2010年11月26日

TVに顔を出しておけば安全であろうという判断は的確か

裁判員「命奪うのは大人と同じ刑に」 石巻少年死刑判決


 少年に初めて死刑が求刑された裁判員裁判で、市民と裁判官が選んだのは極刑だった。宮城県石巻市で男女3人が殺傷された事件。25日の判決後に仙台地裁で会見した裁判員は、5日間にわたる審理の過程で感じた悩みを交え、「厳しかった」と振り返った。

 判決後、6人の裁判員のうち「4番」と「6番」の2人の男性が、匿名を条件に記者会見に応じた。4番の30代会社員は、カメラ撮影にも応じた。死刑判決に加わった裁判員が、撮影に応じたのは初めてのことだ。

 「自分の中で、この子に対して、何が一番良いのかと考えた」。年齢を公表しなかった6番の男性は、そう語った。4番の男性は「人の命を奪うのは年齢を問わず、大人と同じ刑で判断すべきだと思った」と話した。

 目の前の少年に、立ち直る可能性はあるか−−。結論に至るまでは2人とも思い悩んだという。

 「心の言葉で話してほしい」。公判での被告人質問。4番の男性はまず、少年にそう語りかけた。少年の心に迫ろうと、母親への思いや社会復帰ができた場合の考えなどを続けざまに聞いた。「涙を流して答えてくれた。つくられた言葉ではなく、少年の思いの中から出してくれた言葉だと思った」と振り返った。

 法廷では少年のほかに、その母親、元交際相手、被害者の遺族といった、ときに涙しながら語る証人らに直面した。「それらを自分の中に収めて結論を出さなければならないんだと思ったとき、厳しかったです」

 死刑選択の基準とされる永山基準については裁判官から説明を受けた。だが、「基準より、被告、被告の母親、被害者の方々の思いを一番重視した。私は被告の心の言葉を求めたし、その時の自分の思いを重視した」と明かした。

 「どんな結論を出しても、被告と被害者、どちらからも恨みや納得できないという思いを持たれる。怖くて、一生悩み続けるでしょう」

 一方、6番の男性は、結審後の土日の休みは、友人や家族と一緒にいることが耐えられなくなった。「何かの拍子にしゃべってしまいそう」。そう思い、図書館にこもって裁判を報道する新聞記事を読んだり、公園で1人で求刑について2〜3時間も思案にくれたりした。自分の中に判断基準が欲しかったが、時間がたつにつれ、どうしていいか分からなくなった。だから、判決の日を迎えることが「嫌で嫌でしょうがなかった」。

 「少年にかけたい言葉」を問われると、2人ともしばらく目線を落とし考え込んだ。6番の男性は、言葉を絞り出すように話した。「自分のやったことをまず反省してくださいと言いたい。なぜこのような判決になったのか考えてほしい」(篠健一郎)

2010年11月25日 asahi.com


「なぜこのような判決になったのか考えてほしい」というのは上出来ですね。そりゃあなたたちがそういう判決を出したからでしょう。別の人が裁判員をやっていたら別の判決が出ていた可能性があるのであって、これは原則として裁判員の関わらない裁判でも同様です。一つ一つの判決は重いものですが、一定の幅の中で変動する余地があり、実際にはかなり偶発的なものです。その意味では判決の責任は一重に裁く側にあり、被告人の側にはありません。

もしかするとわかっていないのかも知れませんが、分かっているのかも知れません。「6番」さんは分かっていて意識的に「責任逃れ」の発言をしてしまった可能性があります。てゆーか「6番」さんは自分が人を殺すことの重圧に耐え切れないようで、「自分がお前を殺すハメになったのはお前のせいだ」と言いたくなってしまったのではないでしょうか。よくある話です。

記事によると「4番」さんは「6番」さんとは好対照をなしているかのようです。人一人殺すのに「どんな結論を出しても、被告と被害者、どちらからも恨みや納得できないという思いを持たれる。怖くて、一生悩み続けるでしょう」というのですからかなり気楽です。要するに「どっちでも同じ」と言っているわけですが、人を殺しておいて「一生悩み続ける」というのは、死刑判決を出した後だけに相当に甘いもんだという感じもします。怖がっているそうですが、会見で顔を出すのはどうなのか。危険があるのであれば、顔写真が回されることになるわけです。何かあったときにテレビ局が困らないというだけのような気もしますが。

裁判ですから法律というものを参考にしなければならないような気もしますが、「少年だからといって罪が軽くなる法律がおかしい。重大事件なら大人と同じ刑が科されるべきだ」(河北新報)とのことですから、あまり法律とか「法の理念」だとかいう込み入ったことには関わらないで済ませた模様です。それよりも「その時の自分の思いを重視した」そうですから、裁判員も割合と簡単そうです。

これは何も「4番」さんが悪いわけではなく、死刑制度の存在によって刑罰の意味というものが混乱したままになっているのが原因です。「更生」だとか何だとか言うわけですが、更生を目的としない死刑が存在することによって、全ての刑罰は「死刑の軽いヤツ」になります。理念としては目的刑なのかも知れませんが、素人たる裁判員にとっては応報刑論で全ての刑罰を無矛盾に理解する方が簡単でしょう。

このように理解される場合全ての行刑処分が応報的に理解されるのであり、「少年の更生」のような話は理解することが不可能になってしまうのは当然です。「法律がおかしい」と言われても困るわけですが、死刑制度を認める以上「法律がおかしい」と言わなければなりません。現行の法律を「おかしい」という人が「自分の思い」で裁判員をやっているという状況も危険極まるものであるとはいえ、「4番」さんの言っていることは論理的です。

もっとも、そうであるならば「心の言葉で話してほしい」とかいうのは完全に余計なことで、面白半分に被告人をいじくり回したもののようにも見えます。しかしながら判決では被告人の「反省」の度合いなどについて一言書くことになっております。「4番」さんは「涙を流して答えてくれた。つくられた言葉ではなく、少年の思いの中から出してくれた言葉だと思った」と言っているようですが、判決文では「反省の言葉は表面的だ」とか「反省には深みがない」という事になっていますから分ったものではありません。しかし「4番」さんの「思い」はどうでも良いのであって、被告人に反省の弁を述べさせた上でそれを否定する、というのが死刑判決を出すための必要な手続であり、これは死刑に目的刑の衣をかぶせて行刑制度の矛盾を覆い隠すための「だいじなおやくそく」ですから、別に面白半分ではありません。

いずれにしても、「結論」に向けて自らを順応させていく努力というものが認められます。自分の出した結論ではありますが、多数決で負けることがあり、結論が評議に先立って存在した可能性も否定出来ませんが、「自分の中に判断基準が」なかったり、あったとしても「その時の思い」だったりするにも関わらず、やはり結果的には人殺しに加担することは避けられません。しかしまあ、そんなもんです。クヨクヨすることはありません。他人の一生を5日で判断するんですから気にしても仕方ありません。死刑のある国では人の命は軽いんです。被害者のも、被告人のも、裁判員のも、僕のもだ。体重は最近重いぞ。


posted by 珍風 at 11:35| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なぜ顔出し会見を了承したのか訊ねられた4番氏が、「私は間違ったことをやっていない。下を向いて欲しくなかった」と、これまで裁判員を務めた人たちへメッセージだと答えたそうです。何だか、あの人が光市のあの人と被ってしまいました。人殺しを殺す奴も人殺しでございます。顔出しと中 出しには十分気を付けたいものです。あれれ「中 出し」もNGワードだ。
Posted by ○○と○ at 2010年11月26日 20:06
紳士服業界では「中田氏」と書くんですよ。まあたしかに「4番」さんは本村さんと似ているようでもありますが、本村さんは「殺せ」と言っていただけなのに「4番」は「今人を殺して来ました」って威張っているところがむしろ飯田さんに似ていますな。豊田商事の永野会長を殺した人ですが。「法律は手ぬるい。わしがやらんかったら、他にやるもんはおらん」と言ってましたから、思想も「4番」さんと同じです。当時としては異常な事件でしたが、今では一般の人も気軽に参加出来るようになりましたもんですから今の若い人は幸せだ。
Posted by 金時珍風 at 2010年11月27日 10:18
間違ったことしてないから顔出しオッケーってのも変な理屈で。
判決の正しさと、個人の顔出しの正否はまったく別の問題なのに。
ネットの実名匿名論争と同じで、顔や名前を出す勇気がある=正しい意見ってことにはまったくならない。
顔や名前を出すことにはメリットとデメリットもあり、そして出さないことにもメリットとデメリットがある。ただそれだけ。
実名を出したことによって、身元を特定されて嫌がらせを受けたり、失敗して大恥かいても逃走不可能というデメリットもあるが、名前を売れるというメリットがある。
匿名はいくら頑張っても名前は売れないし、論争するときは、毎回毎回1から10まで説明しないといけないから非常に面倒くさい。有名人なら「そのことならもう書いてるから、俺のブログ読んどいて」で済むから効率的。
どっちを選ぶかは好みの問題に過ぎない。
Posted by gen at 2010年11月27日 16:59
なるほど、「顔や名前を出す勇気がある=正しい意見」という「間違った意見」が存在するとすれば、こいつを逆にして、顔を出すことによって意見を正当化することが出来るというわけです。

つまり「顔出しオッケー」であるが故に「間違ったことしてない」んだ、と言いたいワケでしょう。もっともこれは「俺は『間違ったことしてない』と思っている」ということにしかならなくて、それならやっぱり飯田さんと同じですな。

この場合、「俺」にとっては「意見」や「判決」自体が「正しい」かどうかという「論争」は回避されます。判決の根拠が「自分の思い」だったりすることを含めて、「論争」に対しては最初からこれを拒否する仕組みであって、「4番」さんはいわば強固な防衛体制を構築して会見に臨んだというべきでしょう。何故そんなことをしなければならなかったのか、なんて言うだけ野暮です。
Posted by 以前書いたことを忘れている珍風 at 2010年11月28日 07:46
間違ったことしてないから、顔をだす???恥じることをしてないから下を向かないで下さい。と言ってますよ。その本人が顔を隠して今の台詞を言っても言葉に重み、強さがなくなると思ったです。だから顔を出して意見を言ったんだと思いました。
6番がへたれは、大いに同意ですね。
4番へのコメントは面白い解釈です。
時期はずれのコメントすみません。木嶋の被告の裁判員の顔出し。名前だしのコメント軽く意味なしで過去の人のコメント調べてて一言私の解釈を聞いて欲しくて投稿させてください
Posted by とおりすがり at 2012年04月16日 02:29
木嶋さんの裁判はそれぞれの事案を個別に審理した場合には有罪にすることは極めて困難なところ、「同じ手口」でまとめて示してあげると「確たる証拠はないが怪しい」ということになりますんで、あとは「思い」で軽く死刑判決を出してくれればオッケーですよ、ということみたいですが。

検察の一方的な都合で長期にわたる裁判につき合わされる裁判員さんも大変ですが、その林さんによれば「長い間に、裁判官と裁判員で結束力みたいなものがついてきた」んだそうで、それはそれで討議にとっては理想的でない関係が構築されてしまった可能性があります。裁判員制度の「目的」とされているものからみれば、裁判官と裁判員は「結束」しない方がむしろ望ましいはずです。

したがって木嶋さんの裁判では「裁判員裁判が長期審理に対応できることを示した」かも知れませんが、同時に「長期審理が裁判員裁判に対応していないことを示した」のではないか。もっとも、審理が長期化したのは貧弱な証拠で有罪判決を引き出そうとした検察側の責任であって、今回の場合はそれを回避することも可能であったことを考えると、この事例をもって裁判員裁判があらゆる重大犯罪の審理に対応出来ない、ということは言えないんですがね。
Posted by 木嶋さんに「顔出し」は如何なものか珍風 at 2012年04月16日 07:05
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