2009年01月27日

司法の無修正局部アップでどーもすいません

裁判員制度で映像取材を要望=民放連

 日本民間放送連盟(広瀬道貞会長)は27日までに、5月から始まる裁判員裁判の取材について「裁判員選任手続き、評議室、法廷内など各段階で、映像と音声取材が認められるべきだ」などとする見解をまとめた。今後、最高裁など関係各界に実現を呼び掛けていく。
 このほどまとめた基本スタンスの骨子では、「公判の過程が映像と音声によって可視化されることにより初めて、真の意味で『開かれた司法』『開かれた裁判』が実現される」と指摘。「最終的には、法廷内の全面的な可視化を求めたい」としている。

2009年1月27日 時事


いや、とんでもない話しだ、こう見えても僕などは見かけによらす二枚目なので下手に映像が公になったらまた女性ファンが……などという心配は一切しなくてもよいそうですが、もとより裁判は公開されています。人気裁判ではくじに外れるとダメだったりしますが、それは単に物理的な制約によるものであって、「見たい人は見ることが出来る」のが本来です。したがって民法連のいうことは原則に忠実であるだけです。

なかでも「裁判員選任手続き」について公開を求めた点は興味深いものです。そこは「裁判員制度」の理想と現実が交わす刃の火花散らす交点なのです。次の記事は色んな意味で面白い、と思ってもらいたいらしいのですが、そうでもなくて結構退屈です。しかし選任手続に関する見識には目を見張り開いた口が塞がらないだけのものは、あります。

記者の目:充実感あふれていた80年前の陪審員=伊藤正志

「東京の初陪審」を伝える東京日日新聞1928年12月18日夕刊
 裁判員制度は「現代の徴兵制度」なのだそうだ。突然「赤紙」(候補者通知)がきて、半ば強制的に「戦地」(法廷)に駆り出される。だが、兵役拒否は命がけだが、裁判員はかなり緩い「義務」に過ぎない。まずは、かみしもを脱いで「人を裁く」ということを考えてみたい。
 5月の開始を前に、制度への反対・延期の声が強い。「素人に有罪、無罪だけでなく量刑まで判断させるのは無理がある」「取り調べの全面可視化など条件整備が不十分のまま始めれば、国民が冤罪(えんざい)に加担させられる」など、制度への根本的な批判も少なくない。
 しかし、多くの国民は、そういう理屈で裁判員を迷惑な「義務」と考えているわけではあるまい。「法律の知識はないし、仕事を休んでまで行きたくない」が本音ではないか。裁判員制度の導入を決めた審議会などを私は4年近く取材したが、閉塞(へいそく)感の強かった刑事裁判に民意を反映させるこの制度は、新たな国民の「権利」のはずだった。
 元最高裁判事の団藤重光氏は、英国の陪審制度を民衆の力で勝ち取った権利と指摘し、裁判員制度については「あくまで『官製』のものでしょ」(朝日新書「反骨のコツ」)と批判する。ならば歴史を顧みて、不人気を解消する妙案はないか。そう思いながら、1928(昭和3)年12月の東京日日新聞(現毎日新聞)を繰った。
 この月、帝都・東京で最初の陪審裁判が開かれたのである。戦前・戦中の15年間、日本は陪審制度を実施した。大正デモクラシーの時代、自由民権運動の成果として実現した。
 12月18日夕刊の社会面トップは「美人火の呪いを 東京の初陪審 法相以下も居並び」の見出しが躍り、法廷写真も載っている。
 被告は21歳の主婦で、保険金目当てで自宅に放火した罪に問われた。12人の陪審員と2人の補充員は実名報道で職業も公開されている。こんにゃく屋、酒屋2人、歯科医、絵具商、機械商、無職2人、八王子在のお百姓2人、会社員とある。名前も職業も伏せられる裁判員制度とは大違いだ。
 初日の審理で、被告は全面否認する。以降、夕・朝刊で連日の展開。主な見出しを拾ってみよう。「子を思う(被告の)親心に法廷皆すすり泣く 初陪審の劇的シーン」「陪審員証人の警官にお叱言(こごと) 専門的な質問お見事」「『彼女の涙は何を語る』と病める弁護士の熱弁」「『美人放火』を断定 検事陪審員に迫る」。そして12月22日の朝刊「帝都最初の陪審公判 遂(つい)に無罪の判決下る 感激の美人 光景劇的に大団円」に至る。当時は、陪審団の答申を受けて裁判長が判決を言い渡す仕組み。無罪の答申が受け入れられたのだ。
 陪審員は5日間の缶詰め生活だったものの「幾分疲労の色が漂っているが、全力を注いだ熱と誠意の答申を容(い)れられた喜びはさすがに包みきれない」との記事がすべてを物語る。「初めは何が何やら分からなかったが、そのうちに事件の核心が分かってきた」「審理が面白くてノート3冊を請求して皆使った」などその声は充実感にあふれる。
 おくせず全力で法廷に臨んだ80年前の日本人の姿に、私は感動を覚えた。裁判員裁判も、法廷での証拠調べが原則だ。陪審裁判に負けないスリリングな審議はできると思う。きっと得がたい経験になるはずだ。
 ただし、死刑が想定される事件については、参加を含め慎重に考えてほしい。人の命を国家が奪うことにかかわるからだ。裁判官でさえ、死刑言い渡しに悩み苦しんできた。死刑廃止が世界の潮流の中、日本は死刑制度を存置する。裁判員制度を前に、本来、死刑や終身刑の議論を国会で深めるべきだった。裁判所が模擬裁判から死刑相当事件を外すのは、重大な問題から国民の目をそらすものと言うほかない。
 死刑事件にかかわりたくなかったり、どうしてもやりたくない人が「選ばれない」自由はないのか。勧めるわけではないが、方策はある。裁判員を選ぶ際、質問手続きがあり、検察、弁護側双方が数十人の候補者から気に入らない4人ずつを忌避できる。「変な人」を排除するためのこの仕組みを利用して「被告は絶対やっていると思う」または「被告は絶対やっていないと思う」と言えば、ひどい先入観だとして弁護側、検察側いずれかが忌避するだろう。死刑など肝心の議論が置き去りにされている以上、「良心的裁判員拒否」があってもいい。嫌々裁かれては被告も可哀そうだ。
 1923(大正12)年、陪審法公布の約半年後、関東大震災が起きた。それを乗り越え、予定通り陪審制度は始まった。4カ月後、裁判員制度もスタートするだろう。だが、よりよい制度への道はまだ半ばである。(東京社会部)

200年1月27日 毎日新聞


押し付けられ、断ることの出来ない「権利」なんてありません。伊藤さんがいくら巧いこと言っても違うものは違うのです。毎日新聞ではどうだか知りませんが、「勧めるわけではないが、方策はある」ようなものは「権利」とは呼びません。しかしこの「方策」が、司法の「現実」を直視した時に始めて活用出来るような、そんな「方策」なのです。

伊藤さんは「「被告は絶対やっていると思う」または「被告は絶対やっていないと思う」と言えば」大丈夫、などと言っていますが、これは間違いでありしかもこの間違いは故意によるものです。裁判員の選任においては、その手のキチガイを排除するわけではありません。てゆうか裁判員が参加する裁判に該当する全ての事件において候補者が先入観を形成するだけの報道が行われるわけではありません。伊藤さんは「死刑」が問題になるようなゴージャスな事件に気を取られているようです。

実際には裁判員候補者は、警察などが提出する「証拠」を他の何よりも信憑する用意ができているか、死刑を選択する用意ができているかを問われるのです。起訴側の証拠を一方的に信憑し、しかも死刑判決を出しうるものとは誰でしょうか。それは今現に裁判官である人以外にはありません。

実際の裁判員の選任手続においては、対象者がどれだけ裁判官と似通った判断をする可能性が高いかどうかが試されるのです。裁判員制度の「理想」は、裁判に「プロ」の裁判官とは違った「市民感情」だかなんだかを導入することだった模様ですが、実際には裁判官の判断とたいして違わない判断を下すであろう人物だけが裁判員を勤めることが出来ることになっています。

この「理想」と「現実」の落差において、その「取材」は意味を持ちます。しかしそうでなくても裁判員の選任手続において各裁判員がいかなる思想信条を持っているのかという情報が得られるのであり、それは判決を評価する際に意味を持ちます。なぜならいかなる判決も「たまたまそういう奴が担当したからそういう判決が出た」のであり、別の奴がやっていたら別の判決が出ていた可能性があるからです。つまりある判決が出た場合に、その判決を出すに至った裁判員の「傾向」を観測するために、その選任過程の情報は不可欠なのです。

同様に「評議質」での「密談」も、公開されなければなりません。いかなる方法で選ばれたどのような人間がどういうことを言ったのでこういう判決になった、ということが明らかにされる必要があるからです。裁判官による誘導があればそれも明らかにならなければなりません。しかしそんなことよりも、判決に至る過程を明らかにすることは、その判決を批判可能なものとします。つまりそれは偶然のものであり、他の判決が出ていた可能性があるものとして考えることができるようになるということです。

そんなことはジャーナリスムの基本なのかもしれませんが、吉本の芸人でタップダンスが出来る人の方がジャーナリズムを心得たジャーナリストよりも多いそうですから、そこらへんはなんとも心もとない限りです。しかし、全てのプロセスが取材対象となるのであれば、例えば伊藤さんがワザと言っている「変な人」になりたくないばっかりに、取材されている選任過程で「無難な」回答をして、取材されている評議を「無難に」こなして裁判員のおつとめををつとめあげて済ませる人が多く出てくる可能性はあります。しかしそれが何だっていうんだ。それこそこの制度が最初から求めていたものではなかったのか。

もっとも民法連は公判前整理も取材させろとは言っていません。本当はここが一番ヤバいところじゃないかという気もしますが、ヤバいとこには触らないようです。しかしそんなことではいくら爪を短く切ってもプロとはいえないようですが、お互いになるべく疲れないように1本仕上げるのが「プロ」の女優であり男優であるのかもしれません。もしそうであるならば、最高裁としてはカメラの前で裁判をおっ開げるのになんら躊躇するいわれはありません。乾いたオマンコをさらしても平気なものです。それでも怠惰な観客はそれでイッちゃうんだから。僕もイッちゃった。そんなことを書いていると全国1000万人の女子高生ファンが……!そんなもん最初からどこにもいないことも勿論予定の範囲です(負け惜しみ)。


posted by 珍風 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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