2010年01月02日

おせちもいいけど死刑もね

死刑求刑、無罪主張事件審理へ…裁判員2年目

 裁判員制度は、2年目の2010年、検察側の死刑求刑が予想される重大事件や、被告が起訴事実を否認する事件などの審理が大幅に増えるとみられる。

 制度初年の09年は、被告側が犯行を認め、刑の重さが争われる事件が大半だったが、死刑求刑事件や無罪主張事件では、より慎重な審理が求められ、公判回数も増えることが予想される。
 社会的な関心も高いこれらの事件の審理がうまくいくかどうかは、制度定着への試金石になりそうだ。
 検察側が裁判員裁判で初めて死刑を求刑する可能性があるのは、鳥取県で昨年2月に2人が殺害された事件。初公判は今年2月23日に開かれ、3月2日に判決が言い渡されることが決まった。
 法定刑が「死刑または無期懲役」と定められている強盗殺人罪が成立するかどうかが争点の一つとなる見込みだ。
 裁判員制度の開始前に全国で行われた模擬裁判では、死刑求刑事件は取り扱われていない。あるベテラン刑事裁判官は「裁判官による評議では、死刑求刑事件は3人の意見が一致するまで議論を続ける気持ちでやってきた。裁判員裁判でも、評議に加わる全員が十分に意見を出し合ってほしい」と話している。

2010年1月2日  読売新聞


日本だってやろうと思えば出来るじゃないですか。「制度初年の09年は、被告側が犯行を認め、刑の重さが争われる事件が大半だった」そうですが、それは検察が「疑わしき」を起訴しなかっただけです。とはいうものの今年からは、検察もいつもの通り冤罪を量産するつもりのようです。

それにしても「審理がうまくいく」というのはどういう意味なんでしょうね。何がどうなれば「うまく」いったことになるんでしょうか。まあ、判決が出ない、というような事態になったとすれば、それは「うまく」いかなかったことになるんでしょうけど、そんな事態には立ち至りそうにありません。判決は必ず出るでしょう。いったいどんな判決が「うまく」てどんな判決が「うまくない」のか。どんな判決が出れば「制度」が「定着」したことになるんでしょうか。

というわけで讀賣新聞は年が明けようが正月だろうが相変わらずですが、この記事で言及されている鳥取県の事件というのは、米子市の会計事務所の取締役影山博司さんが、昨年2月21日に事務所の社長石谷英夫さんと、同居の女性大森政子さんを相次いで殺害し、翌日までに2人の預金通帳及び現金数万円を奪ったという事件です。

これは会社内の人間関係の中で起こった事件であり、「強盗が人を死亡させた」というよりは人を殺した後で思いついて金などを取りに行っちゃったもののように思われるので「強盗殺人罪が成立するかどうか」は怪しいところです。それでも殺人罪に問われることは間違いないでしょうし、2人も殺しているのですから、実は「強盗殺人罪が成立するかどうか」に関わりなく「死刑を求刑する可能性」が存在します。

そこでこの記事では、見出しに反して死刑がどうたらということは実はどうでもいいことであり、検察が「強盗致死傷」で訴えたところを裁判員どもがそれを認めるかどうかが、いわゆる「うまくいく」かどうかを決定するというのがその主旨です。つまり裁判員が検察の求刑をそのまま認めるのであれば、それは「うまくいった」ことになり、裁判員制度が「定着」した、と評価されることになります。

しかしそれにしても「2人」というのは、じっさい困ったことです。死刑を支持しようという「世論」の中には「応報刑」的な意見も存在すると思いますが、被害者が複数存在すると「応報」というわけにはいかなくなってしまういようです。なにしろ被告人は1人しかいませんし、住友生命によれば「一人にひとつずつ 大切な命」ですから、被告人の生命が被害者に行き渡りません。

1人殺せば殺人者ですが、100人殺せば大量殺人者です。やっぱりイナバ、100人でも同じことです。しかし「目には目を」式の「応報」が成り立つのは、1人が1人を殺した場合に限られます。2人の生命被害に対して1人の生命で購うというわけにはいきません。この場合は被害者1人に対して加害者0.5人の生命で満足しなければならないことになり、1人で殺された場合に比べて不公平です。被害者が3人4人と増加していくと、この不公平はより顕著になります。

「応報」という場合、1万円盗ったら1万円返せ、ということを意味します。2人からそれぞれ1万円ずつ盗ったら、盗った人は2万円を出さなければなりません。1万円だけ出して2人で分けなさいというわけにはいかないでしょう。しかし生命というものはそういうわけにはいかないのであって、いくら被害者が死んでいるからといって失ったものの半分とか3分の1でチャラ、というのは生きている者の勝手な理屈でしかありません。

そこで被害者が複数の場合には、加害者の家族や親類に連座させて「応報」の条件を満たそう、という発想もあるでしょう。しかし被害者と加害者の関係は1対1の関係であって、被害者が何人いようともそれぞれが加害者との関係を結んでいますから、連座という形で「代理」を立ててもらっても何にもなりません。適当に数を合わせればそれで良いというものではないでしょう。

どうして同じ奴に殺された彼奴と俺とで扱いが違うのか。なぜ彼奴には殺した奴の命で、俺には何もしていない奴の古女房の命なんだ。おかしいではないか。もちろん、被害者がこのような不満を持たないように、お互い内緒という条件で「実はあんたには犯人の命で購いますが、アチラの方には犯人の家族ので納得してもらってますよ」と、両方の被害者に言うことは可能です。なに、別に生命を紙に包んで渡そうというわけじゃありませんから、バレやしません。どうせ相手は死んでるんだし。

極めて身近な「犯罪」においては「応報」が成り立つ場合があるでしょう。100円のものを盗んだ人は100円を返す、というのが「応報」であって、そのような「犯罪」に対してはそのように対処することによって被害を解消することが出来るでしょう。万引をする餓鬼を捕まえると、「金払えば良いんだろう」と餓鬼が、あるいはそのいわゆる「モンスターペアレント」が「開き直る」ことがあるやに伺いますが、これなどは「応報」の考え方に基づいた解決を提案しているものであると言うことが出来るでしょう。

同様に殺人であっても、1人を殺した人は1人分の生命を自ら支出することによって、いわば「釣り合い」を回復することが出来るかもしれません。しかし複数となるとそうはいきません。それは「応報」の絶対的限界です。したがって死刑制度の存在を正当化するにあたって応報刑論ほどそれに相応しくないものはありません。

とはいえ、いずれにしても刑罰は刑罰論よりも先に存在します。既に存在する刑罰に対して色々な刑罰論を当てはめてその存在意義を論じても、それからはみ出す刑罰の現実が存在するでしょう。現行の刑罰制度を説明しようとするそのようなギロンが「うまく」いかない原因として、刑罰を犯罪との関係において考えてしまうことが挙げられるかもしれません。刑罰が行なわれるために犯罪は必ずしも不可欠ではないのかもしれません。むしろ犯罪は権利の侵害を許容させることが可能な条件のひとつなんでしょう。


posted by 珍風 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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