2009年12月27日

裁判員裁判はそのうち盟神探湯を始めると思う

判決と求刑比のばらつき大 裁判員裁判、年内は18日で終了

 年内の裁判員裁判で実刑を言い渡された被告110人の判決と検察側求刑を比べると、平均79%で、従来の“相場”とされる「求刑の8掛け」だが、90%以上20人、半分以下6人と、ばらつきが大きいことが20日、共同通信の集計で分かった。一方、地裁職員が裁判員経験者の記者会見で質問に介入するなどしたケースは21件に上り、大きな課題となっている。
 年内の裁判員裁判は18日終了。同日までの集計によると、判決は50地裁(8支部含む)で計138件(被告142人、全員有罪)あり、実刑は(1)無期懲役1人(2)懲役15年以上12人(3)10年以上15年未満8人(4)5年以上10年未満72人(5)5年以上10年以下の不定期刑1人(少年被告)(6)5年未満16人。
 求刑との比較割合は、和歌山地裁の強盗殺人事件など求刑通り(100%)7人、99〜90%13人、89〜80%41人、79〜70%25人、69〜60%18人。
 また求刑の半分(50%)が5人(松山地裁の傷害致死や鳥取地裁の強盗致傷事件など)おり、求刑と最も差があったのは佐賀地裁の殺人事件の38%。最も多い割合は75%で、11人だった。

2009年12月20日 共同


平均が79%であるから、要するに「相場」に収束しているわけです。騒ぐほど「ばらつき」が存在するわけではありません。求刑と比較して89〜70%の判決は66人であり、6割が「相場」のプラスマイナス10%におさまっています。もちろん従来に比較すると「ばらつき」は大きいわけですが、それはむしろ検察の言うなりに判決を出していた裁判所がオカシイだけです。

裁判員による判決が求刑に比べて著しく低い場合、裁判員において「犯罪」に対する一定の観念を抱いており、実際に目の前に差し出された「罪」が、どうもイメージに合わないという事情があるのかも知れません。例えば「50%」の鳥取地裁判決は「強盗致傷」という怖い文字が並ぶ罪名ですが、実際には万引が見つかったので自動車で逃げようとしたらガードマンがしがみついて来て、そのまま低速で600メートルくらい走っていたらガードマンが軽傷を負った、という例です。「強盗致傷」というと刃物や銃器を持って押し入り、刺創や銃器損傷を負わせてそこらが血だらけ、という、正に「犯罪の華」と言って良いような印象がありますが、実態はこんなツマラナイものであったりするので注意が必要です。

「傷害致死」も世間で立派に通用しそうな罪名ですが、松山地裁判決の例では被告人が飲酒運転をしようとするところを止めようとしてその腕を掴んだ婆さんを振り払ったらひっくり返っちゃって、打ち所が悪くて死んでしまったものです。恥ずかしくて人前に出せないような「犯罪」、てゆーか一種の「事故」のようなものです。実際のところ障害の故意があったのかどうか極めて疑わしいのですが、暴行の故意があり、過失によって障害を負わせた場合は傷害罪を適用する事になっています。とはいえ、これはいわば微妙な領域ですから、判決において情状等を理由として減軽してもあまり不当とは思えません。

また、同じく50%のもので大阪地裁の覚せい剤取締法違反判決では、共犯のヤクザ3人と共に覚醒剤1.8kgを営利目的密輸しようとした人について、検察は「1.8kg」の密輸について4人それぞれに責任を問うという、雲助タクシーのような求刑を行ったところ、判決では被告人当人が担当した989gについてのみ問題にすることにしたもので、求刑10年と500万円に対して5年と350万円としました。この判決によって、全部で4人もいるのに半分を素人に押し付けたヤクザの卑劣さが輝きを増します。さぞ重かった事でしょう。ご苦労様でした。

もしかするとじゃんけんで負けたので一番重いやつを持つことになっただけかも知れません。ところで、求刑比「38%」の佐賀地裁判決は、60歳のお父さんが乱暴者の30歳の長男を薬で眠らせたところを掛矢で叩き殺した例です。被害者に落ち度があったということですが、家庭内や親族内での殺人の場合、被害者には多少なりとも「落ち度」があったりするものではないでしょうか。要はその「落ち度」が「客観的」に見て甚だしいものであると、その場にいた裁判員にも感じられたという事のようですが、その場にいなかった裁判員でない人の「客観的」な意見の中には、息子が息子なら親も親、遺伝か環境か知らないがこの親にしてこの子あり、いくら何でもハンマーで頭を潰すかよ、というものがあっても不思議ではありません。

その他求刑に比較して低いものでは京都地裁におけるアル中の長男(58)を絞め殺した86歳の母親について、5年の求刑に対して判決は3年執行猶予5年とした例もあります。年齢が年齢だけに実刑判決は即ち終身刑を意味する事になりそうですから仕方ないのかも知れませんが、やはりこのような例には裁判員の「同情」が集まるものとされています。確かに家庭という牢獄に閉じ込められて息もつけない、成人した子どもがやらかした事で親が糾弾されるという世の中ですから、今日は裁判員でも明日は被告人席に座っているかも知れない、というのが一般の人の感覚であろうと思われます。

これは家族の中の困り者を内部で自由に処分する事に関して、その「権利」を認めないまでも少なくとも同情的な傾向を意味します。いわば家父長の懲戒権に接近しようとしているわけですが、これは法の下の平等に反するものであり、日本の刑法でいえば削除された尊属殺人罪または尊属加重規定の反対解釈として慣例的に行なわれていた卑属軽減の復活であると言って良いでしょう。佐賀地裁判決は限りなく違憲に近いものであると言えるかも知れません。

まあ、親がそんな考えだから家庭内に諍いが絶えないんでしょうし、ついにはマイホームの居間を血の海と化すようなことにもなるでしょう。その意味で裁判員がこのような被告人に同情的であるのは全く理解可能です。しかしながら「市民」の感覚が検察もビックリの前近代的なものである点に、裁判員制度の困難が存在します。法体系が保護している権利について、一般人の「感覚」は理解する事が出来ません。「平等」とはとりわけ「弱者」や「少数者」について守られなければならないところ、少なからず「強者」であり「多数者」であることが一般的な「市民」の「感覚」とは相反するものである事は明らかなのです。そして裁判員制度の元での裁判は、攻守双方が「感覚」に訴求しようという退行的な傾向を持っています。

もっとも、判決における求刑との乖離が問題になるのはむしろ検察内部においてでしょう。特に判決が求刑の半分とか、それ以下になるようだと高等検察庁に報告しなければならず、検察ではかなり問題になるものです。このような場合にその原因として考えられるのは、要するに「感覚」のズレです。ところが現状では検察においても、専ら裁判員の「感覚」に迎合しようとしていたのであり、それがこのような乖離を生んだものであると言うことが出来るでしょう。しかしながら、検察としては形式的にも憲法に反する求刑など出来るものではありません。したがってある場合においては乖離を容認するか、裁判員にもうちょっとものを考えてもらうようにするか、どちらかしかありません。まあ、現状では、感覚に基づく判決を我慢してもらうしかないでしょう。担当検察官をあまり責めないであげて下さいね。


posted by 珍風 at 11:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この共同の記事は淡々とデータを書いている様ですが、何となく「何でもっと検察の求刑通りの量刑ださないんだ」と文句言ってる様に思えるんですが、考えすぎなんでしょうかね。
マスコミ主導なのか庶民がそう思ってるのかは知りませんが世の中厳罰化要求の流れだと思っていたので意外っちゃ意外ですな。まぁ実際目の前に萎れた態度の被告見ると情に絆されて刑を軽くしちゃうんでしょうか。
どうでもいいけど「庶民感覚」ほど胡散臭いモノは無いんで、とっととこんな制度は廃止するに越したことは無いわいな。
Posted by ika at 2009年12月31日 02:21
そういう文句を言ってるんだと思いますよ、検察が。裁判員が「実際目の前に萎れた態度の被告見ると情に絆されて刑を軽くしちゃう」可能性はあると思ってたんですが、同時に偏見に動かされますから、実際には「ばらつき」が出て来ると。検察では概ね、ある意味公正に求刑を行っているものの、感情に訴求する論告によって逆効果を招いたようですが、判決との乖離を忌避するあまり偏見に基づいて求刑をコントロールするようになれば世も末です。
Posted by 熱湯珍裁判 at 2009年12月31日 08:14
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