2012年04月24日

俺のクサい「聖域」を舐めてみな

障害児に虐待の疑い 学校謝罪


知的障害がある子どもたちが通う埼玉県内の特別支援学校で、教師が、児童に暴言を吐いたり、たたいたりする虐待とみられる行為を繰り返していた疑いが強まり、学校は「体罰と見られる行為」があったとして、保護者に謝罪しました。

虐待が繰り返された疑いがあるのは、知的障害のある子どもたちが通う埼玉県内の特別支援学校です。去年12月、学校側が、突然、保護者会を開き、去年5月から10月にかけて小学校低学年のクラスで「体罰と見られる行為」があったとして、謝罪したということです。

学校の関係者が教室でのやりとりを録音した音声によりますと、クラスの担任の30代の女性教師が児童に対して怒鳴り声や暴言を発しているほか、児童をたたくなどの行為も4回確認され被害にあった児童は、少なくとも3人に上るとみられています。

NHKの取材に対し、学校側は「いきすぎた指導があった」としていますが、女性教師は、学校の聞き取りに対して虐待行為は認めず、「両手で顔を挟んだ、たたいたとみられてもしかたない行為だった」と述べたということで、去年10月からは病気を理由に休職しているということです。

被害を訴えた児童の母親は、何が起きたのかをすべて明らかにして再発防止策を講じてほしいと訴えています。

2012年4月24日 NHK


TVによると、特別支援学校のようなところで虐待のようなことが起こるはずがないと考えることが、虐待を生み出しているんだそうであります。てゆーかこの手の虐待が今まで存在しなかったわけではないんですが。「存在すべきではない」ことは「存在するはずがない」、つーか「存在しない」ことになっちゃうんだとすれば、これは核発電の事故と同じです。

大飯原発 再稼働 議論かみ合わず

経産副大臣と会談 知事、必要性問う

 「十分に理解頂けないところもありますので、持ち帰って、お答えさせて頂きます」――。関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を巡り23日に府庁で行われた、山田知事と牧野聖修・経産副大臣との会談は、仕切り直しとなった。山田知事は、今夏の電力需給を政府が第三者組織で検証するなどとした政府側の回答を一定評価をしつつも、「十分でない点もある」とした。知事が求める「国民的な理解」を達成するには、まだまだ時間がかかりそうだ。

 午後3時に始まった会談では、冒頭、山田知事が「実際、事故になると影響は行政区画で考えられるものではない」と訴えた。

 さらに、山田知事は「大飯原発の再稼働が、エネルギー政策の中でどういう位置づけになるのか分かりにくい。今夏を乗り切るためだけなのか、今後も必要だと捉えているのか」と質問。

 牧野副大臣は、「中長期的には『脱原発依存』で進めていく。だが、現実対応の中では、ストレステストが終わったものから再稼働をする。必要性と安全性について認めていただければ(再稼働する)」と答え、議論はかみ合わなかった。

 福井県の西川一誠知事は枝野経産相との会談で、使用済み核燃料の中間貯蔵施設について、電力の消費地である関西にも負担を求めた。これについて、山田知事は「関西が使用済み核燃料を引き受けることを、大飯再稼働の条件にするのか」とただした。

 会談に同席した、今井尚哉・資源エネルギー庁次長は「(条件とは)していない」と明言した。

 会談後山田知事は、牧野副大臣が説明した内容について、府の原子力防災専門委員や府議会に意見を求める考えを示した。

2012年4月24日 読売新聞


相変わらずの「必要性と安全性」です。事故が起きて琵琶湖の水が使えなくなれば停電どころではない騒ぎになると言っているのに、夏には電気が足りなくなるから核をヤリたいんだと言ってもかみ合うはずもありません。おまけに関西電力の「需給見通し」なるものは誰にも信用されていません。原子核村が「必要性」を強調することによって「安全性」をどっか見えない所に押しやろうとしているのことが明らかだからです。

原子核村の核防衛体制は非合理的です。そんなにアタマが悪くないようで、100%の「安全」はあり得ず、事故の影響は極めて壊滅的であることが理解されています。「安全対策」は無意味であり、破滅は避けようもありません。事故は発生してはならず、同時に発生するに決まっています。そこで「安全性」については議論することなんか不可能であり、むしろ事故の可能性そのものが「否定」されるのではなく「抑圧」されるのです。だもんですから実際に事故が起こってもビクともしません。

かくして事故は「禁断の領域」に入るのであって、虐待もまた同様であります。「聖域化」とはこの意味ですが、虐待についてはこの「聖域」にカメラを入れて監視すれば良いのではないかというような議論が存在する様です。まあ実際に保育園なんかではホームページで中継しているところもあるようですが、この議論は容易に社会全体の監視化に拡大するんでややこしくなるわけです。

おそらく学校や取調室といった力の不均衡によるコントロールが存在する空間に「外部」の視線を入れたら良かろう、という話なんでしょうが、その「外部」と監視対象たる空間の間にも権力の不均衡が存在するわけです。そこで監視は監視者の「聖域化」が前提となっています。たとえばオマワリさんが悪いことするはずがない。慰安旅行とかでちょっとサボることはあるかも知れない。しかし意図的に監視を悪用することなんかあり得ない。

もちろんそんなことは信じられませんから監視対象を監視し、その監視者を「聖域化」しない為に監視者を監視する。その監視者をまた監視する必要がある。これは無限後退です。一種の解決策は利益が背反する二者での相互監視をどこかのレベルに導入してそこで止めるというものです。このような考え方の例のひとつが「原子力規制庁」の設置でしょう。

しかしながらこれは真の対立関係を導入するものとは思われません。「村」の中で紅白に分かれて「運動会」を行なうようにも見えます。実際には電力会社がお金をばらまく先が増えるだけで、その財務状況を悪化させる以上の意味を持たない可能性があります。擬似的な対立関係の見せかけが「聖域」を作り出すのではないでしょうか。

もちろん社会は上手く機能してくれません。上手く機能しなくても重大な結果を招かないようにみんなで工夫しているのが実情ですが、話しの通じない人もいるようです。このような人たちの行動を合理的に説明するのは経済的な利益とかそういうことなのかもしれませんが、例えば、あんなに司法がヒドい状態なのに現状で死刑制度を維持しようとする人たちは、重大なミスをおかす危険を放置することによって別に何も得をしているわけでもないようです。それはむしろ「信仰」のようなものですが、それもやっぱり経済的な利益にたどり着くとはいえ、それは別の人のところに行ってしまうことになっているのが間の抜けた話ではあります。


posted by 珍風 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。