2010年08月28日

アスの会の明日はどっちだ!あたしはたまごっちだ!

【刑場公開】視点・死刑を考える契機に 無機的な現場も身につまされた


 死刑制度について国民的議論を呼びかける千葉景子法相の指示で27日、東京拘置所の刑場が公開された。刑場の一部には立ち入りが許されなかったことなど、完全な公開とはいえないものだったが、これまで厚いベールの奥にあった「死刑」について、情報公開が進んだことは評価できる。

 千葉法相は先月、2人の死刑囚に対する死刑執行命令書にサインした上で、執行にも立ち会った。法相が死刑廃止論者だったこと、そして、就任から約10カ月間執行しなかったにもかかわらず、参院選で落選した後というタイミングで執行されたことには、分かりにくさも残った。

 ただ、今回の公開で、死刑囚の首にかけられる絞縄(こうじょう)もなく、踏み板も開かない、極めて無機的な刑場を見ただけでも、身につまされる思いがした。これを考え合わせると、実際の執行に立ち会うという決断自体が、相当重いものだったことは、想像に難くない。死刑囚の死を確認するスペースへの立ち入りが許可されなかったことも、そこが厳粛な空間であることを考えれば、納得もできる。

 世論調査では死刑制度を容認する声が85%以上と高水準にある。そして、法に明確に規定されている以上、執行命令書へのサインは法相の責務であり、執行も粛々と行われるべきだ。

 しかし、これまで死刑という刑罰について、どこか思考停止していた面はなかったか。死刑囚、被害者や遺族、執行のボタンを押す刑務官らの思いを斟酌(しんしゃく)することはあっただろうか。

 裁判員裁判のもと、国民が究極の刑罰の選択を迫られる日はそう遠くない。死刑への賛否はさておき、今回の刑場公開が、死刑について思いをめぐらせる契機になることが期待される。(酒井潤)

2010年8月27日 産経ニュース


酒井さんは「身につまされた」そうです。良いことです。「身につまされる」というのは「我がことのように感じる」という意味ですから、普通に考えると自分がここで吊るされることになった場合を想定した、と読むことが出来るでしょう。

ところがどうもそれは違うようなのです。酒井さんは死刑囚の立場に立ったわけではなく「実際の執行に立ち会うという決断自体が、相当重いものだったことは、想像に難くない」と思っただけでした。死刑囚にとっては誰が立ち会っているかということはどうでもいいことで、てゆーか目隠しをされているので見えないわけですが、酒井さんの想像力はあくまで「立ち会う」側にしか及ばないようです。

さすがに記者クラブの記者さんは僕みたいな有象無象とは違うわけですが、酒井さんとしては心は立会室に置いたまま死刑場を眺めて、「極めて無機的」だとか思ったようです。どうもここはやはり、ikaさんの言う「体験ツアー」をやるべきであったようです。なにも開き戸を開けとまでは言いません。記者さんたちには順番に目隠しをして、足も縛って開き戸の上に立たせて首に縄を掛けるくらいまでは「体験」してもらった方がいいでしょう。

押しボタン係もみんなで順々に体験すべきでした。電源を切っておけば大事には至らないでしょう。もし万が一のことがあっても、それは「死刑囚、被害者や遺族、執行のボタンを押す刑務官らの思いを斟酌する」ことを大いに助けるものと思われますので、法務省側が何といおうと「体験ツアー」を要求するか、その場で勝手に始めてしまうべきでした。

記者さんたちが「触るな」「喋るな」という「しけいじょうのきまり」を正しく守って「入るな」というところには入らずおとなしくお利口さんにしていたのは幼稚園の遠足以下としかいいようがなく、大変に残念なことです。一体何をしに行ったのか全く分かりません。そんなことで代表で画を撮って来ても、法務省が写真を撮って配るのと変わらないようです。

今回の「公開」では執行室の地下、いわゆる「ダンスフロア」ですが、ここに立ち入ることが出来なかったわけですが、酒井さんは「そこが厳粛な空間であることを考え」て「納得」してしまったようです。もっとも、ダンスフロアが「厳粛な空間であること」は、実は酒井さんが「考え」たことでもなんでもなく、法務省がそのように言って立入りを拒んだものでしかないのですから酒井さんには思考能力が存在しません。

そのくせ「これまで死刑という刑罰について、どこか思考停止していた面はなかったか」と書くのですから酒井さんは面白い人です。面白い人って好き。じゃあ何に「ついて」なら「思考停止」していないというのか、それは酒井さんの頭蓋骨の中の「無機的な空間」を公開してもらわないことには見当もつきません。

ダンスフロアは市民の立入りが許されない場所であるようです。考えるに、「死刑」が正にそこで行なわれるからでしょう。「執行室」と呼ばれる場所は装置に対象の身体をセットするところであって、人が死ぬのはその下です。落下による延髄損傷および頚骨骨折によって「即死」する、という説がありますが、実際には死亡確認まで15分以上を要します。更に念を入れて5分吊るしておかないと安心出来ません。

これを言い換えると、落ちて来たものを放置するから死ぬのであって、速やかに救命措置をとった場合にどうなるかは、これはやってみた人がいないもんですからよく分かりませんが、助かる可能性があります。死刑の「執行」とは、この救命措置をとらないことを意味します。それは致命的なダメージを与えることと、瀕死の状態にある人を不作為によって死に至らしめることの2段階によって行なわれるわけです。

仮に「執行室」でのセッティングがかなりマズくいった場合、殺害のほとんどのプロセスがこのダンスフロアで行なわれることになるでしょう。はっきり言って何が行なわれているのか知れたものではないのですが、そういった意味も含めて、今回のいわゆる「公開」は、ほんの入口から少し入ったところ、次の間あたりを見せただけで、こんなことで「評価」してしまうようでは、あたかも浮気調査に行って調査対象者が相手と目される人物とバーに並んで座っているところを写真に撮って来て「浮気の動かぬ証拠」だと言って得意満面な無能な探偵と変わるところがありません。

もっとも、多くの人々は死刑場の構造などに興味を持って調べたりしたことがないでしょうから、「次の間」でもちょんのまでも見ないよりはマシというものです。見られてはマズいと思う人がいれば尚更です。

刑場の公開について、全国犯罪被害者の会の岡村勲代表幹事は「公開の法廷で言い渡された死刑をどういう場所で執行したのか、刑場のことも含めて国民に公開するのは当然だ。ただし、死刑のあり方について検討する法務省の勉強会の中に絞首刑の場面を想像させることで、死刑制度の存廃の議論に踏み込むという考えがあるとしたら問題がある。死刑執行の手段と、死刑制度が必要かどうかという議論は別の問題だ。世論調査では国民の80%以上が死刑を支持しているし、被害者の遺族がいかに苦しみ続けているのかということに十分思いをはせて議論してもらいたい」と話しています。

2010年8月27日12時3分 NHK


「当然だ」とはいうものの、岡村さんはつい「絞首刑の場面を想像」してあわててしまったようです。人をぐるぐる縛って目隠しをして首にナワをかけて足元の床が開く、というのはあまり穏当なものではありません。不意に床が開く、というところが実に邪悪な仕組みになっているわけで、考えてみればマトモな人間のすることではない、とすら言えるでしょう。法務省がわざわざ絞縄を外したのはこのためなので、岡村さんは黙っていれば良いのに。

岡村さんとしては、千葉さんが「公開」したんだから「絞首刑の場面を想像」させることによって死刑廃止の気運を盛り上げようという目論見があるに違いない、と思っていたのでしょう。岡村さんの考えでは、「場所」を「公開」するのは構わない、しかし「場面」はダメなのです。それは通常人の激しく嫌悪するところであると岡村さんは考えており、そんなことを考えさせると死刑の存置が困難になると思っているのです。

しかし岡村さんはそれを真っ正面から批判してしまうのです。NHKの昼のニュースでそんなことを言うもんですから、視聴者は真っ昼間から「絞首刑の場面を想像」することになりました。あわてて「問題がある」とか言っても後の祭りです。岡村さんもたまにはマシなことをするものです。

そこで岡村さんは速やかに反省をして、夕刊の締切までにはもうちょっと落ち着いた対応をすることにしましたが、果たして上手にできたでしょうか。

◇国民は見て判断−−全国犯罪被害者の会「あすの会」代表幹事で死刑制度賛成派の岡村勲弁護士の話

 刑場公開は社会科見学のようなもの。「悪いことをすればここに連れてこられる」という教育的効果はあるが刑の執行を見せるわけではなく騒ぐことではない。そもそも隠す理由はなく、見せないからいろいろな憶測を呼ぶ。裁判員制度になり、裁判に参加する国民はあらゆるものを見て判断すべきだ。

2010年8月27日 毎日新聞東京夕刊


一生懸命に「社会科見学」だの「そもそも隠す理由はなく」だのと、自分の失策を誤摩化そうとしているようですが、とにかく「絞首刑の場面を想像」してシンコクな気分になるようなものではない、と言いたいわけです。他人の昼飯をまずくしておいて勝手な言い草ですが、残念なことに「騒ぐことではない」と言ってしまいました。そんなことを言うから岡村さんが「騒いで」いることが明らかになってしまうのです。まあ、あれだけ墓穴を掘ったんですから騒ぎたくなる気分も分かりますが、言えば言うほどドツボです。

そもそも岡村さんは「死刑執行の手段」には問題がある、と考えてしまっているようです。現状の「手段」は「残虐」に当たると考えているものと思われます。しかし岡村さんには「残虐」でない死刑執行の「手段」を考えることは不可能です。これはアタマが悪いからというわけではなく、それもあるかもしれませんが、一方ではあらゆる「殺人」を、その「手段」に関わらず「残虐」であると言わなければならない立場にあるからなのです。

だから「絞首刑の場面」がどうだとか「死刑執行の手段」がこうだとかとか言うべきではありませんでした。ここは無理にでも現行の執行手段は「残虐」ではない、という立場をとらなければならなかったのです。しかしそうすると、現行の死刑執行と同様の手段による殺人は「残虐」とは言えなくなってしまうんですが。犯罪を糾弾しつつ死刑を擁護するためには「残虐」ではない「殺人」を認めなければなりません。岡村さんが「騒ぐ」のも致し方のないことではあります。


posted by 珍風 at 11:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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