2010年03月05日

選択的夫婦別姓ワイド劇場

【未来予想図 選択的夫婦別姓】(下)廃れる先祖への敬慕 戸籍も墓も個人単位

 20××年、お彼岸。かつては家族連れが訪れ、お墓の前で神妙に「お参り」していた日本ならではの光景は、過去のものとなった。雑草も生え放題で、代々の先祖が眠る「○○家」と記された墓は見捨てられたまま、もう何年にもなる。「無縁仏」同然で誰にも見向きもされなくなった墓が全国各地にあふれているのだ。
 「子供が18歳になったら『家族解散式』をやろう」(『結婚はバクチである』)
 「(別姓の夫婦が多くなれば)外からみると、事実婚なのか、法律婚なのか、分からないと思います。私は、事実婚なのか、法律婚なのか、まったく分からなくした方がいいと思うんです」(『夫婦別姓はいかが』)
 著書に象徴されるように、夫婦別姓を推進する福島瑞穂少子化担当相らの考えに抗する動きが今までなかったわけではなかった。選択的夫婦別姓制度の導入を法務省にある法制審議会が答申・提言したのは平成8年2月。しかし、何度も検討の俎(そ)上に載せられたが「日本の伝統文化を壊す」「家族の絆(きずな)を壊す」として法案提出は見送られてきた。
 一方で、推進論者が別姓の根拠に挙げていた、旧姓の通称使用も官公庁や一般企業で広く認められるようになった。結婚した女性は名字が変わり、仕事に不都合が生じことがあるためだ。それでもなお、推進論者は「夫婦別姓」の導入を訴え続け、そして民主党をはじめとする与党の圧倒的多数で成立させた−のだった。
 法案成立後、時間がたつにつれて、結婚観や家族観は様変わりした。福島氏が著書で述べたように、別姓導入で「結婚」と「同棲(どうせい)」の垣根がなくなっていき、わざわざ法律婚を選ぶ人は減った。別姓先進国、欧米諸国がそうであったように家庭を維持する義務や努力をきらい、離婚の選択も増えた。福島氏の提唱した「家族解散式」を営む個人が増え、文字通り「結婚は博打(ばくち)」となったのだ。
 選択的夫婦別姓が導入されると、やがて戸籍の個人別管理をめざす「戸籍改革」が掲げられた。戸籍はそれまでの家族の連続性、一体性を記し、未来に残していく証しだったが、その「効能」をふだん実感できる機会は乏しい。
 「戸籍改革」を「戸籍新時代」などと新聞テレビは大喝采(かっさい)した。政治も進歩的な時流に流されるままだった。「血統」や「家柄」「家」は封建時代の産物と目の敵にされ、「個人」が最重要な価値に置かれた。
 戸籍だけではない。個人別になったのは、墓も同じだった。夫婦別姓を選択することは「○○家」という考え自体を否定することにほかならない。だが、日本人がそのことを疑問視しだしたのは、ずっと時間がたった後だった。
 家単位の墓は急速に廃れ、誰も墓参りに来ることがない個人名の墓が増えたことも「個人の自由」となった。かつて日本では「姓」を祖先から受け継がれてきた名称と受け止めていた人が67・2%(内閣府調査)にのぼったが、それも過去の話になった。別姓夫婦の子供たちが増えた結果、もはや祖先という言葉自体が死語同然となった。「ご先祖のお墓を守る」という気持ちも廃れていった結果、墓はただの骨の収容施設で「人は死んだら忘れられる」時代になった。この結果、全国各地に見捨てられ荒れ果てたお墓が増えたのだ。
 日本社会の基礎的な基盤、家族はわれわれにとっての精神的な基盤でもある。その家族の絆(きずな)に対立の火種を持ち込むだけでなく、家や墓を通じて先祖を大切にする「敬慕」「追悼」の念すら廃れてしまう恐れが選択的夫婦別姓にはある。制度のメリットを説く推進者の言だけで決めるのではなく冷静な議論が必要なのだ。取材に基づく「未来予想」でそのことを実感した。



 連載は安藤慶太が担当しました。

2010年3月4日 産経ニュース


なるほど安藤さんでしたか。一部では「安藤が斬る」で大人気の安藤さんです。民主党の安住淳さんも「安住淳が斬る!」というブログを持っていますが、この2人は名前に「安」という字を共有していますし、1960年代生まれで年齢も近いのです。大学も同じでして、安住さんは早稲田の社会科学部からNHK、安藤さんは理工を出たのに産經新聞と明暗を分けたわけですが、その中でも安住さんは政治部、安藤さんは社会部と、更に懸隔は広がるばかり、果ては安住さんは政権与党の議員、安藤さんは凋落著しい野党系のデマ新聞でやけっぱちを書き散らす、という現在の境遇の差を見ると、人生って何なんだろうなんて考えてしまうわけですが、どうも発想は同じようなもののようです。

【未来予想図 選択的夫婦別姓】のシリーズを読むと、安藤さんがTVばっかり見ていることがわかります。以前取調べの可視化に反対して見せたときも、社会部出身のくせにTVの刑事ドラマを引き合いに出していたくらいですから、TVは安藤さんの心の目の網膜です。「安藤が斬る」にしても、元ネタは『三匹が斬る!』という、高橋英樹と役所広司と金髪ブタ野郎主演の人気時代劇でありましょう。実は、「!」が付いている点で安住さんの方が原典に忠実なのですが、もしかすると安藤さんも「!」を付けたかったのかもしれません。しかし、それだとなんだか軽く見えるので新聞というメディアには相応しくないと自分で判断したか、周りの人が泣いて止めたのかどうかはわかりません。いずれにしても中身はTVです。

安藤さんによると問題は結局お墓に行きつくんだそうですが、それはもう当然のことで、誰だって結局はお墓に行きつくんですが、この発想も極めてTVドラマ的なものです。2時間枠のサスペンスなどに顕著ですが、ある登場人物と(番組の最初の方で)死亡した登場人物との関係を描くのに墓参りのシーンを用いるのは定番なのです。安藤さんはここから「家族の絆」とは墓参りであると考えてしまい、墓地の荒廃を懸念します。

お口を「安」と開けてTVをぼーっと眺めていると起こりがちなことですが、ここでシンボルとシンボライズされるものが逆転しているのです。しかし問題は、安藤さんのお口に誇りが入るという事ではなく、お彼岸だからといって墓参りにいかない人は現在でも多いので、これは「未来」でも何でもないという事でもなく、にも拘らず墓地は寺などが永代管理料を取って管理しているため、「雑草も生え放題」ということにはならないという事情にあります。安藤さんはTVばっかり見ているので世の中のことがよく分からないらしいのです。たまには墓参りのついでに周りのお墓も見学してみてはどうでしょう。

てゆーか個人単位で墓を建てるというのはあまり現実的な想定ではないと思いますが。それであれば、現在のような一定の敷地を有する「墓」の形態が放棄されることを想定した方がよりもっともらしい「未来予想図」になると思います。しかしそれだと「雑草も生え放題」で荒れ果てた、お化けの出そうな墓地の「イメージ」が湧きません。安藤さんにおいてイメージはきわめて重要なのであり、見世物的で陳腐なイメージの喚起力はTVマニアックな安藤さんの面目躍如たるものがあります。

新聞をTVにしてしまう安藤さん一流の手法を持ってしても、しかし、選択的夫婦別姓に反対する根拠は極めて説得力を欠くものです。それは「墓」とか「戸籍」なのです。そういうものを重視したい人は夫婦別姓には反対でしょう。それらの制度は夫婦が同姓であることを前提に作られているからです。しかし「その「効能」をふだん実感できる機会」は「乏しい」どころかほとんど皆無であると言って良いのであり、安藤さんの言い分は、多くの人にとっては「それがどうした」というような話しになってしまうでしょう。安藤TVは「伝統的」な「家」を別段特に重視しない大多数の人々にとって全く説得力を持ちません。一方で元々から安藤さんと同じようなことを考えている人たちの間では通用するわけですが、しかしそういう人たちにとっては今さら書く必要もないことでもあるのです。

安藤さんが全く無意味なことを書いているのにつき合っている僕もどうかしていますが、「斬る」人があと一匹足りないのが気にかかります。僕も「三匹」に加わりたいものですが、僕の名前に「安」という字は付きませんし、早稲田は落とされたので、どうも僕にはその資格はないようです。もっとも僕はTVの裏も表も好きではないので、そんな資格なんてなくて沢山です。

ところが、これが単なるTVの見過ぎによる駄文だというのは、まだまだ浅い見方であると言えるでしょう。たとえ安住さんがトランスミッターの向こう側から毒電波を出し、安藤さんが電子銃に掃射されて脳が蜂の巣状になったとしても、尚ここには一片の真実、てゆーか安藤さんの無意識のメッセージが込められているのです。眼光紙背に徹し目から光線を出してブラウン管を破砕する読解によれば、そのメッセージとはこんな平凡な、しかし安藤さんの実感のこもったものです。「結婚は墓場だ」。


posted by 珍風 at 05:38| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月04日

お笑い選択的夫婦別姓

次は、コントです。

【未来予想図 選択的夫婦別姓】(中)自立からすれ違い 米国の教訓

「ローラ、もしもの時に男性に頼らなくても生きていけるように仕事を持っておきなさい」
 母は、娘の私に繰り返しこう話した。夫と離婚し、クリーニング店の店員をしながら苦労して私を育てた母を見て私は、男性に頼らない、女性の経済的自立こそ幸福の条件と信じていた。
 だから私も結婚するとき、夫婦別姓を主張し、旧姓のまま仕事も続けた。夫の姓を名乗るのは男性への降伏とすら考えていた。

 《米国では1960年代からフェミニズムの影響で、男性からの経済的自立で女性は自由を得るという生き方が吹聴され、夫婦別姓や事実婚を推奨する運動が盛んだった》

 「なぜ夫婦別姓にしないといけないのか」と尋ねた夫に私は「夫婦でも独立した人間でいたい」と答えた。夫は納得いかない顔をしたが認めてはくれた。
 長女の出産後、直ちに保育所に預け仕事に復帰できた。しかし、育児と仕事で忙しく、次第に夫婦の会話は少なくなった。
 ある日、同僚から郊外の一軒家の購入を薦められ、夫に相談すると、意外な言葉が返ってきた。
 「君は、僕と一生を共にする気がないから結婚しても旧姓のままだし、離婚しても暮らせるよう仕事を続けているんだろう。夫婦共有の財産など後で困らないか。やめよう」
 返す言葉がなかった。別姓選択が、夫と一緒に見られるのが嫌だったのは間違いないからだ。

 《米国価値研究所の調査では、事実婚は単に一緒に住むことを選んだカップルで、生涯を誓い合い、将来を委ね合う関係ではない。そのため、正式な婚姻夫婦に比べ、自分たちの収入を共同で使うことが少ない傾向にある》

   ■    ■
 夫は次第に外での飲酒が増え、休日も趣味のバイクに夢中になっていく。ある日、浪費を注意すると、夫はこう答えた。
 「夫婦でも独立した人間でありたいと言ったのはローラ、君だよ。自分で稼いだ収入を自分のために使って何が問題なのか。君も収入を得ている。お互い自立するんだろう」

 《米国では、女性が社会的自立を目指し仕事をするようになった半面、「妻と子供を扶養するのは男性の責任だ」という意識が急速に薄れた。その結果、1960年にわずか5%だった婚姻外出産率(未婚の母の出産)が、2004年では34%に。父親、母親とだんらんを味わえない子供が40年で7倍に増加した》

 この結婚はもう駄目かもしれないと思った。気がかりは子供のことだ。離婚は子供にどのような影響を与えるのか、相談したらカウンセラーから、びっくりするような話ばかり聞かされた=表。

   ■    ■
 夫婦別姓、女性の社会進出、子育ての外注化という流れの中で米国では男性が妻と子供を扶養する責任を感じなくなっていった。離婚や未婚の母が増加し、家族という生活の基礎的な基盤を失って苦しむ子供たちが急増した。ペンシルベニア州立大学ポール・アマト教授は「安定的な結婚を1980年の水準まで上昇させれば、停学になる子供を50万人、非行、暴力行為に走る子供を20万人、心理療法を受ける子供を25万人、喫煙する子供を25万人、自殺志向の子供を8万人、自殺未遂の子供を2万8千人、それぞれ減らせる」と警鐘を鳴らした。
 「家族の絆(きずな)」よりも「個人の意向」を優先する社会−。これが何をもたらしたか。米国の女性たちは既に教訓を得つつある。「(米国女性は)過去25年間で初めて女性の就労率が下降し、女性の86%が『仕事よりも家庭が大事だ』と思っている」(2002年3月12日付『USAトゥデー』)
 日本は米国の過ちを繰り返すのだろうか…。
 (ローラの話は取材に基づく架空の設定です)

2010年3月4日 産経ニュース


僕は最近のお笑いには詳しくないのですが、それでもこのネタが「ディラン&キャサリン」であることくらいはわかります。世間ではみんな『LOST』とかを「聴いて」、大笑いをしているんだそうです。

ところでアメリカでは夫婦別姓の法的規定は存在しません。キャサリン、じゃなかった「ローラ」ですか、ここで西城秀樹を思い出してしまうのはやはり年の功というものですが、その「ローラ」が「旧姓のまま仕事も続けた」というのは、仕事の場所だけで旧姓を通していたというだけの話しです。このような例は、吹き替えのドラマを見なくても、日本でも特に珍しくないものです。

「「妻と子供を扶養するのは男性の責任だ」という意識が急速に薄れた」んだそうですが、それは「女性が社会的自立を目指し仕事をするようになった半面」なんだと書いてあります。「半面」であって「結果」ではありません。因果関係を匂わせるような書き方をしていますが、因果関係は存在しませんし、ちゃんと逃げは打ってあります。

実際には「妻と子供を扶養する」のが不可能になってしまった男性が増えているわけで、このような状況は日本でも進行しています。夫婦とコドモのいる核家族世帯で男性成人が世帯の生活費を稼ぐという形が成立しにくくなっているのであり、これは女性の名字の問題ではなくて雇用の問題なのです。こんな世帯の男性を採用すると、男性1人の労働に対して成人2人の生活とそのコドモの生活及び教育費を支払わなければならないことになるのです。

しかしながら産業によっては労働者の生産性は低く、そんな多額の賃金は払えません。そして就労人口の重心が第三次産業に移行した社会では、「男性が妻と子供を扶養する」ことが出来るのは一部の人に限られるのであって、責任を感じるとか感じないとかの問題ではないのです。

もっとも、日本とアメリカでは違うところもあるようです。アメリカでは「離婚や未婚の母が増加し、家族という生活の基礎的な基盤を失って苦しむ子供たちが急増」したんだそうです。一説には「停学になる子供を50万人、非行、暴力行為に走る子供を20万人、心理療法を受ける子供を25万人、喫煙する子供を25万人、自殺志向の子供を8万人、自殺未遂の子供を2万8千人」だそうですが、これは合計すると130万8千人ですが、相当程度重複する、というかほとんど重複するはずで、実数はまあ、一番多い「50万人」くらいの数字に全てが含まれると思われますが、そういう餓鬼共がいると。

もっとも、「離婚や未婚の母が増加」を強調すればする程、悪餓鬼共の「問題」の原因をそこに搾るのが困難になります。離婚や未婚の母が一般化している状況では、それは特異な条件ではなく、問題状況の原因をそこに求めることが出来なくなるのです。

一方、日本ではこのような問題に対して、より賢明な対処がなされているでしょう。その分の餓鬼が生まれてこないことによってこのような「深刻な問題」は回避されているのです。

とはいえ、「雇用なき経済回復」のおかげで「女性の就労率が下降」しているそうですから、今後は「未婚の母」も成り立ちにくくなるかも知れません。したがってアメリカにおいても「停学になる子供」以下大袈裟に見積もって130万8千人がまるまる一世代から失われる日もそんなに遠くないでしょう。

しかしながら真の問題は50万人の悪餓鬼共のことではなかったりします。同姓の夫婦のうち「生涯を誓い合い、将来を委ね合う関係」であるようなカップルの割合は不明ですが、「収入を共同で使う」こと、具体的には「郊外の一軒家の購入」が問題なのです。住宅に限りませんが、結婚によって新しい世帯が出来ると、それだけで需要が発生すると見込まれます。

この需要が伸びないのですが、これを賃金の低下以外の原因によって説明しなければならない稼業というものが世の中には存在するのですから、男の仕事というのは大変なのだよ。女の人がやっているのかも知れませんが。まあとにかく「米国価値研究所」という、誰も知らない会社には男性の従業員も女性の従業員もいるでしょうけど、そこではリサーチを買ってくれる顧客の「価値観」の「研究」を行なっているわけです。

ついこの間住宅ローンが華々しく崩壊した国の話とは思えませんが、このネタのなかで明示されているのは2004年までのデータです。要するに話が古いのであって、この「未来予想図」のさらに「未来」は既に過去です。2002年には女性が仕事を見つけることが困難になっていた中、2007年には「郊外の一軒家」の価格は下落し、証券化された「責任」は破綻したのでした。

落ち着いて考えれば危険すぎるサブプライムローンの加熱の背景には、男性中心主義と、統計を用いた世論操作によるその利用と強化が存在したのですが、ビンボー人はいつまでも何回でも騙されるのです。最近のオレオレ詐欺は、なんとヤクザがヤクザのフリをするんですって。いやーねーメタで。
posted by 珍風 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月03日

オタクとヘンタイと奥さまのための選択的夫婦別姓

これは冗談だと思われると困るのですが、冗談としか思ってもらえないかも知れません、いや、多分冗談なのですが、それでも以下に引用するのは本物の産經新聞の記事でありまして、(珍しく)僕が勝手にいじったりしていないものです。これは2010年3月2日付産經新聞の「未来予想図 選択的夫婦別姓(上)ほころぶ家族の絆…お父さんだけ違う姓」というものの正確な引用です。(下)もあるのかもしれませんが、最初から「下の下」です。始めはオジサン向けの「SF」から。

 田中京子は結婚を目前に控え、憂鬱(ゆううつ)だった。農家の一人娘として何不自由なく育ち、都内でOLになった京子は、同じ地方出身者の同僚、鈴木一郎と出会い、2年越しの交際を経て晴れて秋に結婚の運びとなった。京子は育ててくれた両親を安心させたいとばかりに、国会で成立したばかりの選択的夫婦別姓の利用を思いたち一郎もいったんは快諾した。ところが話が具体的になるにつれて2人は、生まれてくる子供の姓をどちらにするか、をめぐってもめるようになったのだ。
 「家名を残すには、子供の姓は田中にしたいと、私の両親が願っているの」
「僕の両親は、そもそも別姓に反対だったんだ。親子別姓はおかしいだろ。僕だけが鈴木で、君と子供たちはみな田中? 子供から、『どうしてお父さんだけ姓が違うの』といわれる僕の気持ちを考えてくれよ」
 将来生まれる子供の姓をどちらにするか。実は選択的夫婦別姓では結婚前に決めなければならない。子供の姓が鈴木なら結局、田中の家は絶えてしまう。親戚(しんせき)を交えた協議を何度も重ねたが両家は互いに譲らず、険悪で重苦しい空気が流れた。はじめは「貴方の選んだ人だから…」といっていた両親も今や「あんな人」呼ばわりだ。「こんなはずではなかった」。京子も祝福に包まれた結婚生活に正直、自信が持てずにいる。
 《選択的夫婦別姓法案の最大の問題点。それは、夫婦別姓が親子別姓だということだ。何人子供がいても子供の姓は皆どちらかひとつに統一される。いったん決めてしまえば、後で後悔しても同姓に戻すことは許されない》


まず設定がすごい。「農家の一人娘として何不自由なく育ち、都内でOLになった」てのは、一世代前の、下手をすると二世代前の事象です。いや、今だってこういう人はいると思いますが、農村から都市への大規模な移動が行なわれた時代は、これから結婚しようかという人たちにとってはお祖父ちゃんお祖母ちゃんの世界です。しかし気をつけなければなりません。この記事を読んでいる人にとって、それはまさに「自分のこと」なのです。これは失われた青春というものです。

ところが、結婚をめぐる状況は極めて今日的です。実は昔は「農家の一人娘」などというものは貴重な存在だったのです。別に美人であるとかフェラが上手いということではありません。単に稀であっただけです。当時は「一人娘」というのは他に娘がいないことを指すのであって、他にコドモがいないという事を意味していません。「田中」という、極めて平凡な「家名」だか「亀井」だか知りませんが、そういうものを「継ぐ」ための息子というものは、通常の場合確保されているものです。「一人娘」というのは、「うち」と結婚するんだと男の人の配偶者になる「娘」は一人しかいませんよ、という意味なのです。

そこでこの状況は、二世代程前の人間がイキナリ現代の状況に直面した、というものです。なぜこんなことが起こるかというと、それは勿論タイムスリップとかそういうことです。これはSFなのです。サイエンス・フィクションの定義は色々あると思いますが、要するにそれは宇宙人だとか未来とかの「異世界」との接触を扱うものです。勿論主人公は僕たちと同じような人たちであり、ここでも主人公は彼等がもといた世界の常識に従って行動します。すなわち「家名を残す」とか、「子供から、『どうしてお父さんだけ姓が違うの』といわれる」とか、そういう心配をするのです。過去の世界からタイムスリップして来たんですから、これはもう当然の反応であると言えるでしょう。

しかし「亀井を残す」というのは、もちろん都合によるわけですが、現在では用が済んだら捨ててしまうものであると考えられますし、現在、てゆーか主人公たちにとっては未来に他なりませんが、その世界では「お父さんだけ違う姓」なんてのは他にいくらでもあるんですから、その世界に生きる「子供」が「どうして」と言って奇異の念を表明する可能性は極めて低いものなのです。

とはいえ、いくらSFだといっても、現在に生きる読者に訴求するものがなくてはなりません。そして、このドラマに描かれているような「実家」の問題は、実は21世紀になってもちょいちょい発生している問題であるといえるでしょう。そして各世帯にコドモが1人しかいない状況が存在するときに、この問題は先鋭化します。これはまさに今日的な問題であるといってさしつかえありますまい。もっとも、結婚を「家名」との関係で考えているのが、専ら「田中京子」さんの方である、という描き方がされている点は重要です。ここでは女性が、過去の因習に捕らわれる役割をおしつけられているのです。

対するに「鈴木一郎」さんは、因習的なものから解放されているように見えますが、習慣の奴隷であることがわかります。彼がタイムスリップして来た世界では「親子別姓」はありふれた事態であり、特に問題にするには及ばないものなのですが、彼はそれを知りません。保守的なSFの伝統に従って男性である彼が主人公であるとすれば、彼はまだ「新しい世界」に来たばかりで、その状況を認識しておらず、これから自らが抱えた過去の習慣に従って行動することによって失敗を繰り返し、そのことを通じて主体の変容を経験することになるでしょう。これはそんな中でのエピソードのひとつですが、今後の展開においては残念なことに「田中京子」さんは主人公との結婚を諦めなければならないばかりではなく、以後全く登場しないことになるのは間違いありません。

次は若人に受入れられつつある「萌え系」です。たぶん。

 佐藤りえは中学2年生。両親が別姓を選択した。両親はりえに「『姓』が違うだけで、家族に変わりはない」という。しかし、母親がこう強調すればするほど、りえにはある違和感が芽生えてくる。母の言葉をどんなに自分に言い聞かせてみても、自分の「生き方」を正当化する母親が、私に押しつけているという疑義がぬぐえないのだ。そうした思いを母に打ち明けたことはない。母は私の胸の内を知ってて「家族に変わりない」といいきかせるのだろうか。不快感とともにやり場のない寂しさが募る。正直つらい。
 表札の母親の名前は「山本ひろ子」。表札を見た同級生が口々に「離婚したのに同居している」「家庭内別居だ」。こうからかわれ続けている。説明も面倒で黙っているが、表札を見ると「どうして自分の家は他の家と違うのか」。こんな思いがこみ上げ、そのたびに母のいう「別姓でもきずなは変わらない」が独り善がりに思えてならない。娘には憂鬱で仕方ないのだ。


ロリータ「りえ」ちゃんの登場です。言うことなしですが、ここでは作者が始めのエピソードの主人公と同じ錯誤を犯してしまっていることが目立ちます。これは大変残念なことで、作品の、ひいては作者の、そしてこれを掲載したメディアの評価を著しく損なうものとなりかねません。しかし考えてみればこのメディアの評価は既に相当低いものです。そこで作者はメディアの評価が低いことをいいことに作品のレベルを落とした、という誹りを免れません。

作者が「鈴木一郎」さんとともに犯している錯誤とは、「夫婦別姓」なのが自分のところだけだ、あるいは佐藤さんと山本さんのところだけだという思い込みです。近所で他にそういう事例が存在しないのであれば、「同級生が口々に「離婚したのに同居している」「家庭内別居だ」」とからかう状況が当然に想定されますが、物語の舞台となっているのはそのような事例が数多く存在する条件を備えた世界なのです。そこでは同級生にからかわれるという事態そのものが存在し得ないのです。

もちろん、ある制度の存在する世界をディストピアとして描出することはかまいませんが、その具体的な描写が同級生による「いじめ」に留まるものであるのは感心しません。その制度を拒否するために作者があえて「いじめ」という道具を、そしてそれだけを使っているように見えてしまいますが、これではまるで作者がその手段である「いじめ」を正当なものであると評価しているように見えてしまいます。

しかしながら、この一編は思春期の少女と母親の葛藤を描いた、まあ平均レベルの出来であると評することも出来るでしょう。このような場合、主人公である少女は母親との和解を経験するのであり、ついには「田中京子」さんのように、母親との共犯関係を築くようになったりするのですから気をつけるにこしたことはありません。

というわけで、最後はちょっと「韓流」っぽく奥様方の御機嫌を伺います。

 自分も死にたいと、大山妙子は思った。四十数年連れ添った夫が先日、急逝した。夫と一人息子の幸太郎の3人で社員100人を抱える中小企業を切り盛りし、息子は立派な後継者に。安心して会社を任せるつもりだった。
 ところが、通夜の日、10代の子供を連れた女性が現れた。「この子は夫の子供だ」という。しかも「この子には息子と同額の遺産を相続する権利がある」と相続を迫ってきたのだ。
 別姓の改正民法には「非嫡出子差別の禁止」として不倫で生まれた子供も非嫡出子として財産を平等に与えるよう定めている。
 ショックだった。夫の子供なら、多少の遺産を渡すのはやむを得ないかもしれない。だが、息子は「十数年、父とともに汗を流し、会社をここまでにしたのに…。会社はどうなるんだ」と強く反発する。
 息子と同額の遺産を渡すには会社の株を渡して経営陣に参加させるか、わが家を売って現金を準備するしかないからだ。しかしわが家は銀行の担保下にあり、売り払うのも難しい。あの女性は「恨むなら、法律と国を恨みなさい」と言った。妙子は、血も涙もない法律を恨むしかなかった。(記事中の人物は実在しません)


これはかなり心配な出来です。決めのひと言がギャグになっているのですが、それが作者の本意であるかどうか。いったい何処の愛人が「恨むなら、法律と国を恨みなさい」と言うというのか。普通は「夫を恨みなさい」とか言うのでしょうか。しかしそれにしても、この「不倫で生まれた子供」も「大山妙子」さんの夫のコドモなのではないか。妙子さんの気持ちも解らないわけではありませんが、妙子さんの夫には2人のコドモがいたことには間違いがないとして、どうしてその一方だけを優遇しなければならないのか。

作者としては「自分も死にたいと、大山妙子は思った」と書くことによって読者を「大山妙子」と同一化しようと意図したようですが、成功していません。実は主人公の名前が悪すぎるのですが、「社員100人を抱える中小企業を切り盛りし、息子は立派な後継者に。安心して会社を任せるつもりだった」という短い、しかし決定的な状況説明が、読者のシンパシーを激しく拒んでいるかのようです。

とはいっても、実は作者は巧妙です。これが掲載されたメディアの特性によって、その受け手がこのような主人公の置かれた状況に同感するであろうという計算の下に書かれています。すなわちこれはかなり限定された受け手のためのエンターテインメントなのです。そしてこれは残念なことに一場のエンタメにしか過ぎません。作品は受け手の状況を反映することに失敗しています。中小企業の経営者は相続するような個人資産を保有していないのです。「わが家」だって法人所有だったりするものです。

したがって国がどうだろうが法律がこうだろうが、話は振り出しに戻ります。妾の餓鬼に残せるような財産はもとより存在しないのですから、ここに描かれたようなエピソードはほんの導入部にしか過ぎません。ここから、いつものドロドロ劇が開始されるのであり、例によってまあ、いろいろと、退屈な展開が待っていることには何の変更もないのが、残念だったり安心だったりするのです。

とはいうものの、この記事は図らずも選択的夫婦別姓に反対する人たちへの批判になっている点は特筆すべきでしょう。それは前近代的な家制度への固執、微細な差別意識であり、多数を頼んだイジメの醜悪さであり、小金持の小市民的な身勝手さなのです、僕としてはこれ以上に有効な批判は見当たりませんので、この貴重な、他の記事と同様に作り話ではありますが、珍しく正直に「(記事中の人物は実在しません)」と断りを入れた素晴らしいフィクションに素直に拍手を送りたいと思います。出来たら他の記事にも「(記事中の事実は実在しません)」と入れていただければ満点です。
posted by 珍風 at 22:40| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月02日

あらゆる犯罪により多くの死刑をいつでもどこでも

社長ら2人強盗殺人で無期懲役 鳥取地裁の裁判員裁判

 鳥取県米子市で会計事務所社長ら2人を殺害したとして、強盗殺人などの罪に問われた元同事務所役員影山博司被告(55)の裁判員裁判で、鳥取地裁は2日「同情の余地が大きいが、重大かつ悪質な犯行で、生涯を掛けて償うべきだ」として求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。
 強盗殺人罪の法定刑は死刑か無期懲役。強盗目的の殺害かどうかや情状面が争点だった。
 小倉哲浩裁判長は判決理由で、犯行当時、資金繰りに窮していた点を挙げ「被害者の預金を引き出すために殺害した」として強盗目的を認定。遺体を長期間放置し、2人の生存を装っていた点を「悪質」とする一方で、事務所の借金を肩代わりし、社長から個人的な雑務を命じられていたことなどは「量刑上配慮せざるを得ない」と述べた。
 判決後には裁判員2人が記者会見。検察側の求刑が議論を狭めたことはなかったと強調し、重罪の審理に臨んだ点については「言葉ではうまく言えない」と戸惑いを口にした。

2010年3月2日 共同


裁判員が人殺し初体験か!?と、鳴り物入りの裁判でしたが、蓋を開けてみればとても死刑などと言い出せるような事案ではありませんでした。もっとも約1名、死刑にしろと言っている人がいましたが、それ以外の関係者が皆、あるいは減刑を嘆願し、あるいは被害者遺族の身で被告人に同情を口にするという有様で、まあ、血に飢えたマスゴミ的にはあまり面白い事件ではなかったようです。

実際には争点は「強盗殺人」であったのかどうか、という点なのですが、これは少し話がややこしくなります。強盗殺人、または強盗致死とは、「強盗が人を死亡させたとき」の話なんですが、影山さんは「強盗」であったのか。影山さんの行動はかなり行き当たりばったりに見えます。殺害後に現金やキャッシュカードを見つけたのも偶然に近いようですが、何よりも死体をそのままに放置しておくのがいい加減です。

多分、まとまったお金が出来たことから、当面資金繰りが安泰であると思った影山さんは、もうそれ以上のことは考えなかったようです。考えられなかったというのが近いでしょうし、もうどうでもいいと思ったのかも知れませんが、上手く死体を処理してどっかに逃げちゃえば、てゆーか当然そのようにするのが「強盗」というものです。

とはいえ、司法の現場ではどうやら「強盗殺人」の適用範囲は極めて広範囲であって、人を殺したついでに財布を頂くと、いつの間にか財布を盗むついでに命も頂いたことになってしまうようです。この事例は怨恨を動機とする殺人に続いて窃盗を行なったもので、本来であればこのような場合には「暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取」しようという「強盗」の故意は存在しませんので、「強盗致死」ではないはずです。「殺人」と「占有離脱物横領」になるのではないか。

しかしながら影山さんの場合は「怨恨」の内容が金銭的なものを含むとされますので、影山さんに借金があることを幸いとして、検察は「殺人」の目的を「怨恨」を媒介にして「強盗」に置いてしまいました。これは、状況による動機の推定であって、殺した時には金をとってやろうとは考えていなかったという影山さんの主観的事実とは食い違っているわけです。いずれにしても、その金銭的な問題も被害者の行為によって惹起されたものであることから、検察では飽くまで訴因を維持しつつ、求刑を軽い方にしておいたものでしょう。

しかしながら裁判員に対する記者会見の場において、マスゴミは「無期懲役の求刑で議論は狭まったか」と尋ねたようです。「強盗致死」に当たるか否かという争点においては、検察が強盗致死罪として無期懲役刑を求刑することは「議論を狭める」ことにはなりません。しかし裁判員が強盗致死罪の成立を認めるとすれば、その法定刑は死刑か無期懲役しかありませんから、無期懲役の求刑は「死刑を選択しにくくなる」という方向でのみ「議論を狭める」ことになるでしょう。

したがってこの質問は「死刑判決を出すことが出来ないことに不満を感じたか」という意味になります。さすがに今回の裁判員は比較的マトモで、てゆーか争点がはっきりしていますから「無期懲役と有期懲役の最高刑はどう違うのか」なんてことを話し合っており、「議論が狭まった」とは感じなかったと言います。しかしマスゴミの「争点」は裁判におけるそれとは異なり、「死刑かどうか」というものであったようです。

こんな質問をやらかしたのはどこの社か知りませんが、マスゴミは相変わらすのピンぼけぶりです。報道とは異なり、この裁判は「死刑」を巡って行なわれてはいません。辞退した裁判員候補者の中には死刑廃止論者もいたようですが、今回はそういう問題は関係ありませんでした。「強盗殺人」が成立しているかどうかが問題だったのですが、マスゴミは強殺で起訴されてるから強殺だと決めつけてしまい、だったら死刑もあり得る、2人殺してるから死刑だ、といとも簡単に期待してしまって、その勝手な思い込みは裁判の進行によっても全く動ずることなく、そのあげくには裁判員に、死刑に出来なくてさぞ残念でしょう、などと言ってしまったりするのです。

この事件は際立った特徴を持ち、しかしマスゴミがその特殊性をあまり了解していないことから、その「使命」がいかなるものであるかが推測されます。それは「死刑」の煽動であり、「死刑が行なわれるべき」だということを折に触れて喚き立てる、という事のようです。あらゆる機会を捉えてそうしなければならず、前後の見境もなくそうしなければならず、何も考えずにそうしなければならず、何かを考えるのにはそもそも向いていないのです。

もし何かを考えるとすれば、影山さんは裁かれるべきか、ということでしょう。あるいは石谷さんたちは如何にして裁かれるべきか。もちろん、人が2人も殺されていますし、殺したのは影山さんらしいのですから、裁かれるべきなんでしょうし、死んだ人を裁判にかけるわけにもいきませんが、それは法律の上での話です。僕はオマワリさんや裁判官ではないんで、別の考え方をすることが可能でしょう。しかし宗教的な話じゃないんですが。ちなみに裁判員制度とは、一般市民の皆さんもオマワリさんや健治さんや裁判官のように考えるべきだ、というものなのですが、それじゃブンヤあたりと全然変わんない。
posted by 珍風 at 23:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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