2009年06月19日

だから脳は死んでるんだって

臓器移植法改正案:衆院可決 一歩前進、時期尚早 一人でも多くの子救って

 ◇提供側の苦悩知って
 臓器移植法改正案A案が18日衆院で可決され、現行では禁止されている15歳未満からの臓器提供へ向けて進み始めた。移植を待つ子を抱える家族や支援グループは「参院でも可決して」と期待を寄せるが「時期尚早」との声も出ており、A案可決は複雑な波紋を広げている。【内藤陽、金子淳、田中裕之】
 「長かったね」。NPO法人「日本移植支援協会」北海道支部長の斉野亮介さん(35)=札幌市豊平区在住=と妻の真由美さん(39)は長女朱里(あかり)ちゃんの遺影がある仏壇に手を合わせた。朱里ちゃんは生まれつき重度の心臓病などを抱えていた。国内で心肺同時移植ができないため渡米したものの「移植適応外」で移植できずに、00年2月に1歳で他界した。
 その後、道内で臓器移植のため、海外渡航した子どもは少なくともほかに2人いるといい、斉野さんは「海外渡航は本当の最後の手段。わが子を救うため、わらにもすがる気持ちです。(A案可決は)一歩前進。一人でも多くの子どもの命を助けてほしい」と期待する。
 十勝管内豊頃町出身の自衛官、山保幸己(さんぽこうき)さん(32)=横浜市在住=の長男一己(いっき)ちゃん(1)は5月23日、米カリフォルニア州の病院で心臓移植手術をした。手術費用の不足分は募金で集め、4月15日に渡米したが、手術までに時間がかかり、体力が低下したことなどから、術後の状態は安定していないという。
 豊頃町在住の祖父の登さん(57)は「国内で早く移植できれば、一己にも周りにもこんなに負担が増えることはなかった。いろいろな議論があると思うが、A案が通れば喜ばしい」と話す。
 一方「北海道交通事故被害者の会」代表の前田敏章さん(60)は「臓器の提供を受ける側の立場ばかりクローズアップされ、提供する側の苦しみが見逃されている」と批判する。
 A案では、本人が生前に拒否していない限り年齢にかかわらず家族の同意で臓器提供が可能とされるが、前田さんは「家族は、臓器提供に同意しても断っても『これで良かったのか』と悔やむ。臓器提供するか聞くこと自体が非情。もっと議論する必要がある。参院は良識の府として廃案にしてほしい」と訴えた。
 北海道大学病院で臓器移植手術を担当する古川博之教授は「子どもの臓器移植にも道を開くというが、親の同意が必要ですぐに子どもの臓器移植が進むかは難しい」と指摘する。

 ◇推進と反対、両派が会見−−東京
 脳死を人の死とする臓器移植法改正案A案が衆院で可決されたのを受け、A案の推進派、反対派がそれぞれ東京都内で記者会見した。
 「(議員が投票する)札一つずつが、子どもの命のように見えた」。拡張型心筋症のため昨年12月に1歳4カ月で亡くなった一人息子、聡太郎ちゃんの遺影を手に国会で傍聴した中沢奈美枝さん(34)は、推進派の会見でそう振り返った。「聡太郎のことと同時に、脳死になった子の親御さんの気持ちが頭に浮かんで。母として同じ気持ちだと思う」と、涙を浮かべて話した。そして「救える命を救い、どんな立場の人もきちんと医療を受けたと納得できる制度が生まれてほしい」と話した。
 「胆道閉鎖症の子どもを守る会」の竹内公一代表も「一緒に活動をしてきた仲間が、推進派と反対派に分かれてしまった。悲しくつらいが、いつか分かり合えると信じたい」と複雑な表情で語った。
 一方、反対派の会見で、東京都大田区の中村暁美さん(45)は「脳死の子は死んでいない」と体を震わせ訴えた。娘有里(ゆり)ちゃんは2歳8カ月の時、原因不明の急性脳症で「臨床的脳死」と診断された。中村さんは「亡くなるまでの1年9カ月間、温かく成長する体があり、娘を一度も死んだと思わなかった。今回の可決は心外」と怒りをあらわにした。
 「臓器移植法改悪に反対する市民ネットワーク」事務局の川見公子さんは「参議院の良識に期待し、A案が弱い人の命を奪わないよう今後も頑張りたい」と強調した。【奥野敦史、河内敏康】

 ◇脳死8年…身長伸び状態安定
 「A案が成立すると、うちの子どものような生き方が認められなくなるのではないか」。長男みづほ君(9)が「長期脳死」の女性=関東在住=は、A案の大差での可決を知り、肩を落とした。
 みづほ君は00年、1歳のとき、原因不明のけいれんをきっかけに自発呼吸が止まり、脳内の血流も確認できなくなった。旧厚生省研究班がまとめた小児脳死判定基準の5項目のうち、人工呼吸器を外して自発呼吸がないことを確かめる「無呼吸テスト」以外はすべて満たした。
 それから8年、人工呼吸器をつけて自宅で過ごし、身長は伸び体重も増えた。
 「今後も移植が必要な人は、どんどん増えるだろう。さらに臓器が足りなくなれば、死の線引きが変わり、私たちの方へ近寄ってくるかもしれない」と不安を口にする。
 みづほ君は、以前は入退院を繰り返すこともあったが、この1年間、状態は安定している。
 女性は「この子は『延命』しているのではない。こういう『生き方』をしている。参院の審議と判断に期待したい」と話した。【大場あい】

2009年6月19日 毎日新聞


みずほ君の場合は大脳の機能は停止していると見られますが、脳幹は生きているようですから「植物状態」であって「脳死」ではないような気がします。改正案が成立したからといってイキナリ「心臓抜き」を持った白衣の人たちの一団がやって来て泣き叫ぶ家族の抗議を尻目に何でも必要なものを、血まみれの「部品」を引きずり出して持って行くというわけではないのですが、ここんちのお母さんが「私たちの方へ近寄ってくるかもしれない」と心配しているのは、臓器移植というものが置かれている状況をよく表現しているといえるでしょう。

臓器移植はそれを必要とする患者と臓器を「提供」しようとするドナーとの「意志の一致」というような美しい物語を必要としています。もっとも「物語」だからといって別段「ウソ」というわけではありません。それはいわゆるひとつの「理想」のようなものです。しかし実際には臓器移植には「美しい物語」の背後に、脳死状態に陥るリスクと移植医療にアクセスする可能性に関する経済的な問題があります。どうもやはり金持ちがビンボー人の臓器を取り上げて来ることになるようです。保険適用でも自己負担額は月当たり10〜20万だとされています(2007年3月2日  読売新聞)が、月に20万も支払って、そのうえご飯を食べられる人はそんなに沢山いるわけではありません。「健康を得ること、生存することは憲法で保障された権利であり、何人もこれを侵すことはできない。したがって、そのための治療を選択・希望することは個人の自由に属し、尊重されるべきである。」(臓器移植批判に対する反論集http://www.medi-net.or.jp/tcnet/tc_4/qa.html)のは確かですが、そういう気の効いたことをヌカすのは全ての医療が無償で提供されるようになってからでも遅くはないようです。

しかしながら現状ではドナー本人の意思表示が必要とされていることによってこの「物語」はかろうじて維持されているかのようです。問題はこれによって臓器が足りないこと、そしてそもそも「意志」の主体と見なすことが困難とされている年少者の臓器が全く手に入らないことです。改正案はこの問題をずいぶんと思い切った仕方でクリアしてしまおうというもののようですが、それにしては「思い切り」が足りないようで、それがまた新たな問題を引き起こそうとしているようです。

例えば本人の拒否がない限り家族の同意によって移植が可能ですが、古川教授は家族の同意が得られないことを心配していますし、逆に家族の方ではそんな判断を迫ることが「非情」だと訴えます。このような状況で考えられるのは、移植医療に熱心な医師のいる病院では家族に相当な圧力がかかるのではないか、そして逆にあまり移植に関心のない病院の場合は「家族の同意」の確認など最初から行わない、という極分化した対応が行われる可能性です。甚だしい場合は「臓器を取られる」覚悟でないと特定の病院にはかかれない、ということにもなって来るでしょう。

ここで「割り切って」しまって、脳死の場合は誰にも断らずにどんどん臓器を引っこ抜いて使って構わない、ということにすると医療従事者の負担が減りますし、家族に心理的葛藤を経験させずに済みます。しかしながらそんなことをすると家族からの抗議がなされる場合が当然想定されますし、異議申し立てを織り込んだ制度設計なんてしないものです。

この異議申し立ての可能性は移植医療に関する経済的不均衡が解決されることによってある程度減るものと考えられますが、全くなくなるものとは考えられません。これは要するに「生死観」に関わる問題なんでしょうが、何よりも「身体観」の問題であるようです。中村さんちの有里ちゃんは「亡くなるまでの1年9カ月間、温かく成長する体があり、娘を一度も死んだと思わなかった」そうです。脳死においても身体的統合は保たれているのですが、そういうものを人は「死んだ」とは考えにくいものなのです。

もちろんこのような場合、「有里ちゃん」は何も感じず、なにも考えず、夢見ることもないわけですから人格的統合としては既に失われてしまっているのですが、身体はそこに存在し、体温があってあまつさえ成長さえするのです。それは「有里ちゃん」ではなくなっているかも知れませんが、「有里ちゃん」の「格好をした」ものであることは間違いありません。それを「有里ちゃん」ではないと思え、というのは難しい相談です。おそらくこれは回復可能性とは無関係です。

というのも人間は「人間の格好をしたもの」と関係しているからでしょう。「人間関係」とは「人型の対象」との関係に他なりません。つまり別段「割り切ら」なくても、それは「カラダの関係」なのです。例えばヘンな話、人を射殺する練習をするのには丸い標的ではダメで、人型の、近年では等身大の写真を使わなくてはなりません。いくら的に弾を当てる練習をしていても、「人型の対象」が目の前に出て来ると撃てなくなるものなのです。標的だろうが写真だろうが人間は「人型の対象」に共感するようなことになっているようです。

したがって家族が「死」を受容するには、意識や人格よりも身体の生命徴候の消失が重要です。もっと言えば身体的統合の崩壊、てゆうか崩壊しちゃうと色々と問題が出て来ますからその徴候くらいで良いでしょうが、その段階が必要とされます。まあ要するに心電図をモニターしてるとわかるわけだ。徐々に弱くなって、突然数回続けて早い心拍があって、次いで完全に止まるとかそういう心臓死の過程を目にすると、だいぶ納得がいくものです。脳死の場合はそういうプロセスがないので何だか死んだような気がしないわけで、そこから臓器を取り出すとなると、そのせいで「死んだ」ような気がする人もいるでしょう。

移植に関わる問題は臓器の血液循環なんで、心臓死してしまったら使えなくなるわけですが、心臓死しなければ家族が納得しないとすれば、一度心臓死させてしまい、直ちに人工心臓装置につないで強制的に循環を回復して臓器を維持するようなことも考えられるような気もしますが。3分くらいでやんなきゃダメなんだっけ?ちょっと無理なようだ。そうだとすれば移植を前提とした医師と患者家族との協議の中で脳死をもって個体の死として扱うことについて納得してもらうしかないでしょう。「法律でそうなってるから」というようなことでは「同意」は得られないでしょうから、実際にはそうするしかないのではないか。そういう交渉をする機会が増えることにはなりますが、この改正案が通ったからといって移植用臓器の供給が爆発的に改善される見込みはありません。どっちにしろこっちには回ってこないからいいけどさ。こんなんでよければ心臓くらい持ってけば。ついでに脳もどうだ。ちったあマシになるかもよ。


posted by 珍風 at 22:28| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつも拝見しております。初めてコメントさしあげます。
脳幹も含む全脳死での長期生存の例は、アラン・シューモンの論文をはじめいくらでもありますから、一度お読みになってみてはいかがでしょうか。同様に植物状態とは異なる長期脳死という様相についてもお調べになられた方がよいかと思われます。
Posted by アスカタスナ at 2009年06月20日 16:21
みずほ君の場合は「小児脳死判定基準の5項目のうち、人工呼吸器を外して自発呼吸がないことを確かめる「無呼吸テスト」以外はすべて満たした」とされていることから脳幹が機能しており「長期脳死」ではない、と解釈しましたが、世間ではこれも「脳死」に入れているのでしょうか。だとしたら「基準」とかいうのは一体なんなのか。もっとも「無呼吸テスト」はそれ自体が脳に決定的な損傷を与えるため、拒否される場合もあるようですが、いずれにしてもテストを行った結果でなければ「脳死」と呼ばれる筋合いのものではありません。

シューモンさんについては「脳死においても身体的統合は保たれている」ことを指摘したもんだと理解しています。脳が死滅しているにも関わらず身体は20年も「生き」続けていた例もあるといいます。この「意識」のない状態において、「人格」は失われているかもしれないが、ハタから見れば、つまり他人から知覚出来る身体としての存在としては「生きている」、と言うことが可能であると思います。他者にとって「体格」は「人格」の「徴候」であり、「体格」のない「人格」を「感じる」ことは出来ないのではないか。

人はその身体を慈しむことが出来ますが、ある意味でそれは生きており、ある意味ではそれは「死体」に他なりません。おそらく「人格の死」とか「身体の死」といった様々な様相の「死」がある、というよりも人は「死んでゆく」のかも知れません。時間的な幅を持った過程があるのではないか。そしてそこを通過したらもう後には戻れないという関門があるとしてそれが「脳死」と呼ばれるかも知れません。ここは厳密に定義すべきですし、おそらくそれは可能だと思います。

しかしそれを個々人が受け入れなければならない理由はありません。納得するまでそのプロセスを見守ることさえ認められるべきでしょう。たしか世界のどこかにはかつて、明らかに腐敗が始まるまで3日くらい置いておくということにしていたところもあったようです。

したがって法的に「死」をどのように定義するにしても、実際にはそれは「交渉」の行われる場所になるでしょう。現状では「交渉」が少なすぎるようです。医師が死を宣告するとそのまま火葬に至るルーチンが開始されるのですが、火葬場のカマの扉の前で蘇生の可能性に一瞬慄然とした人も多いでしょう。問題は死のプロセスのどのポイントで見送るかということで、そんなのどのポイントだっていい気分はしませんが。そこでむしろ脳死者の臓器を提供することに決めた人がどのように考えたかに興味があります。それは極めて困難なことであると考えられるのです。
Posted by 珍風 at 2009年06月20日 21:31
みずほ君の御住所ワカリマス??
Posted by 和田絵奈児 at 2010年01月30日 12:02
「脳」の「死」には様々な移行段階があるもんですな。
Posted by 珍風指揮権広報 at 2010年01月31日 11:11
失礼ですが、一家全員アトピー…は本当ですか?もし本当ならば無料にて私のつくったサプリメントを贈って差し上げます。
Posted by 和田絵奈児 at 2010年02月03日 13:26
本当です。しかしサプリメントを贈っていただくわけには参りません。届ける場所が不特定なんです。
Posted by 住所不定無色無味無臭珍風 at 2010年02月03日 18:21
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