2009年05月13日

何を今さらMr.ローレンツ

collaboration.jpgこの佳き日に、実に長たらしい駄文をご紹介できるのは望外の喜びであります。

無償の行為の価値
石原慎太郎・東京都知事

 2016年オリンピックの東京招致のために先般のIOCの評価委員の来日等このところIOC関係者との顔合わせが多いが、彼等との会話の中で確認される共通しての悩みがある。それはどの種目においても次の世代のトップアスリートたらんとする若者たちの数がめっきり減ってきたということだ。つまり先進国の若者ほど、つらいことは嫌がる、故にもスポーツでの肉体のことさらの苦痛を避けたがる。
 仮に何かの種目のナショナルチームのメンバーとなっても、コーチや監督による指導が厳しいと音を上げて止(や)めてしまう選手が多いと。
 かつてとは違って何かの種目で優勝したりすればテレビのコマーシャルから口もかかって大層な実入りともなる時代ではあるが、なお。
 45年前の東京オリンピックでは銅、次のメキシコ・オリンピックでは銀、そしてミュンヘンでは念願の金メダルを手にした男子バレーボール・チームの名監督、松平康隆さんの慨嘆だと、東京オリンピックでは銅に甘んじたために、女性チームの金に比べて男は銅かということで賞賛もされなかった男子チームを、まさに八年間臥薪嘗胆(がしんしょうたん)し大胆な戦略と緻密(ちみつ)な戦術の下で金メダルを獲得した報償に男子チームが手にしたのはなんと僅(わず)か十万円の報償金だったそうだが、今では選手個人でとてつもない額のコマーシャルへの出演料を手にすることが出来てもなおだ。
 IOCのロゲ会長は私と同じヨットマンでもあるが、会食の折私が打ち明けた悩みにヨーロッパでも全く同じだと慨嘆していた。それはオーバーナイトのタフな外洋レースに若い乗り手がめっきり少なくなったということだ。
 かつて沖縄復帰記念に創設された沖縄レースはアジアでも有数の、この日本では最もタフで危険なものだ。沖縄から黒潮の洗う暗礁だらけのトカラ列島を縫い、さらに太平洋に出て北上する千五百キロに及ぶこのレースは、風向きによっては巨大な三角波と闘い、さらには太平洋に出来る冷水塊と闘い、強い海流を計っての高度なナビゲイションの必要なレースだが、海の激しい変化にまみえながらの試合運びには自然と人間の戦いの尽きせぬ味合いがある。しかし最近では敬遠されて参加艇が全くない。
 数年前何隻かの船が発奮して出場すると聞いて、私も腕を鳴らして加わろうとしたら、結局どの船も土壇場でキャンセルしてきた。訳を質(ただ)したらわが艇と同じように若いクルーがいない、一番若い乗り手が六十代ということでは、三角波の中でのロデオに似たフォアデッキ・ワークはとてもおぼつかない。ということで久し振りのレースは実現しなかった。
 スポンサーつきの賞金のかかったレースにはプロの乗り手も見つかるが、アマチュアだけのタフなレースには若者の乗り手がほとんど無い。昔は「花の初島大島レース」ともいわれ五月連休の海の名物だった、オーシャンレースの乗り手にとっては垂涎(すいぜん)の、僅か一夜がかりのレースでも今では若者に敬遠されて衰退の一途だ。
 これは全(すべ)てのアマチュアスポーツに共通してみられる現象で、アマチュアスポーツという、いわば無償の行為の人生における意味合いがその無償性故に淘汰(とうた)されつつあるということだろう。
 ならば行為の無償性というのはそれほど価値の乏しいものなのだろうか。もし敢えてそれを試みた時に味合うものは決して無償の味気無さなどではなく、むしろある賞金を手にすること以上にしみじみした達成感に他ならない。
 真冬の冷たく長い夜を徹してのレースでようやく明けてくる空を眺めながら、“俺はなんでこんなことをしているんだろう”という慨嘆の末に、かじかんだ足でようやくゆるがぬ土を踏みしめながら味合う、あの虚脱感の底にそこはかとなく味合う達成感こそが人生の糧に違いあるまいが。
 何度も引用してきたが、動物行動学の泰斗コンラッド・ローレンツがいっているように、『若い頃肉体的苦痛を味合ったことの無い人間は、長じて不幸な人生を送ることになる』、という人生の原理を最も簡単に確かに習得出来る術はスポーツに違いないと思うが。
 オリンピック招致のキャンペーンとしてかつてのオリンピアンたちの述懐を短い劇シリーズにして放映しているが、団体スポーツだろうと個人プレーの種目だろうと、選手同士や監督やコーチとの関わりの中で、選手たちは互いに競い合ってつらさを克服することでこそ人間同士の連帯や信頼を獲得していくのがよくわかる。
 かつての名監督、松平康隆氏が私に語ってくれたいくつかの感動的な挿話の中で最も心を打ったのは、すでに東京オリンピックの際に世界的スパイカーとしてその世界で名を覇していた南選手が、金メダル獲得のためには女子が心掛けた回転レシーブどころか、正面から床に転がって顔を床で打ちながら行うレシーブ練習を、自分はあくまでアタッカーなのだからそんな必要は無いはずだと反発拒否し、合宿から抜けるといい出したのを、松平監督はならば勝手にしろと突き放した。
 南は自宅の妻に俺はこれから家に帰るからと電話したのだが途中のどこかの公園で立ち止まってしまい、考えた末に監督に詫(わ)びて再び合宿に戻ったという。
 そしてその南は、既に盛りを過ぎていたろうがミュンヘンのオリンピックでの準決勝の対ブルガリア戦で、すでに2対0とリードされていた土壇場で起用され奇跡の逆転の牽引(けんいん)車となったのだった。
 現代の若者たちにとっての至高の価値とは何かは知らぬが、自らの肉体を自らの意思でしごいて鍛えるという、無償の行為がそれぞれの人生にとってどれほど価値あるものかということを、一体どうやって彼等に伝えたらいいものだろうか。

2009年5月4日 産経


賄賂が横行する程来て欲しいオリンピックですが、なるほど考えてみれば儲かる人は儲かるんでしょうけど、主要なプレイヤーである選手達は「無償」なんですな。いわば究極の無給労働、近代オリンピックは資本家の夢の具現化なのでした。

石原さんにとっての至高の価値とは概ねそのようなものらしいのですが、どれほど価値のあるものかということはわかったものではないのですが、石原さんは「しごく」のがお好きなようであります。やっぱり男の子です。

「しごく」というのは漢字で「扱く」と書くのですが、例によって大辞林によれば

(1)細長いものを握ったり指で挟んだりして、強く押さえつけるようにしながら、その手や指をこするように動かす。「槍(やり)を―・く」「帯を―・く」「あごひげを―・く」


という意味です。「細長いもの」をだ、「握ったり指で挟んだり」するんだって。しかもそれを「強く押さえつけるようにしながら」、あんまり強くすると痛いですけど、「その手や指をこするように動かす」てえんですから、こいつはもうたまりません。是非ともひとつお願いしたいものであります。

石原さんのいうような「自らの肉体を自らの意思でしご」く、というのは要するにつまりご想像のような行為のことを指します。そういうことをすると「自らの肉体」の「細長いモノ」が「鍛え」られて「太長く」なるものなのかどうか、僕自身の豊富な経験からするとちょっと疑わしいのですが、まあ確かに「無償の行為」であると言われてしまえばその通りです。この際ですから「練習になる」などという言い訳はしません。

ところで「しごく」には、なにやら別の意味もあるようです。

(2)きびしく訓練する。「合宿で新入部員を―・く」
(3)ひどくいじめる。


一転して非常に迷惑千万この上ない、キモチいくないこの用法が一般化したのは1965年のことで、東京農大のワンダーフォーゲル部が始めたものです。この年の5月、部では合宿を行ったのですが、登山経験のない新入生の和田昇君がついて来れないので先輩達は登山靴で足や尻を蹴ったり、ピッケルやロープで殴ったりしていました。

一説によるとベテランでも8時間の行程を5時間で踏破するというハードスケジュールだったようで、只でさえ慣れない山道を蹴飛ばされながら強行軍で駈けさせられていた和田君が疲れ切って倒れれば親切な先輩達は生木で背中や胸を強打し、ほとんど抱えるようにして連れ歩いたそうです。

下山後意識不明となって入院した和田君は肺水腫と肺炎による呼吸困難に陥り、血を吐きながら死んでしまいました。司法解剖の結果、背部に直径15センチ程の外傷、眉間から鼻にかけての顔面に大きな打撲傷があった他、全身の打撲と内臓の腫脹、特に下半身全体に打撲傷、下腹部からの出血が認められました。

この部では死亡した和田君の他にも2名の1年生が重体に陥っています。事件の首謀者とされた部OBで当時会社員の監督や部の主将は自分たちも1年生から同様の「訓練」を受けて来た、と弁解のようなことを口にしたものの、同部の暴力的な体質が抜き難く悪しき伝統と化していることを証拠立てるだけに終わったようです。

結局主将は退学処分となり、上級生17人は無期停学、裁判では監督、主将、副将など7人に有罪判決が出ましたが、これが世間では大変に話題となり、このような虐待を行うことを「しごく」と言うようになったといわれております。

名前がついたおかげでこのようなことがより広範に行われるようになったのはご存知の通りです。未だに学校などではスクールシューティングなんかより部活で死んだり植物人間になったりする人の方が多いのですから世の中進歩しません。同様の事件が後を絶たないわけですが、中でも1979年から2006年にかけて6名を殺害した「戸塚ヨットスクール」の例などは、被害者が13歳や15歳の少年や精神障害が疑われる人であることから、その陰惨さもひとしお「味合い」深いものがあります。

もちろん石原さんは「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長であらせられますから、スポーツという虐待と殺害の形式については積極的に理解を示すものでありますが、そんな石原さんが呼ぼうとしているオリンピックには死の匂いが漂っています。まあ「アスリート」などという連中が無料で死のうと生きようとどうでもいいんですけど、死体は重くてクサいからどっか余所で死んでくれや。


posted by 珍風 at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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