2010年08月23日

なれるとおいしいくさやのひもの

法相 刑場公開で議論の喚起を


千葉法務大臣は、死刑を執行する場である「刑場」を今月中に公開することについて「裁判員制度を実施していくにあたって、さまざまな判断をしたり、刑罰についての議論を深めるきっかけにしてもらいたい」と述べました。

千葉法務大臣は先月、死刑囚2人の死刑を執行したことを受けて、今月中に刑場の公開に踏み切ることを明らかにしています。これについて千葉法務大臣は、閣議のあとの記者会見で「8月中の公開に向けて、鋭意、準備を進めている。裁判員制度を実施していくにあたって、さまざまな判断をしたり、刑罰についての議論を深めたりするきっかけにしてもらいたい」と述べました。また、法務省内に発足させた死刑制度のあり方を検討する勉強会について、千葉法務大臣は、今月中に死刑制度の是非をめぐる論点を整理したうえで、来月、民間の有識者から意見を聞く場を設けたいという考えを示しました。

2010年8月20日 NHK


死刑場の公開の準備ってのはそんなに時間がかかるものなのでしょうか。僕の部屋なんかだと、「公開」するということになれば、まず3日は掃除に当てないと無理ですが、死刑場なんかは、いつでも使えるように常時整理整頓されているんだと思うんですが。それとも、実は普段は書類を入れた段ボールなどが山積みになっていて、執行の前の夜はみんなで徹夜して荷物を廊下に出すのかも知れません。

刑場に向かう道は段ボール箱の谷間になっている可能性があり、ある場合には箱を乗り越えて進まなければならないかも知れません。執行そのものが公開されないのでこの点について否定する材料が存在しないのが現状ですが、倉庫になってしまっているのであれば、それはそれで悪いことでもありません。

公開ということになると、単に荷物を部屋の外に出すだけではみっともないことから、他の部屋を整理してそちらに荷物を移動させる必要が生じるので、準備に時間がかかるのも当然でしょう。ついでにいらない書類やマズい資料をシュレッダーにかける作業も並行して実施されている可能性があります。安いシュレッダーだと6枚くらいしか裁断出来ません。

そんな風にして日がな一日紙をちぎっていると、そんなにまでして死刑場を公開しなければならないものなのか、ワケが分からなくなって来ます。千葉さんによれば、その大きな目的は「裁判員制度を実施していく」ことにあるようです。やっぱり裁判員制度です。だから言わないことではありません。誰に頼まれたわけでもないのに面倒くさいことを始めたものです。

しかし、もう始まってしまっている「裁判員制度」のために、何故今頃になって死刑場を見せなければならないのでしょうか。千葉さんは横浜弁護士会に所属しているのですから、ここは弁護士会のほうにもうちょっと分かりやすい説明をお願いしてもバチは当たらないようです。

昨年5月21日に裁判員制度が実施されてから、いまだに検察官から死刑が求刑された事件はないが、早晩、一般市民も、死刑の量刑判断という困難な場面に直面せざるを得ない。

2010年8月19日 横浜弁護士会 死刑執行に関する会長声明


なるほど、「裁判員制度を実施していくにあたって」、「早晩、一般市民も、死刑の量刑判断という困難な場面に直面せざるを得ない」ので、具体的なイメージがわきやすいようにし、もって裁判員の死刑判決を支援しようということのようです。「早晩」に向けて「今月中」に公開しなければならないので、このクソ暑い中閉め切った部屋で熱中症になり、死刑囚でもないのに死刑場が死に場所になるのもまた一興ですが、この分だと来月には死刑の求刑が行われそうなのですから、多少の犠牲はやむを得ません。

もっとも、裁判員が「死刑の量刑判断という困難な場面に直面」しなければならないという理由はありません。検察は死刑の求刑を行うかも知れませんが、それは彼等の仕事です。勝手に求刑でも吸茎でもやっていれば良いわけで、裁判員がそれに振り回されるいわれはありません。千葉さんや横浜弁護士会のいい方だと、あたかも裁判員は死刑の求刑が出たら死刑判決を出さなければならないみたいじゃんかよー。

間違えて横浜弁になってしまいましたが、これは悩ましい問題です。死刑は国家の大切な行事なのです。日本では「禊祓」とか言っているものです。「禊」と「祓」とは違うんだとか同じことだとかいうんですが、これらは多分、本来違ったものが後になって同じことになったんでしょう。

「禊」の起源神話は、黄泉の国でイザナミと「1日千人殺してやる」などの不穏当な口論をやらかしてきちゃったイザナギが、穢れを除くために水に浸かったものを嚆矢とするようですが、これはまあ、難しい話は色々あるようですが、要するに水浴であります。死のタブーに接触した「ケガレ」を浄化するわけですが、「ケガレ」か何かがどっか知らんとこに流れて行ってしまうというテキトーさが、この「禊」という語をさまざまな場面でいい加減に使用することを可能にしています。

一方で「祓」の起源は、いわばもうちょっとちゃんとしたものです。DQNの守護神であるスサノオが悪いことばかりするので全財産を没収の上追放したという話なんですが、ここでは現在の「犯罪」概念とはちょっと違うのですが災いをもたらす「天津罪」「国津罪」という逸脱行為が類型化されて整理・列挙され、それに対する手の込んだ処分が行なわれています。これは統治権力がシステムとして成立していることを意味します。

しかもこの「祓」は、「禊」を乗っ取っているようです。「大祓詞」によると「天津罪」とか「国津罪」はセオリツヒメが川から海に運び、ハヤアキツトヒメがそれを呑んじゃうと、イブキドヌシが異界の「根の国」の方に吹き飛ばしちゃって、「根の国」ではハヤサスラヒメがそれを負ってどっかに行っちゃうことになっているんですが、これは「禊」を多少詳述したもんでしょう。

各人が勝手に「ケガレ」を清めていた「禊」は、国家の行なう「処分」である「祓」に併呑された模様です。そしてアマテラスによるスサノオの「祓」は、この処分の主宰者としての天皇の地位を正当化するお話しになっています。

未だに死のタブーに触れることの処分については国家が横領したままになっており、それは一方では靖国神社になっています。それは常設の浄化装置であり、常設化することによって戦士による死のケガレへの接触をシステム内にビルトインします。なもんですから、これがあるおかげで、国を挙げて年がら年中ケガレまくっていても大丈夫なようになっているのです。

もう一つの形式が死刑であり、これは身体そのものを「どっかへやっちゃう」ことになるでしょう。これは「禊」をしていてうっかりして流されてしまうことにも似ていますが、正に文字通り「祓」=「払い」=「根の国」への追放のつもりであると見ていいでしょう。

したがって死刑は日本ではいわば「神事」であり、宗教活動です。それは憲法第20条第3項に対する重大な違反の一つですが、酋長のいる土人の国ではなかなか止められないようです。戦士の浄化装置を設けることも同様の憲法違反です。しかし宗教活動を担当している法務省は、この「神事」に民が関わることを本気で心配しています。民にはそんなことをする権利はないのであって、それはとっくの昔にアマテラスによって強奪されているはずです。

しかしながら、検察官が死刑を求刑し、裁判員がいわばそれを「承認」するのであれば問題はありません。問題なのは、国家が検察官を通して「祓」を命じているにも関わらず裁判員どもがその通りにしないことが考えられるという点で、そんなことは考えられません。死刑と言ったら死刑なのであり、それに反対することを抑制することすら想定を許しません。あたかも自然に「承認」されなければならないのです。

したがって法務省としては国民に「死刑」に慣れてもらうことが必要です。死刑場を公開して死刑を国民に親しみやすいものにしようというのも、そのような意味で行なわれることになるでしょうし、「刑罰についての議論を深める」のも良いことです。四六時中「死刑」について「議論」すること、いつも「死刑」という言葉を耳にし、「死刑」という文字を目にすることが大切で、何かというと口をついて「死刑!!」と言えるようになったらしめたものですが、あのポーズ、運動不足だと首は吊らなくても背中の筋肉が吊ったりするので、やはり日頃からの鍛錬は欠かせません。


posted by 珍風 at 07:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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