2012年03月30日

追悼の期間は終わり殺しの日々が始まった

昨年の死刑執行676人、がんばれ日本=人権団体

 
[ロンドン 27日 ロイター] 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは27日、2011年の世界の死刑執行数が少なくとも676人に上り、前年の527人を上回ったと発表した。ただ、この数字には死刑執行が幅広く行われているとされる中国は含まれていない。

アムネスティによると、11年には20カ国で死刑が執行され、前年の23カ国から減少した。大半は中東地域で行われ、特にイラン、サウジアラビア、イラクで増加。イランでは少なくとも360人(前年は252人)、サウジアラビアでは82人(同27人)、イラクでは68人(同1人)に死刑が執行された。

一方、日本は19年ぶりに執行数がゼロとなった。主要8カ国(G8)の中で死刑を行ったのは米国のみで、43人(同46人)が処刑された。

ただアムネスティは、世界で最も死刑執行数が多かったのは、国家機密を理由に執行数を公表していない中国だとの見方を示し、11年には推定で数千人が処刑されたとしている。

2012年3月27日 ロイター


今となっては笑うしかないわけですが、29日の日本政府の行為は27日のこの発表を知っての狼藉でしょう。まあ、こんな発表をされてしまうと、日本があたかも事実上死刑を廃止したとか、死刑廃止に向かっているかのように「誤解」されてしまう虞れがあるわけです。殺人が法によって認められている国家として、日本はその国際的な地位を再確立する必要があったものと思われます。てゆーか、実は去年は地震で大変だったんで吊るす暇がなかっただけですが。

「国民が悪い。国民のせいだ」―小川法相


 民主党政権下で2度目となる29日の死刑執行後、小川敏夫法相はやや緊張した表情で記者会見に臨み、「法務大臣としての職責を果たすべきと考えた」と繰り返し強調した。

 小川法相は冒頭、「犯罪に対する刑罰は国民が決めることで、刑罰権は国民にある。世論調査でも大半の国民が支持している」と死刑執行に踏み切った理由を説明。裁判員裁判で相次いで死刑判決が出されていることを、重要な要素として挙げた。

 3人が選ばれた理由や、この時期に執行した理由については、「死刑が執行できない客観的状況にある人を除いた」とだけ述べ、明確な説明を避けた。政治的配慮があったのかという問いにも、「純粋に法務大臣の職責として執行した」と述べるにとどめた。 

2012年3月29日 時事


そんなわけですからこの際誰を殺すんでもよかったようで、「3人が選ばれた理由」などありません。強いていえば「4人やるのは大変だから」といった程度でしょう。小川さんはテキトーなもんだから「死刑が執行できない客観的状況にある人を除いた」とか言っていますが、松田康敏さんが再審請求中だったことを忘れていたようです。

しかしもしかするとそんな事は本当に知らなかったのかもしれません。小川さんのテキトーぶりは異常です。「犯罪に対する刑罰は国民が決めることで、刑罰権は国民にある」んだそうです。なるほどこれは「責任転嫁」とも取れますが、かなりヒドい議論です。この行論によれば、例えば「国民」には「戦争権」でも何でもアリということになるでしょう。つまりこのような「国民の権利」を背景にして政府は何をやっても良い、というのが小川さんの主張するところです。

実際には「犯罪に対する刑罰」として死刑が制定されていることについても、ある特定の犯罪についてそれに対してどのような刑罰を適用するかという判断についても、「国民」は一切関与していません。立法や司法といった権力機構を「国民」と同一視するのが、かなり無茶な議論であることは言うまでもありません。

もっとも小川さんは「世論調査でも大半の国民が支持している」ことを指摘しています。しかしこれは小川さんに限っては人を殺す理由にはなり得ません。小川さんは「死刑の在り方についての勉強会」を打ち切るにあたって「国民の議論があることと死刑を執行するかは直接関係しない」とする報告書を出しています。「国民の議論」が、たとえ「世論調査での支持」という形で存在するにしても、それは「死刑の執行」には「直接関係しない」とされているわけです。

「勉強会」を打ち切ったのがほんの3週間くらい前のことですから、小川さんの記憶は1カ月も保持出来ないようです。そんな事で今までどうやって生きて来たのかよくわからない、てゆーか、だからこそ政治家になるしかなかったのかもしれませんが、アタマがどーかしていることに変わりはありません。

ついでに小川さんは裁判員裁判で死刑判決が出されていることをもって殺人を正当化しているようですが、よく考えなくても今回殺された3人については裁判員裁判によって「国民の声が反映」されているわけでもありません。むしろこれらの場合については、死刑判決が確定するまでの過程で「国民の声が反映」される機会はこれっぽちも一切微塵もなかったというべきでありましょう。

このような、どれを取っても薄弱でなければ完全に間違っている「理由」で殺される人は可哀想な気もしますが、それが「死刑」というものです。小川さんは「ちょっとツライんだ」とかヌカしているそうですが、気が咎めるのであれば止めておくべきでしょう。たとえそれが「職責」であってもです。「仕事」であれば何をやっても良いというもんではないでしょう。やんなきゃクビになって路頭に迷うわけじゃあるまいし、「辛い職責」とやらに同情の余地はありません。

ちなみに「正義」というものもアテになりません。古沢友幸さんは妻の不貞を糾そうという、一種の「正義」に基づいています。妻が浮気したってんですから、悪いのはアッチだ、というわけです。上部康明さんの犯罪は「社会」に対する一種の裁定でした。確かに最低の裁定ではありますが、打ち続く不運に「社会」からの「冷遇」を感じた上部さんに何らかの意味での「正義」の観念が存在していたことは間違いないでしょう。その意味では松田さんも同じように「不正義」に見舞われて来た、と言うことが出来るかも知れません。

この意味で「死刑」は完全に「応報的」、てゆーか「釣り合う」ものです。「ワルい奴等は殺しちゃえ」という彼等の「正義」と死刑の「正義」とは同じものであるということが出来るでしょう。違いは単に、「国民の刑罰権」とか「職務」の陰に隠れることが出来るか、それとも自分で身体を張ってやるしかないのか、という「立場」の違いでしかありません。そして残念ながら多くの「国民」は自分の身を守りながら「ワルいヤツ」を殺す手だてなど持ち合わせていないんですから小川さんは今日も良い朝を迎えるのでした。


posted by 珍風 at 07:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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