2009年01月20日

さっそく忘れられた「忘れない」

公訴時効廃止のキャンペーンが全国的に展開しているようですが、中にはだいぶムリをなさっている向きもあるようで。不器用ですから。

旧山香町殺傷事件から7年…癒えぬ遺族の心

「お父さん。これからも見守ってください」。吉野さんが眠る墓前で手を合わせる遺族=16日午後
 旧山香町日指(現杵築市)で建設業吉野諭さん=当時(73)=夫婦が自宅で留学生グループに襲われ、吉野さんが死亡した事件は、十八日で発生から七年。大事な家族の命を突然奪われた遺族の悲しみは癒えることはない。犯人五人のうち、主犯格の二人は逃亡したままで、怒り、悔しさ、恐怖心など複雑な心情も入り交じり、今も苦しみ続けている。
 「笑顔を浮かべても、あの日以来、心の底から笑えたことは一度もない」。遺族の一人はうつむいた。事件のことは一日たりとも忘れることはできない。毎晩、親族の動向や健康状況などを心の中で吉野さんに報告し、「お父さん、これからも見守ってください」と就寝している。
 犯人に胸などを刺され、瀕死(ひんし)の重傷を負った吉野さんの妻(78)は、今でも傷が痛み、頭痛がするという。遺族は日が暮れると、誰かが家に侵入してくるのではないかと恐怖にさいなまれている。
 捕まった犯人三人のうち、刑が確定しているのは一人だけ。二人は上告中。「あまりに長すぎる。いつまで待てばいいのか」。当初、「三人とも死刑になってほしい」と強く願っていたが、遺族の一人は「量刑が重いのに越したことはないが、死刑になったとしてもお父さんは帰ってこない。そう考えると悲しくなる」と今の心境を吐露する。「遺族にとって“やられ損”の一言です」と強調した。
 法務省では現在、殺人など重大事件を対象に、公訴時効制度の期間延長や廃止に向けた検討が進められている。山香の事件では、主犯格の二人は国外に逃げたため、時効は停止することになるが、遺族は「残された家族の苦しみは、決して消えることはない。時間がたてば、犯人だけが苦しみから解放されるということがあってはならない」と訴えた。

※旧山香町夫婦殺傷事件
 2002年1月18日午前2時すぎ、就寝中だった吉野さん方に留学生5人が強盗目的で押し入り、吉野さんの腰を包丁で刺して死亡させた。3人が捕まり、07年の福岡高裁判決では、それぞれ無期懲役と懲役15年、懲役14年となったが、懲役14年の男以外、2人の男については検察側が上告した。懲役15年を言い渡された男自身も上告。主犯格の朴哲(28)、張越(30)の両容疑者は事件後、中国に逃亡した。吉野さんは生前、留学生の世話をしていたことから「恩人殺し事件」として国外でも報道された。

2009年1月19日 大分合同新聞


ほとんど見事なまでのこじつけ記事であるといえるでしょう。遺族にとって「やられ得」の事件があったら面白いのですが、そういうことは滅多にないようです。たいていの殺人が「遺族にとって“やられ損”」なのは当たり前でしょう。とはいっても当たり前のことが見逃されがちなのが現代社会、すなわち古今東西のあらゆる人が「現代=今」だと思っている時代の世の中の常です。

しかしこれは時効廃止のキャンペーン記事なのでした。大分には適当な「事件」がないのに、キャンペーン記事を書かなければならなかった記者さんに、先ずは同情を禁じ得ません。「法務省では現在、殺人など重大事件を対象に、公訴時効制度の期間延長や廃止に向けた検討が進められている」ことに言及することはしましたが、この事件では「主犯格の二人は国外に逃げたため、時効は停止することになる」んですから何にもなりません。しかたなく「時間がたてば、犯人だけが苦しみから解放されるということがあってはならない」という「遺族」の言葉を紹介してみたものの、盛り下がることおびただしい。

こんなことなら「法務省では云々」など書かなければ良かったのですが、それを書かないのであればこの記事を書く理由がありません。つまりこのパラグラフはこの記事のヤマなのです。それがこのザマだ。何事もムリは禁物です。

ところで国外に逃げた人について言えば、この件の場合中国で捕まればあっちで裁判が行われて死刑になるのではないかと思われます。しかし中国との間には犯罪者引渡しに関する協定がありませんから、日本に引き渡される可能性は薄いでしょう。

各国では各国の都合によってそれぞれ好きな国と協定を結んでいます。日本が協定を結ぶことが出来ているのはアメリカと韓国だけです。中国とは協定がありませんから、日本は日本にいる中国の「政治犯」を中国政府に引き渡すほど腐ってはいないようです。同様に他の国では日本に自国民を引き渡すと死刑になる可能性があるので、そんな国と協定を結ぶほど頓珍漢ではないようです。

つまり死刑制度を存置していると国外に逃亡した容疑者は得をするようですが、逃げている間は時効が停止されているのですから、結論としては「別にかまわないのではないか」ということにしかならないでしょう。読めば読むほどテコヘンな記事です。もしかしたらワザとこんな破綻した記事を書いているのかもしれませんが、そんなワルいことはしないでしょう。

こんなことになるのもキャンペーンを無理矢理実際におこった事件に絡めて書いてみよう、などとちょっと粋な気分になってしまったのが敗因です。人には向き不向きがあるのです。社説か何かにするのが簡単です。社説に下らないことを書きたくなかった大分合同新聞の見識には敬服しますが、若い記者に無理難題を吹っかけるのはパワハラです。

「時効」見直し 法治と感情、均衡どう取る

 殺人など重大事件の公訴時効のあり方について、法務省が見直す方向で検討を始めた。時効の廃止を含めて3月までに報告書をまとめるという。
 公訴時効は、犯罪が終わった時点から一定の期間が経過すれば、起訴されない制度だ。刑事訴訟法二五〇条に規定されている。
 時間の経過で事件の証拠が散逸し、犯罪の証明が困難になる、社会や被害者遺族の処罰感情も時間の経過で薄れる−などが制度の根拠とされる。
 犯人も長い逃亡生活で罪の意識や「いつ捕まるか」という不安にさいなまれることで一定の制裁が加えられている。そういった説明もされている。
 しかし、被害者遺族には時効は「逃げ得」にしか映らない。「親や子を殺害された家族の悲しみや苦しみは、どんなに時間がたっても消えない」「草の根を分けてでも犯人を捕まえてほしい」。肉親の命を奪われた遺族の訴えは切実だ。
 社会が被害者遺族の無念さに心を寄せ処罰感情を共有するのは、ある意味、自然でもある。
 全国犯罪被害者の会が昨年11月、時効廃止を求める決議を行ったのも「時効は犯人の逃げ得を許し、社会正義に著しく反する」との理由からだ。
 見直しは、こうした被害者遺族の声に応えるためでもあるが、2005年施行の改正刑訴法で、殺人などの「死刑に当たる罪」の時効期間は15年から25年に延長されたばかりだ。
 この時の改正は、DNA鑑定など科学捜査の著しい進歩で、血液や体液など犯人特定につながる証拠の保全がこれまでよりはるかに長い期間、可能になったことなどを受けたものだ。
 捜査環境の変化に応じて時効のあり方も見直されるべきではある。しかし、前回の法改正から5年足らずの間に時効期間のさらなる延長が必要なほど、捜査環境が変わったとは思えない。
 その意味でも、今回の再見直しは時効期間の延長ではなく、時効制度そのものがいまの時代に必要かどうかを根本から考え直す場ととらえたい。
 その際、留意が必要なのは、議論が被害者遺族や社会の処罰感情に偏りすぎないようにすることだ。感情論で法制度を見直すのでは、私たちの法治社会そのものを危うくしかねない。
 時効廃止によって生じる半永久的な長期捜査の人的、財政的な負担をどうするのか。犯人逮捕の実効が上がるのか。そうした現実的な議論は欠かせない。容疑者の人権への配慮も必要だろう。
 とはいえ、時効が結果的に犯人の「逃げ得」につながるような制度であってはならない。国民感情も納得しまい。
 法治と感情の均衡をどう取るか。難題ではある。時効制度を廃止するにせよ、残すにせよ、感情論に流されない慎重な議論と判断を求めたい。

2009年1月19日 西日本新聞


「どうとる」って、コーヒーじゃあるまいし、どうにもこうにも取りようがありません。そこでもうひとつ、これは解説記事なのかなんなのか、ようするにこれは「公明党に関するニュース」になるんですかジャンルがよく分からない記事です。

犯罪被害者本位の議論深めよ
法務省も勉強会開き、対応を検討


公訴時効の見直し
 公訴時効の見直しについて、法務省が今月から勉強会を始めた。今年度内の報告書作成をめざす。
 刑事司法にとって公訴時効の問題は難問の一つである。制度の存在理由は理解できるが、一方で、犯罪被害者の立場に立つと、やりきれない思いが募る。
 刑事司法は歴史的に見ると、裁かれる側・加害者の「権利・利益の保護」が中心だった。しかし現在は、犯罪被害者の「権利・利益の保護」が要請される時代である。公訴時効の見直し論議の中では、犯罪被害者の視点を十分に配慮してほしい。
 刑事裁判には裁かれる人の人生を大きく変えるほどの力がある。それを支える刑事司法は裁判に誤りが起こらないような工夫が凝らされている。公訴時効もその一つである。
 いかなる犯罪も公開の刑事裁判で有罪が確定しないと処罰されることはない。犯人が逮捕された後、裁判所に対し、刑事裁判を求める公訴の提起(起訴)ができるのは検察官に限られ、しかも、犯罪行為が終わった時から法が定める一定の期間が経過すると、たとえ犯人が分かっていても検察官はその事件について起訴をすることができなくなる。これが公訴時効という制度であり、殺人事件など死刑に当たる罪は25年、無期懲役・禁固に当たる罪は15年となっている。この間、犯人が国内で逃げ通すことができれば、処罰されることはない。犯人の「逃げ得」を認めるような制度である。
 しかし、伝統的な考え方では、時間の経過によって証拠が散逸し、被害者と社会の処罰要求も希薄化するとの理由のほか、一定期間、起訴されなかったという事実状態を尊重することも公訴時効の必要性とされてきた。日弁連も、時間の経過によって無罪証明が困難になる恐れもあるとして公訴時効の見直しには慎重姿勢を示している。また、公訴時効がなければ、警察に大きな負担がかかり、それは税負担として国民にも返ってくるとの指摘もされてきた。

あるべき刑事司法探れ
 しかし、犯罪被害者の目にはどう映っているのか。全国犯罪被害者の会は昨年11月30日の大会で、「殺人事件など重大な事件の被害感情は、時の経過により薄くなることはなく、むしろ日に日に増していく。殺人犯等が時効により何の処罰も受けないで良いと考えるような社会的コンセンサスも存在しない」として、「殺人事件など重大犯罪について、公訴時効の廃止を求める」と決議した。
 公明党の神崎武法常任顧問は昨年(2008年)11月14日、衆院法務委員会で、公訴時効制度の根拠とされた時間経過に伴う証拠散逸について、DNA鑑定の精度向上など科学捜査の進展なども考慮に入れるべきであると指摘した上で、「重大犯罪について公訴時効を廃止することも検討してはどうか」と問題提起をした。
 公訴時効の見直しの中で、あるべき刑事司法の姿を探る議論が行われるよう期待したい。

2009年1月20日 公明新聞


「刑事司法は歴史的に見ると、裁かれる側・加害者の「権利・利益の保護」が中心だった」というような事実誤認もありますが、「刑事司法は裁判に誤りが起こらないような工夫が凝らされている。公訴時効もその一つである」というあたり公明党にしては上出来で、西日本新聞で「社説」を書いているほどの人は見習ってもらいたいものです。だからといって創価学会に入れということではないのですが、もう入っているのかもしれませんが、公訴時効があるのは何故かという点、「裁判に誤りが起こらないような工夫」という解釈は良い解釈です。

この記事では公訴時効を説明する「伝統的な考え方」や日弁連の見解も紹介しています。そのうえで公訴時効を「見直す」唯一の根拠として「犯罪被害者の立場」を挙げています。これはまことにスッキリとした記事であるといえます。時効の廃止は「被害感情」に立脚しているのであって、西日本新聞のように「留意が必要なのは、議論が被害者遺族や社会の処罰感情に偏りすぎないようにすることだ。感情論で法制度を見直すのでは、私たちの法治社会そのものを危うくしかねない」などと中途半端なことはいいません。「均衡」なんか取れないし、取るつもりもありません。

最初から「感情論」で「法治社会」を「危うく」するのが目的です。「法治」の目的が公権力との関係において個人の権利を守る仕組みであるとすれば、「裁かれる側・加害者の「権利・利益の保護」こそが「法治」です。そこではなるほど「被害者遺族」などは「放置」されるのかもしれませんが、だからといって公権力が「遺族」を利用し、「遺族」が公権力の側に立つのであれば、「遺族」の「権利・利益」は法によって保護される根拠を失います。なんだか可哀想なようですが、「遺族」がそのような立場に甘んじているのであれば仕方がありません。権力に尻尾を振って自分の目的を果たそうとするのも良いのですが、権力というものは利用されるままにはなっていませんから逃げ足だけは早くしておいた方がいいでしょう。もっとも逃げ場なんかありませんが。中国ではどうか。

そういえばどちらさんも「アスの会」のことは書いているのに「チュウの会」のことは全然書いてないので、アレはやっぱり「アスの会」の支部か何かだと思われているのか、たった10日でキレイさっぱり忘れられたのか、宙っとぼけられちゃったのか、なんだか可哀想なようです。


posted by 珍風 at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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