2009年06月07日

32万人の殺意無き殺人者と恐怖の殺人裁判員

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足利事件と同じDNA鑑定、92年の飯塚事件も再審請求へ

 1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された「飯塚事件」で死刑判決が確定し、昨年10月に刑が執行された久間三千年(くまみちとし)元死刑囚の弁護団が、今秋以降にも福岡地裁に再審請求する方針であることが5日わかった。
 久間元死刑囚は無罪を主張していたが、最高裁は2006年9月、DNA鑑定の信用性を認めた。弁護団は「足利事件」と同じDNA鑑定法だったこともあり、鑑定の不備を柱に再審を求めるとしている。ただ、当時の試料は残っておらず、DNAの再鑑定はできないという。
 久間元死刑囚は92年2月、小学1年の女児2人(いずれも当時7歳)を車で連れ去り、殺害して山中に遺棄した疑いで94年9月に逮捕された。遺体周辺から採取された血痕のDNA鑑定が一致したことが逮捕につながった。
 飯塚事件の鑑定法は足利事件と同じく、DNAの配列の一部だけを目で見るなどして調べる「MCT118型検査法」を採用。弁護側は「鑑定は不正確」として無罪を主張したが、最高裁は鑑定結果の信用性を認めた。

2009年6月6日 読売新聞


冤罪事件では摩訶不思議なことが次々に起こるものです。特に証拠物件の動きは正にイリュージョン、華麗なワザで度肝を抜き、おなじみのインチキまがいでクラクラさせるのが警察のお家芸です。証拠物件は忽然と現れ、いつの間にか消え去って跡形もありません。どんでん返しと目くらまし、遺族と心理学者の乱痴気騒ぎ

飯塚事件、再審請求へ  DNA新証拠提出目指す

 福岡県飯塚市で1992年、女児2人が殺害された「飯塚事件」で死刑が確定、昨年10月に執行された久間三千年元死刑囚=当時(70)=の遺族が今秋にも再審請求(死後再審)する方針を固めたことが5日、弁護団への取材で分かった。弁護団は菅家利和さん(62)の再審無罪が確定的となった足利事件と同様、DNA型鑑定をめぐる新証拠の提出を目指す。
 弁護団によると、飯塚事件は足利事件とほぼ同時期に、同じ「MCT118」という検査法で、DNA型鑑定が実施された。被害者の遺体に付いた血液と元死刑囚のDNA型が一致したとされ、確定判決の根拠の一つとなっている。
 血液は残っておらず、足利事件のようにDNA型を再鑑定することはできない。ただ血液から抽出された犯人のものとされるDNA型はMCT118の「16−26」タイプで、元死刑囚の遺族のDNA型と比較するなどして誤りを見つける。
 「16−26」タイプは足利事件の旧鑑定で、被害者の衣服に残った体液や菅家さんのDNA型とされたが、再鑑定では異なる結果となった。
 確定判決によると、元死刑囚は92年2月、飯塚市内の路上で小学1年の女児2人を車に乗せて誘拐し、首を絞めて殺害するなどした。94年の逮捕以降、一貫して無実を訴えていた。

2009年6月5日 共同


えーっと、「MCT118」ってのはDNAの中で一定の塩基配列が繰り返して出現する箇所のひとつで、その箇所では16の塩基からなるパタンが何回か繰り返されているんだそうです。その繰り返しの回数によって幾つかの「タイプ」に分けることが出来るので、これは血液型なんかよりもっと細かく分けられるのです。それで個体識別を行うんだそうですが、このリピートの回数も親となる2個体それぞれから受け継いでいて、その各々の回数の組み合わせが「タイプ」ということになる。例えば「16−26」というのは、この繰り返しが16回と26回であって、お父さんから受け継いだのが16回だか26回だかどっちかで、お母さんから受け継いだのがそっちではない方。で、それは電気泳動させた写真を見るんだが、「目で見て」てゆうか写真の濃度のピークをコンピュータで判定したりするようですけど、草gメンバーもかなわないアナログの世界です。

つまりDNAの個体識別情報には両親に関する情報が含まれているわけで、両親はそのまた両親の情報を持っていて、仲が悪かろうが相続争いをしようが近親相姦をしようが親戚みんなで情報を共有していますから、「元死刑囚の遺族」のDNAのタイプを調べると、元死刑囚が「16−26」というタイプでありうるかどうかが分ることになります。従って警察が「もう試料がありません」と言っていても、証拠物件、てゆうか生きてる人間、てゆうか遺体の状況によっては死んでる人間も含まれますが、それは沢山あるというわけです。

久間さんの家族や親戚のDNAは、いくら警察でも隠したりなんかは出来ないようです。取調室でいじめると供述を変更させることが出来るかも知れませんが、DNAを取っ替えるのはちょっと無理でしょう。まあ、久間さんの遺族を片っ端から取っ捕まえてどんどん焼却炉に放り込んで灰にしてしまえば何とかなるかも知れません。窮鼠猫を噛むとかいいますから窮した犬が人を咬むこともあり得ない話しではありませんが、そういう事態には報道価値があるというのが古くからの教えです。

実際にこういうことが起きているのでして、つまり久間さんがさっさと殺されたのは、彼が「久間さんのDNA」という第一級の証拠品を保持しているからに他なりません。もっとも、試料がないのであれば久間さんのDNAと比較することが出来ないのですが、当時の技術レベルの問題もあって久間さんが「16−26」であるかどうかもアヤシイもんなのです。もし久間さんが「16−26」でなければ、決め手となっていた証拠の価値は喪失することになります。

本の半年前の生々しい冤罪処刑の事実は、死刑制度に関する議論に影響を及ぼす虞れがあり、てゆうか読売新聞あたりはそのような危惧を抱いているようで、6日の1面から早速「死刑 第4部」を始めたのは俊敏であります。見出しは

「極刑を」32万人署名
  闇サイト殺人
  「誰でも良かった」に不安募る

というもので、これは例の磯谷さんちの署名のことですが、6月5日現在で署名が321,379人になったんだそうです。なったって構わないようなものですが、この記事は1面トップでは飽き足らず社会面のセンターにまで続きます。社会面の方の見出しは

「社会守る…「やむなし」
  オウム弁護人、保護司ら「極刑を」
    闇サイト事件署名32万人

そういうわけで記事全体としては抑止効果論に依拠しているようなのですが、しかし、「不安」はあまり強調されていません。確かに1面に掲載されている書面に添付された2件のコメントは「ひょっとしたら自分が殺されていたかもしれない」とか「娘が毎日帰宅するまで、気がかりでなりません」などと、それなりに不安がっているようでもあります。もっともこういう「不安」は、事件が起きれば誰でもちょっとは感じるもので、そのときその場の気分のようなものでしょう。こういう気分がそのまま長期間強く続くようだと逆に問題です。ちょっと病院へ行ってお薬もらって来た方がいいかも知んない。

一方、社会面には署名した人のうち弁護士や保護司、そして裁判員候補者の主婦が登場しますが、このように多少なりとも「顔」の見える人たちは、自分の身がアブナイとかそういう切迫した「不安」というものをあまり感じていないようです。その場の気分で署名してしまった人たちとは違って、この人たちはもうちょっと聞ける「言葉」があるようです。そしてそれは読売新聞としては「社会を守るためには死刑判決が必要だ」ということのようです。

例えば弁護士さんは「闇サイト事件で死刑判決が下されなければ、女性が夜道を歩くことが命がけになってしまう」と言っています。次いで保護司さんは「ためらいもなく人を殺害するような行為には、死刑という相応の罰があることを、裁判所が示す必要があると思った」と思ったそうです。そして裁判員候補者の40歳代主婦は「社会のために危険の芽を摘む意味で、私が死刑を求めてもいいのではないか」と言ったのかどうかよく分かりません。この分は主婦が語ったとされる「」で括られた文に続く地の文なのです。まあ確かにオバサンのまとまりのない話しを簡潔にするためにそういう書き方をする場合もあるでしょう。

いずれにしてもこの「取材」記事は巧みに構成されていると評することが出来るでしょう。始めに弁護士さんが「他人の不安」を心配してみせ、次いで保護司さんがその心配に答えて、大丈夫日ノ本には死刑というものがある、裁判所はそのことを世間に示すべきだと言います。そして最後にその「裁判所」に「半ば属する」裁判員候補者が、「社会のために」死刑判決を出そうという決意を表明するのです。

要するに話しはここまでなのです。読売新聞によれば死刑というのは裁判で死刑判決を下すことに他なりません。本当はもっと先に色々あると思うんですが、そういうことは気にしなくて良いようです。国民は判決のところまで関わっていればよろしい。実際に確定死刑囚には極めて限られた人しか面会出来ませんし、刑の執行は役人だけが立ち会って秘密裏に行われ、後から発表されます。それはほとんど無いのと一緒です。あたかも死刑などは存在しないかのようなのです。

しかし存在しないわけでもないらしいのですが、そんなことはあまり関係ありません。要するに確定死刑囚は「どっか」に行っちゃうわけです。実はここだけの話し、そいつは殺されちゃうんですし、それは国民みんなで殺しているんですが。署名をしたり、裁判員となって死刑判決を出せばいっそう積極的に殺していることになります。さすがに「誰でも良い」わけでもなさそうですが、無実の人も殺されていますから、実際には犯人という名目で殺すことが出来れば「誰でも良い」ようです。

しかし上品で清潔なファミリー向けの読売新聞ではリアルな殺害シーンをカットします。映画とかでは、例えばホテルの部屋でキスするところで止めても、その後でオマンコをなさっていることは分ります。どうせ誰がやっても同じようなものになるのでいちいち撮影しなくても良いのです。しかし読売新聞では、もっと前で切っちゃいます。2人で食事をしているあたり、いやメニューを見て注文したあたりで切っています。これではとてもその後にオマンコがあるとは想像し難い。飯を食ってるくらいでそういう関係を疑うようだと逆に問題です。ちょっと病院へ行ってお薬もらって来た方がいいかも知んない。

まあ、判決だけで執行はしない、という手もありえます。実際に冤罪ぽい人については、はっきりとそういう扱いになっていたし、ある時まではそれに近い状態だったようです。ところがある時点から積極的に執行し、それに見合うかのように判決もどんどん出すようになりました。そのタイミングは「世論調査」で死刑容認が「8割」という数字が出るよりも前です。「世論」は後付けであって、「国民の支持」などは無関係にそうなったのです。「世論」は操作された、というよりはむしろ引っ張られました。引っ張られることが可能だったのは「不安」によりますが、それは「犯罪に対する不安」ではありません。

「不安」感は不安だけにフワフワしていますから、そこに何かを持ってくればその型にはまります。不安感に形式を与えるのが「政治」で、そこは競争です。そして「犯罪」の型を持って来た方が勝ったのです。いろいろ考えると麻原彰晃さんほど「社会のため」に貢献した人はいません。もうちょっと丁寧に扱ってはどうか。例えば風俗営業だと今や従業員は本籍を記載した身分証明書を提出しなければならないんですが、それはオウム事件直後にそのような営業所に軒並み警察の調べが入ったことによります。書類を出させてみるとオウムはともかく年齢をサバ読んでる奴の多いことったらありません。そんなわけで今や得体の知れないオジサンやオバサンは明らかにアヤシイ店以外にはいないわけです。「社会のため」ですね。

しかし「犯罪への不安」に流し込まれた不安感は急激に悪化した経済生活および将来におけるその見込みへの不安を中に含んでいますから、自らが犯罪者となる不安というものがその中にはあるのです。そしてそれは要するに「自分が人を殺す」ことへの不安です。「死刑」を問題にするときに、それが誰かを殺すことに他ならないことを直視させると、この「不安」に触ってしまいます。したがって国家権力の「判決」を支持したり、制度としての「死刑」を支持したり、権力の一部に参加させてもらったりする「気持ちの良い」ところだけを強調しなければなりません。

しかし権力は国民の「支持」によって動くわけではなく、必要に応じて「支持」を動員しますし、たまたま裁判員となって権力に参画したように見えても、そこではもはや自分というものはありません。裁判員の守秘義務は個人としてのあなたと裁判員としてのあなたを切り離します。強制的に徴用された裁判員としての部分を死ぬまで隠し通さなければならないのです。それはあなたの一部ではなく、国家のものになったからです。

さっきの記事に出て来た主婦さんは、記事の「」の部分では、「裁判員として死刑を選択することを想像したら、死刑がとても重い意味を持つものとして自分に迫って来た」と言います。ちなみにこれは彼女が近所の署名を集め始めた後の話しです。困ったことに死刑を軽く考えていた当時から署名を集め始めていたようなのですが、記事によれば彼女は

「子供たちに安心な社会を残したい」とも思った。


そうです。「とも」という表現の含蓄を深く味わうべきでしょう。この直前に、先に引用した「社会のために危険の芽を摘む意味で、私が死刑を求めてもいいのではないか」が書いてあります。これは「子供たちに安心な社会を残したい」と矛盾しません。したがってここで「とも思った」という表現はおかしいのです。「とも」で受ける文言は、それ以前の文言と矛盾していることが必要なのです。しかし、ここで「とも」で受けられている「」とじのセリフの直前におかれたのは、彼女の言ったことをまとめた「と想定される」地の文に過ぎません。

したがってこの「とも」の「含蓄」とは、彼女の「複雑な心境」のようなものです。軽い気持ちで署名を集めていた主婦が裁判員として自ら判決を出せる可能性が出て来たところで、彼女は一挙に複雑化してしまったのです。まあ一般に「複雑な心境」というのはアンビバレンツのことを言いますが、そういうことです。誰か裁判官が「死刑判決」を出すのは構わない。しかし自分が殺害を指示するというのはどんなもんだろう?

裁判官が出す「死刑判決」に国民としての参与意識が無い点において彼女を批判するのは簡単ですが、これは普通のことです。国民は国家のやることに責任を感じていません。形式としては「そういうことになっている」としても、国家の行動は国民の意思とは無関係です。そこで裁判員候補者になると、ある程度の心理的地震が発生します。心の中で力関係が変動して揺れるのです。国家による殺人を軽く認めていた自分が国家として殺人を行わなければならなくなったのです。この「揺れ」のマグニチュードが「とも」です。読売新聞のプロパガンダは、この「とも」をいかに回収するかにかかっているのです。

ちなみに、署名を集めて回っていたので近所でも有名な彼女が裁判員候補者に選ばれたのは、単なる偶然、でしょう。それは全くランダムに行われます。偶然だよ偶然。そう思うべきであり、実際にそうなのであり、そうでしかあり得ません。


posted by 珍風 at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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