2010年03月07日

禁煙の科学と神秘

そういえば、かつては新聞にもこのような「勇気ある」文章が掲載されたりもしたものです。

4月を送る 中日新聞常務・編集担当 小出宣昭
タクシー禁煙の憂うつ

世はあげて禁煙の時代だが、私は今も、たばこのみである。中日新聞では少数民族「スー族」(吸う族)と呼ばれ、細々と伝統の香りを守り続けている。
うまいコーヒーを飲み、ぷかりと煙をくゆらすときが、多数民族「スワン族」(吸わぬ族)の方々には申し訳ないが、至福の瞬間なのだ。時間が止まり、精神の静寂が訪れる。
たばこは、吸うよりも、ふーっと吐き出すときが落ち着きをもたらす。禅の呼吸とよく似ている。五臓六腑(ろっぷ)が空っぽになるまで息を吐くと、後は自然に空気が入ってくる。この繰り返しによる落ち着き。「無一物無尽蔵」と禅はいう。
こんな心境にご理解をいただき、スー族とスワン族の静かな共存を願っていたのだが、がぜん、とんがった事態が起きた。五月から名古屋のタクシーをすべて禁煙にするというのだ。
いやはや。少数民族は多数民族の決定に従うほか術(すべ)はないが、その決め方にいささかの薄っぺらさを感じるがゆえに、スー族としての反論を書きとどめる。
名古屋タクシー協会によると、全車一斉の禁煙に踏み切った理由は、時代の流れに加え、女性や高齢者から「車内がたばこくさい」との苦情が増えたからという。私は、他の理由はともかく「くさい」というのはなんとも容認できない。
私たち日本人は、かつて朝鮮半島の人々を「ニンニクくさい」といい、欧米人を「バタくさい」といって世界から友人を失ってしまった。自分たちが「魚くさい」「醤油(しょうゆ)くさい」と思われていることも知らずに、である。世の中、においはお互いさまなのだ。
たばこくさいと非難する女性は、厚化粧のくさみをご自覚だろうか。たばこの煙が健康を害することはあっても、たばこのにおいで肺がんになることはない。子供のいじめの「くさい」と同じではないか。
タクシーは公共交通機関といっても、あくまで個別選択的な乗り物である。車内でのたばこは運転手さんや同乗者の同意を得れば不特定多数の人々に迷惑をかけることはありえない。まさに私的空間なのだ。
そこへ禁煙の論理を持ち込むなら、なぜ、禁煙車を7割、喫煙車を3割など喫煙率に応じた選択肢を与えないのだろう。全車禁煙という一律主義に、スー族は本能的な危険を感じる。
世界で初めて国家的禁煙運動を始めたのは、ヒトラーである。「たばこは赤色人種が白人にかけた呪(のろ)いである」と断じた彼は、ドイツ民族の純粋性を守るために徹底した禁煙を求めた(健康帝国ナチス、R・N・プロクター著、草思社)。同時代の独裁者、ムッソリーニもフランコも禁煙主義であり、彼らに対抗したルーズベルト(紙巻き)、チャーチル(葉巻)、マッカーサー(パイプ)はいずれもたばこのみだった。
禁煙は、下手をするとナチスのように他者の存在を認めない原理主義に陥ってしまう。スー族はいま、それを憂えているのだ。

2007年4月29日 中日新聞


この記事は当時、ちょっと話題になったりもしましたが、直ちに鎮圧されたものでした。もっとも、その「鎮圧」のされ方は必ずしも的を得たものではなかったのも確かです。

小出さんはあまり上手く書けなかったようなのですが、問題は「「くさい」というのはなんとも容認できない」というところだったわけですが、それに対して例えば「NPO法人日本禁煙学会」作田学理事長の「反論」
http://www.nosmoke55.jp/action/0704chunichi_sinbun.pdf
は、タバコ煙りの害を説明し、しかる後に「タバコの臭いがするという状況は、迷惑というレベルどころか、タバコを吸わない人々の生存の自由を侵す問題なのである。「タバコくさい」は非喫煙者にとって、命が脅かされるサインなのだ」と述べています。

さすがは作田さんらしく、一見科学的に見えますが、それによると「急性健康障害」が発生する「タバコ煙濃度」は「4μg/立方メートル」であり、それに対して「タバコ煙臭がわかる」ようになる濃度は「1μg/立方メートル」なのだそうですから、「くさい」ぐらいでは特に害はないはずです。「急性」でない「健康障害」について作田さんはあえて言及を避けています。しかし作田さんはイキナリ、「タクシーの中が「タバコくさい」という状況では、タバコ煙濃度が10から100μg/立方メートルになっているはず」であると何の証拠もなく書いてしまうのですから、あまりアテになるものではありません。

もっとも、作田さんは「「タバコくさい」状況」は「タバコ煙臭がわかる」状況よりも、その臭いが強いと考えていることは間違いありません。そしてその場合濃度は高くなる、と思ってしまったわけです。それが10倍とか100倍とかいうのは大袈裟な話ですが、臭いが強く感じられるのであれば濃度は高いはずだ、というのは極当然に思われるんでしょう。

しかしながら、臭いの主観的強度が「タバコ煙濃度」の高さに従う、と考えてしまったところが、この「反論」が的外れである油煙なのです。いや、所以なのです。感覚閾値(この場合1μg/立方メートル)をひとたび越えるや、感覚による評価によって刺激の強さを測ることが出来ません。その刺激に対する評価が感覚の強さを変えてしまうからです。作田さんは知覚に対する心理的な影響を無視してしまっているのです。

一方で小出さんが書いているのは、まさに「くさい」ということの心理的な含意なのです。とりわけ「におう」ことと「くさい」ことが、共に臭覚刺激の存在を現わすにも関わらず、この2語の間には明らかな感情的な落差、好悪の評価が表現されざるを得ず、臭覚がすぐれて「差別的」であるという点において。

小出さんは、ハナは上手くやっていました。喫煙者と非喫煙者を対立する2部族に例え、日本人が朝鮮人や毛唐を差別するに「におい」をもってし、日本人も同様に「におい」でもって差別されている事実を指摘するまでは順調でした。

まずかったのは「ヒトラー」を出して来たことです。これは別段間違った類推でもないのですが、言われた方は反発必至です。禁煙活動家は歴史現象としての「ヒトラー」を目指しているのではないからです。もちろん、彼等の活動は結果として歴史現象としての「ヒトラー」と類似の現象を招来する可能性のあるものであることは否定出来ませんが、連中だって悪気があるわけではありません。ただ単に他の人、例えば喫煙者だって別に悪気があるわけではないということに共感出来ないだけなのです。

しかしながら、禁煙活動を「ヒトラー」のような歴史的現象に当てはめるのは若干疑問なしとはしません。それは結果として「ヒトラー」に至る「可能性」がありますが、それは「可能性」に留まります。少なくとも「現在」においてはそれはそうではない。しかし現状において、すくなくとも2007年時点において、それは既に明確な「差別」の形態をとっています。そして差別は特定の政治形態が現実化するのを待ってはいません。いつでもどこでも誰でも出来る手軽さが「差別」の魅力です。

小出さんは「禁煙」の「差別」的な様相を、一度は的確に指摘してみせたのですが、「政治的」な横道にそれてしまったようです。それに対するに作田さんは、入力が厄介な単位と数字を並べて「科学的」な装いを凝らして「心理」から目をそらす一方で、「差別」を「科学的に」正当化してみせたのです。

もちろんナチスの「科学」が、ユダヤ人が「劣等」である「科学的な」根拠を豊富に持ち合わせていたことは人も知るところですが、特定グループに対する「嫌悪感」は特に「根拠」を必要としません。「科学」だろうが「統計」だろうが、あるいはまた「宗教」でも「哲学」でも、「あの連中」に対する「嫌悪」を正当化するために動員されるのであり、「根拠」こそが「結果」として導かれるのです。今では「精神病」や「低IQ」などの被差別的な属性すら、喫煙と結び付けられることによって復権しつつあります。

ここで、小出さんが「厚化粧のくさみ」のことを持ち出してたばこの「くさみ」を相対化しようとしているわけですが、差別問題に関する限りこれは水掛け論です。一方が「暴力」を手にしているときに言説のレベルで平準化を図ることは無意味です。その他にも「くさい」人は一杯います。現在では「民族的」なものを別とすればありとあらゆる人たちが「くさい」咎をもって批難されつつあるのです。「厚化粧」も「くさい」し、「デブ」は酸っぱい臭いがします。年寄りの「加齢臭」にはいたたまれず、あろうことか「香水」までもが「くさい」のです。

そこで中年のデブは夏場においてはなるべく家で腐っていることが推奨されるわけですが、高齢者に対する嫌悪感が高齢女性が得に用いる香料にまで波及するのですから事態は深刻であると申せましょう。現在では、一部の特異な事例を除いて民族的な、あるいはセクシャリティにまつわる差別をあからさまに行うことは困難になりつつあります。それがなくなったわけではありません。大声で言わなくなっただけです。その代わりと言ってはナンですが、高齢者に対する差別は、人口構成の高齢化に伴って徐々に明確な態度として表現されるようになりつつあります。そして、高齢者差別と同じ正当化の根拠をもって喫煙者の差別はより積極的に行われているのです。

この2つに共通するのは「健康」あるいは「厚生政策」への「脅威」であるという点です。要するに年寄りとか喫煙者は病気になりやすい、と信じられているのです。実際にはそれ以外の人も病気にかかったりするのですが、「高齢者」と「喫煙者」は共により「死」に近いものとして忌避されるのかも知れません。

しかし人は死なない限り歳を取り続けるものであり、誰でも自分の「高齢化」を避けることが出来ません。しかしタバコを吸う人は自ら進んでタバコを吸っているのであり、それは当人の選択なのです。そして「社会」が、あるいは「世間」とかそういうものが喫煙者を特に攻撃することに決めた以上は、喫煙者は攻撃されても仕方がないのです。なぜなら彼は自ら進んで攻撃されるようなことをしているからなのです。

ここでは「喫煙者は攻撃されるべきである」という前提を喫煙者が共有することが喫煙者に対して一方的に押し付けられているんですが、おそらく、このような混乱した論理が差別の論理です。「臭い」は差別そのものに根拠がないことを表現しているかも知れませんが、差別する理由として充分に機能します。禁煙活動をする人の合い言葉は「良い喫煙者は死んだ喫煙者」です。別にとッ捕まえて殺してしまおうというわけではありませんが、禁煙しろ、したがって喫煙者としては「死ね」、というわけです。もっとも、ハードコアな嫌煙家になると、喫煙者が禁煙をやめても「くさい」とか言い出します。観念上の「毒」は、いつまで経っても解毒されないスティグマであるかのようです。そして一方では、喫煙者の「ほとんど」が「喫煙を止めることを望んでいる」とすらいわれています。ちょうど取調室でオマワリさんが「共犯は吐いたぞ」と言って回るように。

喫煙者は、非喫煙者の気に入るような喫煙者であろうとして来ました。すなわちますます拡大する禁煙の場所では決して喫煙せず、自宅であっても寒い屋外に自らおん出てこそこそと喫煙し、もちろん路上に吸い殻を捨てることなく、オサレな携帯用灰皿など買い求めて密かに自慢し、ひたすら遠慮、ただもう見逃してもらうべく愛想笑いを浮かべながら御寛恕を願い、世の中の片隅に居所を確保しようとしてきたのです。しかしそれらは全て無駄でした。

禁煙活動家の「受動喫煙」という問題設定に乗ってしまったのは大きな誤りです。それは今や喫煙者のパソコンの修理を拒否する程であって、「受動喫煙」の概念はもはや「ケガレ」とか「えんがちょ」の概念に抵触するものとなりつつあります。小出さんの着眼点こそ正しかったのであり、あたかも作田さんなどの「科学的」な衣装はもはや時代遅れ、今後は「宗教的」な境地に突入してこれからは喫煙は「悪魔的」な行為であるとされるでしょう。しかし、喫煙にまつわるそのような神話作用は、実はそれほど最近のものでもなかったりします。人がそれに魅力を感じなくなったのであり、何らかの「正統的」なものに対する抵抗が失われたのです。もちろんこの「魔女狩り」めいた動向の裏には、極めて世俗的な動機が存在することはいうまでもありませんが、それはエソテリシズムです。


posted by 珍風 at 22:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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