2008年10月08日

復讐的司法と修復的司法

被害・加害者の対話センター=弁護士会が来春設置、全国初−兵庫

 兵庫県弁護士会は8日、来年4月に「犯罪被害者・加害者対話センター」を設置すると発表した。弁護士会では全国初の試みで、加害者の謝罪文を預かる「謝罪文銀行事業」もスタートさせる。
 犯罪被害者と加害者の対話は、欧米などでは広く行われているが、日本では千葉県や大阪府の民間非営利団体(NPO)が実施するのみ。同弁護士会では当事者からの申し込みを受け、期日や場所を打ち合わせ、対話を実現させる。
 謝罪文銀行は、加害者が被害者に送った手紙が被害者に拒否された場合、受け渡しが可能になるまで一時的に保管し、希望した際に交付する。
 すべてのケースで対話や手紙の交付が行なわれるわけではなく、センターに所属する約20人の弁護士らが事件の特殊性に照らして可否を検討する。臨床心理士や精神医療関係の専門家もアドバイザーとして参加する予定。
 同弁護士会は「司法を刑罰の場とする考え方ではなく、修復的司法の理念に基づくもので、被害回復と加害者の更生につなげたい」としている。

2008年10月8日 時事


一応「修復的司法の理念に基づいて」いるようですが、現行の刑事司法制度との関係は必ずしも明らかではありません。「修復的司法」は究極的には現行刑罰制度にとって替わろうとするまでの射程を持ち得ますが、日本においては制度の隅っこにでも場所を得るまでにも至っていないのが現状です。海外ではこのような考え方を取り入れて「被害回復と加害者の更生」をはかり、もって刑罰制度の維持コストの軽減を図ろうとしている政府も存在するようですが、日本ではまだまだ犯罪がそれほど多くないこともあって、そこまでの意識はない模様です。

「対話」をするのは「被害者」と「加害者」であって、「被害者」と「被告人」ではありません。すなわちこの「対話」は、少なくとも裁判によって「加害者」であることが確定した人と、「被害者」の間で行なわれるものとされています。この点で「ひょうご被害者支援センター」理事の高松由美子さんが「事件直後や公判中に面会した場合、関係が悪化する可能性もある」ことを心配している(2008年10月4日asahi.com)のは誤解というものです。「事件直後」や「公判中」は、被告人が「加害者」であるかどうかは未確定なのですから、「面会」など行なわれるはずがないのです。

てゆうかここで「アスの会」の会員でもある高松さんが図らずも「被告人=加害者」という誤った認識を持っていることがバレてしまうのですが、もし仮に「被害者」なり「被害者遺族」というものが被告人を「加害者」であると頭から思い込んでいるものであるとすれば、彼らが「参加」する裁判は冤罪の温床となるでしょう。ったく、折角「被害者参加制度」が始まるというのに、肝心の「被害者」がこんなことでは、とても「裁判」に「参加」する資格などありません。今まで通り外野で騒いでいるのが適当です。

もっとも、高松さんがボロを出してまで文句を付けたがるのも、「犯罪被害者」が国家の代弁者であると考えれば納得がゆくというものです。国家と「被害者」は、その地位を巡って競合しているのです。国家は「犯罪」の「被害者」は国家である、「犯罪」とは法秩序の侵犯であり、そこで「被害」に遭っているのは国家に他ならないと思っているのですが、ここで実際に犯罪行為によってその権利を侵害された人が自分こそ「被害者」である、それなのに蚊帳の外のトンボ桟敷に置かれているのはどーゆーワケだと、当然にも言い出したもんですから、じゃあ一緒にやりましょうということで、「被害者」と検察が仲良く並ぶという形にして事を納めたところです。

しかしながら「修復的司法」においては、「被害者」とか「加害者」などが勝手に話し合って自分たちだけで納得してしまう、そうすると今度は国家が蚊帳の外に置かれてしまいます。国家が自らの「権利」を主張して自分の席を要求しなければなりません。一体全体法を何と心得る、そもそも「加害者」たり「被害者」たる地位は法に基づくものではないか。国家がなければお前らは「被害者」でも「加害者」でもないんだぞこのやろう。

というわけで司法制度の中に自分の席を作ってもらった(といっても一方の当事者のオマケみたいなもんですが)恩義のある「被害者」としてはせいぜい「修復的司法」には反対の立場を取らざるを得ないわけですが、「修復的司法」が本来、「被害者」の「権利」を尊重することより大であるところ、その「反対」は無知と誤解に基づかざるを得ないのでした。

とはいえ「修復的司法」にもそれなりの問題があります。仮に現行の刑罰制度に替わって「修復」による解決を図ることにした場合、例えばすべての「被害者」が高松さんのように絵に描いたような「被害者」もしくは「被害者遺族」であるわけではありません。むしろ殺人の大半が家族親族同士で行なわれることを考えると、加害者=遺族であったりすることも珍しくありませんし、例えば、仮に僕が奥さんと不仲であるとしたときに、その事情を知らない第三者によって奥さんが殺害された場合、これは奥さんにとっては個人的法益の侵害となるでしょうけど、僕にとっては必ずしもそうではないどころか、もしかすると「犯人」に感謝し、お礼のひとつもしたいような気持ちになるかも知れません。この場合には殺された奥さん自身にとっては「修復」が絶対的に不可能である一方で、「被害者遺族」たる僕にとっては、「犯人」に謝礼をしなければならないという逆転した「修復」の必要が発生します。つまり刑法において犯罪を構成するとされる行為が必ずしも「被害者等」の不利益とはならない場合があるのですが、これは僕が殺人犯に一杯おごるというような解決でいいのか。

更に例えばこの奥さんがめちゃくちゃな人で家族親族みんなから嫌われているとすると、この「被害」はもの言わぬ「被害者」以外の「遺族」等の関係者が喜んで受け入れることになるかも知れません。しかしこのような場合に、だからといってそれがいかに「重大な犯罪」を構成するとしてもいかなる事後処理措置も取られないとすれば、それはそれで僕とか息子娘親戚一同にとっては別にかまわないのですが、これは重大な問題となります。それはつまり皆に嫌われている人の権利の保護を放棄するということになるからです。特に殺人の場合、「被害者」は「修復」の手続から除外されざるを得ませんが、それが結果として「リンチ」になる可能性があります。

その一方では、ある人が誰かの行為によって不都合を被った場合においても、それが刑法上の犯罪を構成しない場合、「被害者」にいくら不満があってもそれは社会には何ら顧慮されないことになります。要するに泣き寝入りであって、まあよくある話しといえばよくある話しなんですが、そういうのはどうしたもんか。社会的な「修復」の必要性を刑法の範囲内に止める根拠を「修復」のコンセプトそのものの中から導き出せるものでしょうか。

しかし逆に、当事者間の関係の修復という考え方が暴走して仮に日常の些細な紛争においても適用されるとすると、刑法上の犯罪に当たらない行為についても侵害された関係の修復責任が問われることになるのですが、その一方で僕たちは相互にある程度の不快・不都合を受忍し合うことによってお互いの権利を尊重しているものと考えられます。しかしここで悪質なクレーマーの存在を想定して、そいつがウルサイので「修復」の手続に入ることになったとすればどうなるか。このような「修復」の拡大は結局全ての人の権利を萎縮させるでしょう。そして中でも特にやっぱり皆に嫌われている人の権利を大きく損なうことになるに違いありません。

とはいっても無責任に「刑罰」を課して事足れりとする現行の制度に比べれば、「修復的司法」は「被害者」には被害の回復または被害体験からの立ち直りを優先しており、そして「加害者」にとっても「被害者」や「社会」に受容される行為を行なう経験を与えるというかたちで「更生」を優先的に考えている点で、なんぼかマシという程度には優れたアイデアであって、いろんな難点にも関わらず追求する価値はあると思われます。もっともこれは「組織的犯罪者」には適用し難いものだとされていますが。そしてもちろん「組織的被害者」にも通用しないみたいです。


posted by 珍風 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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