、飼われている「イケニエ」の血を国家に捧げる祭祀です。

そうであればこそ死刑囚は「犯した犯罪、法の規定によって執行された」のであって、つまり「イケニエ」を選定するシステムというものがあってそれに従って選ばれた人たちなのであって、その「イケニエ」を決定するシステム自体が「神聖」なものであるから本来なら栄光ある立場であるといってもいいはずなのです。

もちろん、現在のところその司祭の役割を担うに過ぎない鳩山さんが、「死に神」の呼び名を過分なものとして、むしろ冒涜的なものとして拒否するのは敬虔さの表れであるというべきでしょう。彼らはあくまで「血の祝祭」の司祭にとどまるのです。鳩山さんなり他の誰かなりが「神」であるなど畏れ多いことであり、逆にそのように呼ぶことは「イケニエ」とその選定に関する手続の「神聖」を否定するものになってしまい、それは「イケニエ」つまり「執行された方」の「神聖」さをも損なうことによって「侮辱」ということになるのです。

とはいうものの、実際のところ彼らにいちばん似ているのは、親指の動きでグラディエイターの生死を決したローマの皇帝の姿でしょう。だから鳩山さんも「皇帝」とか「カエサル」とか「ガマガエル」とか呼んであげれば喜ぶんと思います。いずれにしても彼らを通して人に「死」を与える「力」を定期的に示すことが肝心です。

一方、このような蒙昧にとらわれないとすれば、死刑制度において「死」を与えるのが「神」のような「国家」ではなくて人間であることが前提となります。そしてそこで働くのは「神」の不謬性ではなく人間の可謬性です。つまり常に「もしかして違うかも」という可能性を捨てきれないということであり、そこで下される決定はその可能性を考慮した暫定的なものであらざるを得ません。

つまり死刑廃止論の論拠における「冤罪の可能性」というのは意外と本質的なところを突いているのかもしれないのです。死刑制度を存置する立場からいえば、それはつまりよく気をつければ大丈夫なことでしかないのですが、神ならぬ人間にはもしかして間違っている可能性を最終的に排除出来ないのであるから、実際問題として、たとえ制度として死刑が存続している場合にあっても、そのような不可逆的な処分を下すことは実務的には許されないということになるでしょう。たとえば「凶悪犯罪」でなくてもひとつでも「冤罪」が発見された場合に、死刑の執行は不可能になるはずです。

これがそうならないこと、死刑の執行が行なわれ続けていることから見ても、この制度が理性的な思考ではなく「遅れた習慣」に基づいていることが明らかです。そこで少なくとも火を使用し直立歩行する以上は死刑については廃止することが良いと思われるのですが、人はおかれた状況によってむしろ古態的な思考に逆戻りします。つまり「やられたらやりかえせただしつよいえらいひとのもとで」というものです。「死に神」こそ「死」の擬人化であり、国家もまた「死」を操る「神」であることがその「つよい力」の源泉となっています。もっとも近頃のように国家が誰彼なく「死」の大盤振る舞いを始めると、そのありがた味もだいぶ削減されるようです。


posted by 珍風 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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