2011年11月02日

淫水焼けする一般市民

おそらく核技術などを弄ぶのには世界一向いてない会社ですが。

玄海原発4号機の発電を再開 九電


 人為的ミスで自動停止していた九州電力の玄海原発4号機(東松浦郡玄海町、118万キロワット)が2日、発電を再開した。福島第1原発事故後、定期検査やトラブルで停止した原発の再稼働は初めて。安全性を確認しながら出力を上げ、4日には出力100%の通常運転に復帰する予定だが、定期検査のため、12月中には再び停止する。
 
 玄海4号機は10月4日、復水器のトラブルで自動停止した。九電は原因究明や再発防止策をまとめた報告書を提出し、31日に国から「妥当」との評価を得た。これを受け、1日午後11時に原子炉を起動、2日午前0時23分には臨界に達し、午後3時にタービンと発電機をつないで発電を再開した。
 
 九州電力管内の原発6基のうち、稼働しているのは玄海1号機(55万9千キロワット)と再開した4号機だけで、この2基も12月中に定期検査で停止する。九電は冬場の電力不足に対応するため、家庭や企業に12月19日から来年2月3日まで5%以上の節電を求めている。(日高勉)

2011年11月2日 佐賀新聞


まずなによりも「妥当」でないのは「国」だ、というようなことはともかく、大事なことなので日高さんは2回も書いていますが、要するに4号機は12月にはまた停めないといけません。定期検査前に運転再開を既成事実化することだけが目的ですから、九電は例によって例の如く、例の「冬場の電力不足」を喧伝しているわけですが、今はまだ「冬場」ではありません。まだ電力は「不足」していないのです。

不必要な発電をするために過大なリスクを犯したのが今回の再稼動です。どこからどう見ても何一つ正当化できないのが立派といえば立派なもので、中々どうも大したものですが、目的は再稼動そのものの既成事実化の他にも、色々あります。ひとつは「安全性」の「確認」であります。

あるいは一種の信仰告白と言っても良いようなものですが、要するに核発電は無駄に動かすことが出来るほど安全である、と言いたいようなのです。そんなことを言ってもらったところで放射線の害が減るわけではないのですが、九州男児は「安全」を信じる態度を表明することをもって「安全性」の証明に替えることが出来ると思っているようです。

これをより小規模にやるとすれば、例の淫水の飲水になるでしょう。「淫」の字には「浸す、溢れる、はびこる」などの意味がありますから、溢れて溜まっていた水は「淫水」と言って言えない事もありません。園田康博さんは意地になってその「淫水」をば「飲水」なされたそうであります。園田さんは彼が「淫水」を「ゴックン」することが「淫水」の「安全性」を証明することには全くならないことに気がついているのかどうかわかりませんが、そのことによって彼が「淫水」が「安全」であると信じていることは疑う余地がない、ということにはなりそうです。

一休宗純も美人の淫水を吸うことを喜ばれたそうですから、園田さんの行動も一概に非難すべきでもなかろうとも考えられます。もっとも一休さんの場合はたとえそれが「安全」でなくても吸いかねないところがありますし、多少不潔であっても気にしない、というようなことは誰でもやっていることです。ところが園田さんは例の「淫水」を念入りに消毒なさったそうであります。淫水に対する尊重の念においていささか劣るものであると言うべきでしょう。

そういうような話はともかく、再稼動の強行によって「やらせ」の件が有耶無耶にできる可能性もあります。もちろん再稼動そのものが「やらせ」の延長上にある、てゆーか再稼動そのものも「やらせ再稼動」に他なりませんが、とにかく状況をどんどん悪化させることによって以前の罪が軽く見える、という効果も期待できそうなのです。

もっとも、世の中には間抜けな援軍というものもあるもので、こんな時に

元第三者委・岡本氏「九電の知事かばう行為立派」


 九州電力の「やらせメール」問題で、第三者委員会委員を務めた岡本浩一・東洋英和女学院大教授(社会心理学)が31日、福岡市内で記者会見を開いた。九電が最終報告書で古川康・佐賀県知事の発言を発端とする第三者委の見解を受け入れていない点について、「九電が知事をかばおうとする行為は人であれば立派な人格。一般市民の目から見れば、信頼するに足る企業ということ」と持論を述べた。

 一方で、委員会終了後もメール問題に関わり続ける元委員長の郷原信郎弁護士に関しては、「私の理解ではあり得ない。第三者委の役目は最終報告書の提出で終わっている」と批判した。

 郷原氏らが10月26日に第三者委4人の総意として「第三者委の報告書を否定する九電の見解は社会常識に反する」とする緊急メッセージを発表したことにも、「当日にいきなり伝えられ、中身を検討する時間がなかった。委員長の権限と思ったのかもしれないが、アンフェアだ」と不快感を示した。

2011年11月1日 讀賣新聞


悪いヤツ同士で庇い合うのがどうして「立派な人格」になるのか誰にも分かりません。讀賣新聞ですら「持論」と書いていますから、さすがにこれには納得できない模様なのです。しかし、相手は「社会心理学」の学者様であります。そっちの方では「立派」という言葉に特別な意味を持たせている可能性があります。例えば、それはどうも「信頼」と関係する概念であるのかも知れません。

ここでは「立派」=「信頼するに足る」という関係が成立しているようです。岡本さんの「持論」に従うならば、これは例えば、「一般市民」が何か「悪いこと」(歩道を自転車で走るなど)をした場合に、九電が庇ってくれることを期待できる、というような意味になると思われますが、しかし、このような「期待」は、実際のところおよそ考えられないものではあります。

ここで注意しなければならないのは、「九電が知事をかばおうとする行為」が、両者に共通する利害関心から出ているという点でしょう。つまり「仲間」だから庇ったのであり、そうだとすればそれは大して「立派」なことだとは思えないかもしれません。とはいうものの世知辛い世の中、一旦オマワリさんの支配下に置かれれば簡単に「仲間」を裏切る事例も耳にしますし、捕まってもいないのに「仲間」を裏切り、殺してしまって犯罪の成果の独占をはかるというのもありがちなことではあります。「仲間」を「かばおうとする行為」は、かくも稀にして美しいものであると言えましょう。

そこで、「一般市民」にとって「九電」が「信頼するに足る」場合とは、「一般市民」が「九電」の「仲間」になってしまった場合であることが分かります。「九電」と共に歩み、その奨めには従うことが肝心です。それは例えば「節電」に励む、ということなのかもしれませんが、そうすることによって「一般市民」は「九電」からの特別な保護を期待できる、というのが「社会心理学」的な知見から岡本さんが導き出す結論なのです。

もっとも「一般市民」も馬鹿ではありませんから、そんな「期待」などこれっぽっちも出来ないことは百も承知でありましょう。しかしながら岡本さんにとっては「九電」の「仲間」としての「一般市民」が、「九電」から「立派な」「行為」をしてもらえる場合が確かに存在するのです。おそらく、その「一般市民」とは岡本さん自身の事に他なりませんが、彼がどんな悪いことをして九電から「かばおうとして」貰ったのかは不明ですし、その「かばおうとする行為」が果たしてその目的を首尾よく達成したかどうかも分かりません。とはいうものの、岡本さんが「九電」から庇ってもらわなければならないようなこと以外に何が出来るのか、はなはだ疑問ではあります。


posted by 珍風 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。