2009年09月22日

死刑は国家の恥部なのダ

制度論議へ、国民に情報を

 「死刑の執行は、法務大臣の命令による」。刑事訴訟法475条はそう定めている。もし法相が執行命令書へのサインを拒み続ければ、法律改正をしなくても、執行停止状態を作り出せてしまうことになる。
 実際、こうした事態は過去に起きている。サインを拒否した左藤恵法相時代を含む1993年3月までの3年4か月間は、執行はゼロで戦後最長の空白期となった。直後に撤回したものの、就任会見の際に「サインしない」と発言した杉浦正健元法相の在任中(11か月)も、執行はなかった。
 しかし、死刑判決という司法判断を行政が無視するというのは、極めていびつな姿だ。しかも、今年から裁判員制度が始まり、いずれ裁判員裁判で死刑判決が言い渡される日が来るだろう。裁判員となる国民に精神的重圧のかかる重い判断を課しておきながら、法相が「死刑制度そのものに反対する」という理由で、執行から目を背けるとすれば、無責任であり、許されることではない。
 読売新聞が今年4月に実施した世論調査では、死刑制度の存続を望む人が81%にのぼる。一方、世界的には、死刑を廃止か停止した国の数が、存続させている国を大きく上回る。制度に関する議論の場を設けることに前向きな姿勢を示す千葉法相には、まず、徹底した情報公開を求めたい。
 米国で死刑制度を維持する州では、遺族やメディアが執行に立ち会えるのに対し、わが国では拘置所内にある刑場の場所さえ明らかにしていない。
 また、議論の際に、被害者遺族への支援を十分検討してほしい。廃止国のフランスは官民それぞれで支援体制が整えられている。凶行で肉親の命を奪われた遺族が最も深い傷を負っていることを忘れてはならない。
 命によって罪を償う死刑は、国家による究極の権力行使である。冤罪(えんざい)を防止する適正な捜査と裁判を行うことは言うまでもないが、新政権は主権者である国民に死刑に関する判断材料を提供し、その声に耳を傾ける必要がある。(社会部次長 大沢陽一郎)

2009年9月21日 読売新聞


「命によって罪を償う死刑は、国家による究極の権力行使である」。次長のおっしゃる通り、死刑制度があるということは、国家は法律によって国民の生命を奪う事が出来るということです。概ね、人はその生命を奪われることによってその人の全てを失う事になるのですから、要するにそれは「法律」という手段をとることによって国家は個人に対して「何でも出来る」ということでしょう。法律を使わないでそれをやる場合には別な言い方をしますが。

法的な権利は生きている人について想定されているんですが、「死刑」というのは個人の権利の全面的な剥奪に他なりません。このような「法」は「国民の権利」を超えたものであることになります。この場合において「法益」は国民の諸々の権利ではなく、というのはちょっと言い過ぎかも知れませんが、それら諸権利はともかくとして先ず第一に国家そのものの利益であることになります。

したがって例えば「殺人罪」の場合においても、その保護法益は「人の生命」である、という説明は間違いです。確かにそれもあるかも知れません。もしかしたら。ちなみに法は「罪」を「刑罰」によって定義づけます。法というのは「なになにしちゃいけませんよ」とは書いてありません。たとえば「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」なんて書き方です。

「罪」というのは国家が個人の権利を損なうことのできる条件であるわけですが、いくつかの「罪」にはそれに対する刑罰としてそれを行なった人を殺す事が定められています。例えば人を殺した人は殺して良いことになっている。こういうのは矛盾ではなく、単に法は「人の生命」を保護するためにあるというわけではない、ということでしかありません。

しかしながら通説によれば法は「人の生命」を保護することになっています。出来ればそういう風であれば助かるのですが、このような説明は現状と矛盾しているのがちょっと難点です。通説はいわば「民主的」なものです。それは「もし国民が法を制定するとしたら」という仮定の上に成り立っており、「保護法益」とは、もしそうするとしたらそれは何のためか、ということを一生懸命考えた結果なんでしょう。もちろん実際に法がそのようにして制定されたわけでもなければ、そういう目的を念頭に置いて条文が書かれたと言うわけでもないんですが。

法が国民の権利を全面的かつ永久に剥奪することを可能にしているものであることから、あたかも法が国民の権利を保護するためにあるかの如き、このようの説明の仕方は間違いでしかありません。これではまるで猿轡をかませて、これはインフルエンザの予防のためだ、なんて言ってあげるようなものです。しかしながら逆に言えば、インフルエンザの予防には猿轡よりもマスクの方がより適当なのではないか、と言うことも出来るでしょう。口をきくことが出来ればですが。

つまり現代の法思想から見ると、現状の法律の方が間違っているんだということになりましょう。死刑は護るべき権利の主体を破壊してしまうので、何とも説明のしようのない、正当化できないワケのわからない制度であるということになります。こういうものは早いとこ除去しておいた方が良いようなのですが、国民の利益とは矛盾する利益を持つ人々がいるみたいなのでなかなか上手くいかないようです。司法はというと、これは法律に従って判決を出してきますので、中には「死刑!」とか言ってくる人もいるでしょう。今のところ法律にそうしてよいと書いてあるのですから、そういうことが起こる可能性は否定できません。

しかしながら行政が、といっても国務大臣がですが、間違った法の執行を中止できることになっているんですから世の中は微妙です。これは横町に咲いた一輪の白百合のようなものです。思うに、死刑というのはそう滅多矢鱈にやるものではなく、その本質から言って国家と国民が尖鋭に対立する場合において行なわれるべきものであるからして当然行政にも一枚噛んでいただく必要があるのではないか。死刑は「国を挙げて」行なわれなければならないようです。そう考えると法務大臣が執行命令を出さないこともまた立派な責任の果たし方であると言えるでしょう。

しかし一方では、国家が自ら国民を殺さざるを得ないまでに国民に離反されてしまったという意味では国家の恥辱であって、したがって恥ずかしいのでコソコソやっている死刑の「情報公開」を求める大沢次長もなかなかのもんですよ。

ところで千葉さんは「冤罪を防止する適正な捜査」に関してはその「全面可視化」を推進する立場ですが、問題は「裁判」の方で、今のところ一審では「適切な裁判」を行なえなくなっている点は遺憾とすべきでしょう。それこそ「無責任」だ。ともあれ、大沢次長言う通り、「被害者遺族への支援」には十分な配慮が必要です。これは現状では死刑存続の唯一のイイワケとなっていますので、もうイヤというほど支援してあげて良いのですが、人様の生命を要求するような「究極の」ワガママをきく必要はありません。


posted by 珍風 at 05:40| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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