2008年11月18日

利益関心相関的な集合住宅の構造化

ところで例の田母神さんがあんな風なので、かえって脚光を浴びている、かと思ったら意外とそうでもない次世代のスター多田羅健志さん、当ブログの「検索ワード」で上位だったりすることも多いのですが、なにしろ来てくれる人がそんなにいないところでの話しですから、都井睦雄さんと1位2位を争ったりというような状態で、なんともはやお恥ずかしい限りではあります。

そこで僕も「多田羅健志」でググってみたところどうやら国際基督教大学に在学中の方なんですか。同姓同名ってこともありますが、どうなんでしょ。「早稲田大学デルクイ!」の「IT担当」の「国際基督経大学教養学部(ママ)社会科学科2年多田羅健志」でありなおかつ「県立高校を卒業後、国際基督教大学(ICU)を経て東京家学に参加」した多田羅さんとは同一人物かと思いますが。

現状ではgoogleでその次あたりに当ブログが来てしまう、というあたりまだまだスターとしては下積みっぽいですが、検索を続けると、なんと(!)国際基督教大学の多田羅健志さんは「現代のエスプリ」に論文が載っているようではないですか。すごいじゃないの。

「現代のエスプリ」って、子供の頃に心理学に興味があったんでよく図書館で読んだものです。心理学関係が強い印象もありますけど、「多田羅健志」さんという人は2007年の2月号に「歴史学の信念対立を読み解く」てえのを書いています。歴史の話しみたいだから、心理学ではないようです。そして歴史の話しみたいなのですから、アパの「信の現代史観」に応募してもよさそうなものではないですか。たぶんこの多田羅さんは、アパで30万円也をもらった「優秀賞」の学生さんであると思われます。

この「論文」、「歴史学の信念対立」が「「彼らは○○だから、何を言っても無駄だ」(○○の部分には民族名、経歴、政治的思想、学問的な立場などのレッテルが代入される)」という具合になってしまうのを憂い、「どちらかに肩入れしてもう一方を全否定するのではなく、両論を相対的に捉え、論争から従来よりも多くを学ぶ」ために「有用な視点」を提供しようとしているのです。

そのような「信念対立」の例として「従軍慰安婦論争」における吉見義明さんと秦郁彦さんの対立を用いています。これは両者が同一の史料(「軍慰安所従業婦等募集に関する件」陸軍省副官通牒)を使用しながらもお互いに「まったく逆の歴史像を導いている」からだそうです。

で、多田羅さんによれば、そのようなことが起こるのは「個々の歴史家の“認識構造”の差異」が原因であるといいます。“認識構造”とは「我々の認識を形成している“何か”のこと」であり、それは要するに「関心相関的」であるということのようです。つまり「歴史的事実の存在・意味・価値は歴史家の「関心」に相関的に立ち現れている」んだと。

このように見ることによって「従軍慰安婦論争」のような「論争」が起こるのであるということを多田羅さんは言っているようなのですが、まあ、それはそうでしょう。僕たちは「そんなこと言うのは○○だ」(○○の部分には民族名、経歴、政治的思想、学問的な立場などのレッテルが代入される)と言うでしょうし、それをひっくり返して「○○はそういうことを言うんだよ」(○○の部分には民族名、経歴、政治的思想、学問的な立場などのレッテルが代入される)と言ってみるのも気の効いたことだと思ったりもするのです。ある種の言説はいかにも「アカ」が言いそうなことだし、「ウヨク
」が言いそうなことだったりするものです。

そういう意味では、多田羅さんは「彼らは○○だから、何を言っても無駄だ」の、少なくとも前半部分の「彼らは○○だから」ということを再確認しているだけなのではないかという疑いがあります。吉見さんは○○だからああいうことを言うし、秦さんは○○だからこういうことを言う、そいういうことがわかると「従来論では説明不可能な、矛盾する客観的歴史の複数並立を解明することが出来る」とのことですが、これはつまり先の文の前提部分を幾分か精緻に追認しただけのような気がします。

しかしそれだけでは「何を言っても無駄だ」という結論の否定にならないところが、ちょっとどうも「論争から従来よりも多くを学ぶ」ことに資するものであるかという点で非常に心配なところであります。これはもしかして全く無駄な文章なのではないか。

もっとも、多田羅さんがこの例において「両論を相対的に捉え」ているかどうかは保証の限りではありません。吉見さんの「関心」については、多田羅さんはこのように述べています。

 吉見は、日本の戦争責任と戦後補償の追求について強い関心を持っていると考えられる。吉見は「日本の戦争責任史料センター」の代表である。同団体は日本の「戦争責任・戦後補償の課題について正面から研究する」団体であり、活動内容として「戦争犯罪・戦争責任について……調査研究をもとにそれらの問題の解決を目指す取組みを継続して行っている」と自称している。
 吉見が客観的歴史と認識している歴史像は、この関心に相関して立ち現れた現象を構造化したものと考えればうまく説明できる。戦争責任の追及に寄せられた関心が悪辣・悪質な慰安婦像を、日本政府の戦後補償に関する取組みに寄せる関心が日本の官憲の責任を示す歴史像を、それぞれ客観的な歴史として構造化しうる現象が立ち現れている可能性があるといえる。


「自称している」んだそうです。これはまたずいぶんと「相対的」な表現ですが、そういう「自称」している吉見さんが、ある歴史像を客観的な歴史像「として」構造化しているんじゃないか、と多田羅さんは言います。一方の秦さんは

 秦の関心については、簡単には判断し難い。まず、戦争責任の追及について吉見ほど強い関心を持っていないことは確かであろう。また、「国民のアイデンティティ」に強い関心を持っているとも推測し難い。秦は「新しい歴史教科書を作る会」の主要な会員としてしばしば共同で論陣を張っているので、同会と同一視されることもある。しかし実際には、彼は当会発足時にこそ賛同人に名義を連ねたものの、同会の会員にはならず、あくまでも距離をおいている。また、第二次南京事件又は南京大虐殺に関する研究では中間説をとっており、右左両派のような政治的関心があるとも見なし難い。ただ、軍事史を主な研究対象の一つとしている点から、軍事についてある程度の関心を寄せているであろうことは推測可能だ。この関心が、第二次大戦期における諸国の軍隊の運営上の都合について若干理解を示す形の客観的な歴史像を構造化しうる現象が立ち現れている、と推測することは不可能ではないだろう。


要するに秦さんは吉見さんと「関心」を共有しない一方では「国民のアイデンティティ」なるものへの「関心」もなさそうで、「新しい歴史教科書を作る会」とも距離があり、政治的関心もない、そこで客観的な歴史像「を」構造化しているんじゃないか、と多田羅さんは言うのです。

多田羅さんにおいては吉見さんの明らかな「関心」と秦さんのあいまいな「関心」が鮮やかに対比されています。そしておそらくは図らずも秦さんの方が「客観的」であるという、ひとつの判断を示しています。ここまで来ると「両論を理解しようと試みている自分」がどこに存在するのかよく分からなくなってきます。むしろどうみても一方に「肩入れ」しているようなのであって、「自分とかけ離れた関心によって書かれた客観的歴史(と、書いた歴史家には認識されている歴史像)を安易に「歴史の歪曲」と退けず、何らかの新たな知見を見いだ競るようになる可能性」は限りなく低いと言わざるを得ません。

ちなみに「両論を理解しようと試みている自分」というのは、「関心相関的観点」によって「両論を理解しようと試みている自分の関心を対象化することが可能になる」というところから取ってきたんですが、確かに多田羅さんの「関心」はかなり明らかに、すくなくとも読者にとっては「対象化」されているようです。もっともだからといって多田羅さんのためにはなるかも知れませんが、それが一体何の役に立っているのか。

思うに、多田羅さんの議論は「両論を相対的に捉え」る場を開いています。つまりある種の「歴史像」は、せめて「相対的」に扱ってもらうシーンを必要としており、その理由は実証的なエビデンスがちょっと苦しいとか、なんかそういうことかも知れませんが、従来の歴史学の観点からして「弱点」のある「歴史像」を、多田羅さんは救出しようとしているのだと言えるのかも知れません。ちなみに「構造構成主義の理路において、客観性という言葉の意味は“外部実在近似性”から“相互了解可能性”へと変化する」んだそうです。多田羅さんの“相互”がどのへんにあるのか、これはアパの懸賞に応募したところで明白であって、どうもその辺の連中と“相互”に“了解”するつもりらしいのですから、若い身空で何が悲しゅてか知りませんが、まあせいぜい頑張って欲しいものであります。

ところで「構造構成主義」って何ですか?アパグループに「構造」だの「構築」だの「構成」だの言われたくないやね。よく分かんないのですが多田羅さんみたいなことを言うのでしょうか。なるほどアパらしい「構成」になっているようで。そういえば「構造主義」とか「構造主義生物学」というものがあって、僕も昔は柴谷篤弘さんの「構造主義生物学原論」ってのを読んだんですが、柴谷さんは「もしかりに、自然科学者にも、科学的関心以前の“原決定”といったものがあるとすれば、わたしのそれはアナーキズムであったのであり、そこから必然的に構造主義へと行きついたのかもしれない」なんて言ってましたね。人生いろいろ、なんですか。


posted by 珍風 at 22:53| Comment(4) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私もググッてみましたよ。高校時代は演劇部所属のようで、その果てしない想像力を活用して役者の道へ進めば大成したかもしれないと、他人事ながら残念に思う次第であります。

しかし名前一発で経歴が出ちゃうインターネットというのは、いったい何様のつもりだ! お高くとまりやがって! 高校、大学と「紙台帳」世代の私には無関係ですが、生まれた子供に源氏名みたいな珍妙な名前をつけるのはIT時代において意外なリスクが伴うような気がします。
Posted by やきとり at 2008年11月19日 12:43
まあ、多田羅さんの場合は苗字の方がね、ちょっと珍しいかな。でもこの苗字に「た」のつく名前ですから、ちょっとくどくなるんで、そういうのを避けようとする人も多いかも知れません。

名前なんてものはついてりゃ良いんで、いろいろとトレースされることを考えると平凡な名前をつけておいた方が安全でしょうね。僕も「紙台帳」世代ですけど、昔の同人誌って平気で自宅住所を載せてたりするからなあ。

ところで多田羅さんって「想像力」はあんまり感じられませんし、ルックスはそれこそググってもらえば明らかなとおりですから、役者としてはどうなんでしょ。「現代のエスプリ」の論文も込み入っているワリには面白くない冗談のようで、芸人としても如何かと。アーパー方面に行っちゃったのも無理もないような気もします。そうする他にどうしようもなかったんじゃないですかね。
Posted by 珍風 at 2008年11月19日 21:06
初めまして。
大変素晴らしい考察に感服しました。
こちらのエントリを紹介させていただき、トラックバックもさせていただきました。
われらがニューヒーロー・多田羅クンをもり立てていきましょう!

今後ともよろしくお願いいたします(^-^)
Posted by 留守番 at 2008年12月08日 21:23
留守番様初めまして。こちらこそ宜しくお願い申し上げます。

過分のお褒めにあずかり光栄ですが、じっさいのところいい加減な事ばっか書いてますんであまり見習わないで下さいな。

僕もパオロ・マッツァリーノとか落語は面白いので好きですが、そこへいくてえと多田羅さんとか上田さんなんざ「つまらない」「小難しい」「そのくせ無内容」で一つもためにならないどころか無駄な時間を取られたような気がして読んだ後で無性に腹が立つという、落語とは正反対の芸風の持ち主なんですから、フクダカズヤを襲名するにはより一層精進してあと3回くらい生まれ変わらないといけません。だいたい「あの」アパグループの懸賞に応募するあたりがなんとも愚劣なんで、僕も応援のしがいがあるというものです。
Posted by 珍風 at 2008年12月09日 11:28
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目指せ未来の「フクダカズヤ(笑)」!
Excerpt: 今日から単行本が発売されるし、明治記念館で授賞式およびパーティがいま行なわれているはずなので、いままでは一民間人(大学生)のことを書いてもなあ、と思って躊躇があったのですが、もう取り上げてもいいでしょ..
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Tracked: 2008-12-08 18:00
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