2010年08月29日

アスはこっちだった!だから何なんだ!ムーミンのGFはノンノンだ!今頃はのんのん婆だ!

◆あすの会・松村恒夫さん『殺人の被害回復無理』

 「遺族の望みは、被害者を返してほしいということ。それができないなら死んで償ってほしい。きれいごとではない」。はっきりとした口調で死刑制度の存置を訴える。

 一九九九年に二歳の孫を殺害された。加害者はこの孫の兄と同じ幼稚園に通う子の母親だった。確定判決は懲役十五年。「同じ命なのに、被害者は命を奪われ、加害者は生きている」。事件から十一年が経過した今も、割り切れない思いを抱き続けている。

 死刑について「遺族は事件の前の生活に戻ることはできない。死刑は通過点にすぎないが、一つの気持ちの整理になるのかもしれない」と話す。被害者遺族には「執行ボタンを押させてくれ」という人も多いという。

 担当弁護士のもとに昨年、初めて加害者から手紙が届いた。今も封を開けていない。仮釈放のためのパフォーマンスとしか受け取れなかったからだ。殺人事件では、遺族の被害回復は無理だと考える。

 「遺族の多くは、加害者に更生してほしいと思っていない。反省は、ゆるしにつながらない。反省し真人間になっても『だから何なんだ』と言うしかない」

 刑場公開について、「国民が死刑に関心を持ついい機会だ」と思うが、「死刑は残酷」という形で国民に伝わることを懸念する。「死刑囚は告知され、死ぬ前に読経やミサも受けることができる。被害者はいきなり、もっと残酷な方法で命を奪われている。そうした事実にも目を向けてほしい」と話す。

 まつむら・つねお 1999年11月、東京都文京区で娘と幼稚園の母親仲間だった主婦に、2歳の孫娘を殺害された。全国犯罪被害者の会「あすの会」の活動に2001年から加わり、現在、副代表幹事。68歳。

2010年8月28日 東京新聞


なんとこの人が「アスの会」の副代表幹事だというのですからあきれたものです。松村さんの「事件」というのは「若山春奈ちゃん殺害事件」のことでして、当時『週刊文春』が被害者の家が経済的に裕福であることを指摘し、それに対して被害者の母親が文春側に謝罪高広告を求めて訴えを起こし、その結果文春は謝罪記事と被害者側の手記を掲載することになったんですが、その「手記」を書いたのが松村さんです。

この事件は公判の過程で加害者側で「動機」と言えるほどの「動機」が存在しなかったことが明らかになっています。加害者の山田さんは「無視された」とか些末なことを言うばかりで、殺害に至る決定的な「動機」は存在しなかったようです。いわば加害者と被害者の母親の相互関係の中でそういうことになってしまった、という色彩が濃厚です。

したがって被害者は春奈ちゃん、原因は被害者の周囲の人たちの関係状況、直接手を下したのは山田さん、という解釈が妥当であろうとも考えられますが、「誰か」が悪いことにしないと理解出来ない人は多いものです。てゆーか大体刑法というものはそうなっています。そこでやはり、直接の行為者である山田さんを「悪者」にしておく、というのはとりあえず仕方のないことでしょう。

この場合、山田さんは明確な利益関心をもって犯行を決断するような範例的な殺人犯とは大きく異なることになるわけですが、これも犯罪のヴァリエーションであり、そういうのもある、というだけのことです。

マスゴミも「誰か」を悪者にしないと書けないもんですから、文春は被害者の母親を「悪者」に仕立て上げたようです。原因は加害者において表象された両者の関係性であることから、これは視点によっては間違いではありません。もちろん被害者の母親と自己との関係をそのように思い込んだのは加害者の問題ですが、加害者がそのように思ったことについて相手方においてその契機が皆無であったとも言い切れないのです。

松村さんの活動は、このような特異な事件において「被害者側」の自己防衛として始まっています。文春を訴えるのはともかくとして、加害者側にも損害賠償請求を起こして認められ、毎月刑務所に請求書を郵送し、更には事実上不可能であると思われるその支払いが滞っていることを世間に訴えるなど、その活動は極めて攻撃的であり、加害者側を徹底的に葬り去ろうとするかのようです。

まあお金持ちなんでしょうけど、お金持ちというものは水に落ちた犬は叩き殺すくらいでないとお金持ちになれませんから、そういう性格なんだ、と言ってしまえばそれまでですが、あたかも加害者が生きていて何かを語り出すのを怖れるように見えないこともありません。世間では攻撃は最大の防御である、とか申します。

この求刑懲役18年、確定判決では懲役15年の事例において、松村さんがいまでも「極刑」を主張し、「アスの会」にまで加わって関係ない他の人まで殺そうとするのはどういうワケなのか、邪推の余地が大いにある、などと書くと訴訟を起こすぞ、金を取るぞ、ということなので、僕はそんなことは一言も言わないのはもちろんです。

そういうわけなので、松村さんの言っていることも、まあ、それなりです。「告知され、死ぬ前に読経やミサ」をやったところで殺害の残虐性が減少するとは思えませんが、松村さんにとっては事前告知は極めて重要なようです。監禁され、告知され、縛られて吊るされるのは、松村さんにとっては極めて満足の行く殺され方である、ということが出来るでしょう。

これは「アスの会」の考えの足りない一例でしかありませんが、松村さんはその「当事者性」を強調するあまり、「遺族の立場」で、かなりマズいことを言ってしまっているように思われます。

「遺族の多くは、加害者に更生してほしいと思っていない」そうですが、これでは「遺族の多く」が刑罰に関する議論に参加する資格がないことになってしまいます。たしかに死刑の場合は「更生」はちょっと難しいかも知れませんが、刑罰は何も死刑ばかりではありません。しかし多くの刑罰が受刑者の「更生」を目指しているところ、「遺族の多く」は刑罰の目的を否定しているところから、死刑でない場合は放免してしまうことを肯定するものと思われます。もっともこれは「遺族の多く」の意見ではなく、松村さんの思い込みでしかないと思われるので、世間の人々は安心してよいのです。

松村さんにおいては「反省は、ゆるしにつながらない」そうですが、これも個人的な意見に過ぎませんし、行刑は「遺族」の「ゆるし」に左右されるものではありません。「アスの会」に入っていない「遺族」が「ゆるした」からといって刑を免除されることはなく、また「遺族」が許さないからといって極端に刑が加重されることもないようです。もっとも、刑は法の範囲内である程度の幅があり、その幅の中でどのポイントを選択するかというところで「反省」と共に「遺族」の「ゆるし」の有無を一つの根拠にすることが行なわれていますが、これらは何となく同程度に採用されています。

ところが「反省し真人間になっても『だから何なんだ』と言うしかない」んだそうです。これはしかし、松村さんが「滑った」と考えてあげるべきでしょう。まあ、単なる「心情」をつい口にしてしまった、としてスルーしてあげるのがお年寄りに対して当然払うべき敬意というものです。しかしもし仮に、「アスの会」として一方の当事者の言い分だけを通すことを司法に要求するのであれば、均衡の観点から「『被害者はいきなり、もっと残酷な方法で命を奪われている』。だから何なんだ」と言うしかありません。


posted by 珍風 at 11:23| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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