2009年02月21日

東京残虐検察

マスゴミとしては円滑にして効率的な取材のために取材源と親密に接触して「ごっくん」したりされたりすることもあるやに伺っておりまりますが、社会部の諸君は若干事情が異なるようです。社会面をにぎわす「事件」においては多くの場合、当事者と普段から親交とか情交を温めておくというわけにはいきません。何の報道価値も無いつまらない人間が、ある瞬間突如として何の前触れも無く「容疑者」となり「被害者」となってセレブの仲間に入ってくるのです。

ところがこれら新参のセレブたちは、マスゴミの取材を避けているように見えます。てゆうか彼等は彼等なりに、別口のインタビューを受けるのに精一杯の状況なのです。そこでマスゴミとしては拘束されていない方のセレブにその興味を向けることになります。しかし彼等は感情的に極めて敏感になっており、出来れば取材など受けたくないというのが本当のところです。何といっても彼等は事件の「被害者」なんですから。

そこでマスゴミとしては彼等がインタビューを受けやすいように、進んで感情のはけ口となり、彼等の述べるところをやさしく導き、そしてことあるごとにご機嫌を取ることが大変に重要です。例えばこのようなところでも細かい配慮が必要なのです。

2月19日付 よみうり寸評

 被害者の母親は失望をあらわにして顔をそむけた。他の遺族はうなだれ顔を手で覆った。「死刑は重すぎる」として無期懲役の判決を言い渡した法廷のこと◆何の落ち度もない23歳の娘を殺害された遺族に「死刑は重すぎる」の言葉はどう響いただろうか。「人一人殺しておいて、重すぎる? それはないだろう」の思いが痛いほどよく分かる◆昨年4月、東京・江東区のマンションの自室で2部屋隣に住む会社員の女性を殺害、遺体を切り刻んで捨てた男に対する判決だ◆被害者が1人の殺人には無期懲役の先例が多い。連続4人射殺の永山則夫事件で最高裁が示した死刑適用基準がその後の判決をリードしてきたからだ◆この基準には被害者の数もあれば、遺族の被害感情も残虐性もある。これまでは被害者の数がとりわけ重視されてきたようだ。今回もそれを踏襲した色が濃い◆「残虐かつ冷酷で、戦慄(せんりつ)すら覚える」と断じながら無期懲役にした。5月からの裁判員裁判ならどう展開するか。裁判員には重いテーマだ。

2009年2月19日 読売新聞


「何の落ち度もない」とか「痛いほどよく分かる」などといった気の利かない常套句の使用は、真面目な雰囲気を醸し出すのに効果的です。もっとも内容的にはあまり真面目ではありません。いわゆる「永山基準」がどうしたとかこうしたとかいうのがお決まりのパタンです。「これまでは被害者の数がとりわけ重視されてきたようだ。今回もそれを踏襲した色が濃い」というわけですが、これは真面目に判決を読んでいない人でなければ書けない文章でしょう。いくら何でも「被害者の数」くらい数えられるわけですが、やったはそこまでのようです。

なにも「永山基準」だって、多くの場合片手の指の数にも満たない「被害者の数」を数えて事足れりとしているわけではなく、永山さんの場合はヤクザの指だと片手一杯ですが、寸評先生のご指摘の通り「遺族の被害感情も残虐性もある」わけです。しかし「基準」はそれだけではありません。1983年に最高裁が示した基準において総合的に考慮されるべき要件の数は片手の指では足りません。状況によっては両手の指でも足りません。妖怪人間だと全然無理です。それは

1、犯行の性質
2、犯行の動機
3、犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4、結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5、遺族の被害感情
6、社会的影響
7、犯人の年齢
8、前科
9、犯行後の情状

であり、数の「1」を数えるのに比べると若干高度なことをやっているようです。勿論これらの点についての評価は多分に主観的でありうるのであって、例えば「残虐性」などは、誰でも人を殺す以上は少なからず「残虐」なことをやっているわけですから、検察などは気軽に「類を見ない残虐性」だとか言うことが出来る一方、このような場合に特に取り上げるべき「残虐性」とはどのようなものであるのか、裁判官によって判断が分かれるところです。

とはいうものの、今回の裁判においては、寸評先生の指摘する2点、すなわち「残虐性」と「被害感情」が、検察側のチャームポイントと一致することは全くの偶然では片付けられない程の奇跡的なシンクロニシティーであると言って過言ではないでしょう。要するに先生、判決は真面目に読んでないくせに検察べったりのごっくんのぶっかけです。

星島さんの裁判は「残虐性」をめぐって行われた、というよりは実際の犯行をも凌駕するかのような「残虐演出」の実験だったのであり、同時にそれは「被害感情」を盛り上げるという点ではすでに「実用段階」に入っていたのです。

しかし実際には星島さんは「性奴隷」の人ですから、殺人にはあまり興味が無かったようで、犯行の様態も一突きで失血死させるという拍子抜けする程シンプルで残虐味に欠けるものであった一方では、前科がなく、公判においても否認せず自ら死刑判決を望む発言を行うなど情状の点から見ても死刑を回避するのはむしろ当然であり、あたかも今回の判決が被害者の数だけを考慮して書かれたかの如き寸評先生の評価は、判決も真面目に読んでいないし、「寸評」自体真面目に書いていないことを伺わせるものがあります。

もっとも寸評先生がどうせ隅っこのコラムだからといい加減に一杯やりながら書き飛ばしたのかどうかは分りません。てゆーかどこでも新聞社はコラムというものを重視しているわけで、とりわけ讀賣新聞はナベツネの気に入らない「寸評」は途中からでも差し替えるという程に重要視をしているところであります。したがって寸評先生がいかに不真面目で百万人(もっとだ)の失業者の発生に「残虐かつ冷酷で戦慄すら覚え」ない程の脳死状態であっても、それは彼が住宅ローンとかいろいろクビになっては困る事情があるものと考えてあげるのが適当であります。

それよりも問題は「失望をあらわにして顔をそむけた」り、「うなだれ顔を手で覆った」という落ち込みまくりの「遺族」の方です。彼等が落ち込んでしまうのは判決のせいではありません。最高裁レベルで「永山基準」を放棄したことはありませんから、この裁判においても「永山基準」が適用されることが当然予想されるところ、検察の演出に惑わされること無く双方の主張を吟味する時に、死刑判決が出る可能性はあまり高いものではなかったと思われるのですが、誰一人その点について遺族の注意を喚起した人はいなかったのです。

検察はスライドショーで遺族にショックを与えてしまった関係から、死刑を確約するようなことを言ってその場を納めた可能性があります。マスゴミも裁判を傍聴していながら、もっぱら検察側のラインに乗って「被害感情」を盛り上げようとしていたわけです。冷静に考えれば死刑判決が出ない可能性が存在したと考えられ、てゆうか死刑を回避すべきであるという考え方が示されるべきところ、そのような見解が示されることは無かったので、遺族としては当然に死刑判決を期待することになります。遺族はその気にさせられ、その気を利用されます。彼等は死刑要件たる「遺族感情」を分泌し、吸い取られる家畜だったのです。気がついちゃいけない。気がつくとツラくなる。まだあと2回あります。戦線離脱は許されないのです。


posted by 珍風 at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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