2010年11月02日

殺人者たちのいるところ

【耳かき殺人 裁判員判決】「死刑回避のため被告の事情に傾く」…新潟大法科大学院の西野喜一教授


 元判事で新潟大法科大学院の西野喜一教授の話「死刑にしたくないので、被害者側の事情に比べ、被告側の事情をことさら大きく取り上げているように感じる。裁判官裁判なら、2人以上殺害して死刑になっていない例は少なく、死刑の可能性が高かったと思う。裁判員のストレスが大きいために死刑を避けたのならば、今後も同じ理由が続く可能性があり、刑事司法にとって問題ではないか」

2010年11月1日 産経ニュース


西野さんは『裁判員制度の正体』を書いた人ですが、『産經新聞』では死刑判決が出ないからといって裁判員制度そのものに文句をつけることにしたようです。調子のいい話しではありますが、西野さんはなかなか正直でよろしい。逆に言えば「被害者側の事情」を「ことさら大きく取り上げ」るのは、単に「死刑にしたい」からなのだということがよく分かります。

「裁判官」は、てゆーか少なくとも西野さんは人を殺すことに一向に「ストレス」を感じないか、極めて小さな「ストレス」しか感じないようなのですが、西野さんによれば裁判官は被告人を死刑にしたくて仕方がないものとされているようです。

この辺りは個々の裁判官においては異論のあるところではあるとはいえ、西野さんによると死刑判決は「被害者側の事情」に偏ったものであることになりますから、仮に「被害者側の事情」と「被告側の事情」をより公平に「取り上げ」ることが出来るとすれば、死刑判決は減少するはずである、ということが出来ます。

もっとも、ここで西野さんが「被害者側の事情」と言っているのが、「被害者遺族」の「事情」のことであるとすると、それを「ことさら大きく取り上げ」ることには若干の疑問が生じるでしょう。「遺族」は「極刑」を求めていたわけですが、語の正確な意味から言って「極刑」とは極めて特殊なものなのです。

おそらく「遺族」にとって「被害者」は「特別な意味」を持つ存在であると考えられますが、それは彼等の個人的な感情でしかありません。「極刑を求める」というのは、いわば「自分だけ特別扱いしてくれ」と言っているのと同じであり、これは感情としては理解出来ますが、「ことさら大きく取り上げ」るべきものであるとは言えないでしょう。

特にこの事件のように、被告人側の動機においても「感情」が大きな要因となっている事件においては、「被害者側」の「感情」のみを「ことさら大きく取り上げ」て死刑判決を出してしまうと著しく公平を欠くことが目立つものですが、「死刑にしたい」からといって「被害者側の事情」に偏した判決を出している近年の判断は「刑事司法に問って問題」であると言えるでしょう。

しかしそれにしても、「裁判官は意味もなく人を殺したがっている」ということをこれほどはっきりという人もなかなかいません。西野さんは「何を隠そう自分もそうだ」と言っているようなのですが、そうでなければ『産經新聞』に取材してもらえません。まあ世の中にはアブナイ人もいるということですが、このような人の言い分を「ことさら大きく取り上げ」るのも、世に警鐘を鳴らすという意味では『産經新聞』の存在意義も決して小さいものではないと言えるのではないでしょうか。ないでしょう。とにかく裁判所の周辺の一人歩きは危険です。

しかしだからといって事は裁判員制度に限った事ではありません。いやしくも「国民」である限りは死刑判決に関与しているのであって、「ストレス」を感じざるを得ません。そして西野さんはこの「ストレス」を問題にしているのですが、死刑制度を維持する以上は国民はこの「ストレス」を克服しなければならないのです。

もっともこの「ストレス」があるおかげで、殺人事件というのは比較的珍しい事象に属することになっているのですが、死刑制度を維持するためなら人の命など軽いものです。そういうわけで、「そう固くならずにもっと気楽に殺しあおうよ」というのが西野さんの提案であるということになるようです。それはもしかしたら楽しい世の中になるのかもしれませんが、出来たら新潟大の中だけでやってもらいたいような気もします。


posted by 珍風 at 05:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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