2009年04月19日

司法の他殺

そこで例えば最近とんと報道されない例の中勝美さんの件、今年2番目の強引な逮捕といわれた舞鶴高1殺害事件ですが、あれなどは裁判員制度を回避するのが目的であるという見解があったわけですが、本当にそうなのかどうか。

このような見方によれば検察の顔を立ててとにかく有罪にしてしまう職業裁判官に対して、素人裁判員は弱い証拠には厳格な判断を行って無罪にする可能性が高い、ということになるのですが、もしそうだとすれば日本国民はマスゴミの予断と偏見に満ちた報道に日々接しながらも、推定無罪原則やら何やらを「常識」的に理解していると仮定されるということになるでしょう。

この仮定がどうもちょっと大変にアヤシイもんであるということは、去年の三浦「元社長」の件で図らずも明らかになってしまっているような気もします。三浦さんが再び逮捕されるや否や喜んで彼を犯人扱いし始めた様は、ほとんど裁判を必要としていません。マスゴミでは相変わらず「被逮捕者=犯人」なのです。

そこでTVばっかり見ていて尻尾の生えている人たちのために、裁判員法では裁判員の人に大切なことを説明しなければならないことになっています。すなわち裁判員の参加する刑事裁判に関する法律の第39条において「裁判長は、裁判員及び補充裁判員に対し、最高裁判所規則で定めるところにより、裁判員及び補充裁判員の権限、義務その他必要な事項を説明するものとする。」とされているところであります。

これによって最高裁判所は、ここにいう「説明」のための最高裁判所規則を定めなければならないのですが、現時点においてこの「規則」なるものは公開されていません。一体全体何をどう「説明」するつもりなのか大変に気になるところです。少なくとも被告人=犯人「ではない」ということくらいは「説明」しとかないと、評議の席上裁判員が「犯人は…」とか言い出してその度に裁判官が「あ、被告人、ね。そこんとこヨロシク」とか言わないといけない。

この点について現在公開されている資料は最高裁判所刑事規則制定諮問委員会の議事録及び諸資料であり、その中で2007年5月23日に開催された分がそれに該当します。すなわちこの日の参考資料2「裁判員法39条の説明の基本的考え方」ならびに参考資料3「39条の説明例」です。

「裁判員法39条の説明の基本的考え方」によれば

権利・義務のほか,刑事裁判の流れに沿いながら,証拠裁判主義,立証責任の所在及び立証の程度について概括的に説明する。刑事裁判の主要な原則としては,まず,今まで接してきた裁判外の情報等を排除して審理に臨んでもらうために証拠裁判主義は理解してもらっておくことが不可欠である。また,検察官・弁護人の双方の主張立証の位置づけの違いについて理解を得ておくために立証責任の所在についても説明しておくべきであろう。必要な立証の程度については,手続の大原則であり,また,
当事者の説明の差異による混乱をさけるべきであるから,証拠を十分に検討すべきことを説明するのと併せて,簡潔な説明をすることになろう(なお,合理的な疑いを超えた証明という用語や意義の説明は,裁判員の理解が得られにくく得策でない。)。


ということで、「説明」されるのは刑事裁判の原則として3点です。つまり「証拠裁判主義」、「立証責任の所在」、「必要な証明の程度」ということですが、推定無罪または「無罪の推定」の原則もしくは「疑わしきは被告の利益に」という利益原則については「説明」をしないことになっているようです。

何故説明しないのかというとこれは最高裁がこの原則のことをすっかり忘れているか、日本の司法ではこの原則が存在しないのかのいずれかでしょう。那須さんなどの一部の裁判官も、こういう言葉が世の中にあるってことは知っていたんですが、実際に使ってみたのはついこの間が初めてなんですよ。ついでに到来の珍味でも如何かな。

その那須さんによれば「疑わしきは被告の利益に」と共に冤罪防止に欠かすことが出来ないのが「合理的な疑いを超えた証明」なんですが、最高裁はこの言葉は知っているようです。そして知った上で、このことについては「説明」するのは「得策でない」ので説明しないことにしています。何が「得策でない」のか明らかではありませんが、議事録によれば「冒頭陳述の段階で当事者双方が「合理的な疑いを超えた証明」の意義について主張し合い,裁判員が混乱するという事態は避けるべき」だとか「必要な証明の程度を説明する際には,合理的な疑いを超えた証明という用語や意義の説明をすべきという考え方もあり得るでしょうが,必要な証明の程度は,「合理的な疑い」という用語を使わなくとも説明できるでしょうし,仮に用語を用いても裁判員が適切に理解することは容易とは考えられません。」という発言があります。

要するに裁判員はバカだからそんな難しいことは分らない、ということのようです。たしかに裁判員の中にはバカが、しかも相当多数のバカが加わっているであろうことは容易に想像できますが、刑事裁判における重要な点について一定の理解もしていないような連中に裁判をさせるという点について一定の疑念もいだかないような連中もそれに輪をかけたバカであると推定されます。あるいは最高裁においても、常日頃から「合理的な疑いを超えた証明」などということは最初から無視して裁判をやっているから別に構わん、ということなのかも知れません。

少なくとも裁判員が「混乱」するのを心配する以上に最高裁が「混乱」しているのは確かでしょう。この会議の当時では、最高裁はこの点についてはっきりした判断を示していなかったのです。判例によれば2007年の10月16日最高裁第一小法廷の判決においてこの判断が示されています。それによれば

1 有罪認定に必要とされる立証の程度としての「合理的な疑いを差し挟む余地がない」というのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らしてその疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には有罪認定を可能とする趣旨である。
2 有罪認定に必要とされる立証の程度としての「合理的な疑いを差し挟む余地がない」の意義は,直接証拠によって事実認定をすべき場合と情況証拠によって事実認定をすべき場合とで異ならない。

平成19(あ)398


これを要するに「合理的」というのは「健全な社会常識」なんだそうです。最高裁としてはかなり大胆な解釈を示したものと思われます。なぜならこれは通常の、「健全な社会常識」による「合理的」という語の用法から大きく逸脱していると思われるからです。

正四位松村明さんが「健全な社会常識」の持ち主であるかどうか知りませんが、仮にそのように想定するとすれば『大辞林』によると「合理的」とは

(1)論理にかなっているさま。因習や迷信にとらわれないさま。「―な考え方」
(2)目的に合っていて無駄のないさま。「―な作業手順」

であります。すなわち(1)の意味によれば「合理的」とは「論理にかなっているさま」ですが、「因習や迷信にとらわれない」で「論理」のみにかなっていることが「合理的」ということになります。わざわざ「因習や迷信」を排除するように特に注意をしておるところです。ところで今日の「健全な社会常識」が明日には「因習」となり明後日には「迷信」となることは特に珍しいことではありません。それどころか「因習や迷信」が「社会常識」を僭称することも稀ではありませんから、「社会常識」は「合理的」から排除されるべきでしょう。仮に「健全な」という語に「合理的」の含意があれば別ですが、その場合は同義反復でしかありませんし、そもそも「健全」に「合理的」の意味はありません。

なるほどこれでは「裁判員が適切に理解することは容易とは考えられません」。てゆうかほとんど理解不可能です。ほとんど白を黒と言いくるめるような話しですから、日本の司法の現実は絶望的です。御殿場のお転婆もこれなら安心です。しかしながらこの最高裁判決自体、先述の最高裁判所刑事規則制定諮問委員会参考資料3「39条の説明例」に準拠している疑いが濃厚です。

ただ 裁判では 不確かなことで人を処罰することは許されませんから証拠を検討した結果,常識に従って判断し,被告人が起訴状に書かれている罪を犯したことは間違いないと考えられる場合に,有罪とすることになります。逆に,常識に従って判断し,有罪とすることについて疑問があるときは,無罪としなければなりません。


ここでは2回も「常識」が登場しますが、もはや「論理」などはお呼びではありません。実際には「証拠」も味のある脇役程度の位置に降格されています。一応証拠は「検討」するのですが、「判断」は証拠に基づいて論理的に行われるのではなく、「常識に従って」行うべきことが「説明」されるのです。例えば「強姦」の被害は他人に言いにくいものであるというのが「常識」ですから、被害の届け出があった以上はそれは本当にあったと思うのが「常識に従った」判断ですし、ワル連中は悪いことをしているのが「常識」なので連中は有罪であるというのが「常識に従った」判断です。日付や天気は別に関係ないじゃん。

同様に以前から砒素を使っている人はカレーにも砒素を入れたというのが「常識」です。目的には不釣り合いに入れ過ぎているとかいうのは「常識」の範囲に入りませんし、詐欺に使うべき砒素を無駄に遣ってしまうのは非「合理的」だというのも「常識」の範囲外です。「常識」によれば砒素というのは林家の特産品であり、「どーもすいません」同様に誰でも使っていいものではないのです。仮に林さんの近所では多くの家庭で殺虫剤として砒素を庭にまいたりしていたとしてもです。

実際、「常識」というのは「何だか知らないけどそんな感じがする」ことの根拠になり得ます。そしてそれはもしかすると「今まで接してきた裁判外の情報等」を意識から排除しようとしても排除しきれない思い込みのようなものです。逆に言えば、論理を軽視して「常識」を導入した裁判は「今まで接してきた裁判外の情報等」に支配されることになるでしょう。

こういうのが「司法の自殺」だというのは軽々しい考えです。司法なんていくらでも自殺してもらって構わないのですが、どうせ「自殺」したって「司法」がなくなるわけじゃありません。僕が自殺するとこのブログは更新されなくなりますが、司法は自殺しても裁判は相変わらす行われるのです。そして司法は他人を死刑に出来るのですから、いい加減な「常識」に基づいた裁判は「他殺」に他なりません。

しかしながら僕は『大辞林』をもっとよく読むべきだったかもしれません。「合理的」の2つ目の意味は「目的に合っていて無駄のないさま」です。これは目的合理性ということであって、「目的」に合っていればそれは「合理的」なのです。そこで刑事裁判の「目的」とは何か。「健全な社会常識」によればそれは刑事事件における真実の解明であり、そしてそれは表向きの「目的」であって、本当は「ワルい奴を懲らしめる」のが「目的」です。「常識」はここまでカヴァーするのですが、要するに有罪判決こそ「目的」なのであれば、「抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らしてその疑い」が有罪判決という目的に資するものではないと考えられる場合は「有罪認定を可能とする」というワケです。

まあ、いずれにしても裁判員の皆さんの負担は軽くなります。起訴されたものは有罪にしていれば良いのですから、それで難しい大学を出て難しい試験を受かった職業裁判官と全く同じ仕事ができます。これは学歴による偏見を一掃するのではないでしょうか。難関中の難関をくぐり抜けて来た人がやっている仕事は、実はどんなバカにでも出来ることだったのです。もうこれからは私大出身者も三馬鹿商科出身者も高卒も中卒も小学校中退も東大法科の連中と同等だよ。右から左に受け流しましょう。あの人どこ行ったんだろ。あの芸人自身が右から左に受け流されてしまいましたが、まあ考えてみればいてもいなくても同じようなもんで、裁判員だってそんなもんですが、形を整えるために人数だけは必要です。そこで「説明」においては、特に「注意事項」として「出席義務」について念を押すことになっています。

裁判は,皆さん全員が揃わないと行うことができません 。もし,病気などやむを得ない事情で裁判所にお越しいただけなくなった場合には,ご連絡をいただきたいと思います。
また,評議で誰が何を言ったかといった評議の内容は秘密にして下さい 。評議の秘密が漏れることになりますと,率直に意見を交換することが難しくなります。評議の秘密が漏れないようにすることは,皆さんのプライバシーや安全を保護することにもなります。また,記録に出てくる事件関係者のプライバシー情報も漏らさないようにして下さい。


裁判員の皆さんはただそこにいて、ヒミツを守るのが大切です。あとはテキトーに「常識」で処理してしまって構いません。必ず出席することと、そこで行われているとても他人の耳には入れられないようなことを他人の耳に入れないことだけが重要なのです。なにしろ中さんや林さんのような事例は今後もあることですから、今度だけ回避しても仕方がありません。不都合なことは回避できるように、みんなで検察に協力して早く終わらせて早く帰りましょう。無実の人が殺されたって関係ありません。しかし無闇に無罪判決など出して検察に睨まれたらどうなるでしょう。日頃から検察のやることに注意していればそんなオソロシイことは出来ないはずですよね。死にますよ。


posted by 珍風 at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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