2012年08月07日

日本が男子種目別吊り輪で金銀メダルを独占

【8月7日 ロンドン】ロンドン五輪は6日、東京拘置所と大阪拘置所で体操男子種目別の吊り輪決勝が行われ、日本の服部純也と松村恭造が金・銀両メダルを獲得しました。

滝実監督が率いる日本選手団は7月の「更生保護活動への理解を深める月間」の終了を機に種目を変更、ファンの人気が低い「更生」から人気の高い「吊り輪」に乗り換えてのオリンピック参戦でした。

松本選手は養豚場で豚と殴り合いを演じるなどのトレーニングを重ね、公判では「人殺しという人生初体験の大事を、極めて冷静に完遂しえた。自分をほめてあげたい」と自信の程を伺わせたものの、「初体験」がそれっきりで終わってしまったのはほとんど童貞と変わるところがありませんでした。

とはいえ、「まったく反省していない。ざまあみろと思っている。世間に借りはないから、法律を守る義務はない」などの発言にみられる松本選手のガッツが、国家に対する恭順の意志がなく、徒に挑戦的であると看做されたのが今回のメダル獲得につながりました。日本体操協会の増田耕兒裁判長は、「反省の態度が認められない。暴力傾向も根深く、被告がいまだ若いことを考えても、更生を期待することは極めて困難だ」と松本選手の精神力を高く評価しています。

何かというと直に「勘当」などと口にする父親など家庭環境にも恵まれた松本選手、環境を変えるなど一歩間違えれば「更生」に走ってしまっていたかも知れないところ、松本選手の才能に着目し、何としても吊り輪に掛けたいという増田裁判長の闇雲な執念もまた、勝利に与って余りあるものであったと言えるでしょう。

そして同じくメダルに輝いた服部選手。確かに平凡な演技ではありましたが、田尾健二郎裁判長が指摘する「迅速な行動」は「計画的な犯行」に勝るとも劣らないものでした。持ち前の速い動きが、これまた持ち前の無計画さを補って勝利に導いた、まさに服部選手の天性のなせる技であると言って良く、厳正なる裁判官の目をも惑わしてしまったのでした。

服部選手の演技について、田尾裁判長は「監禁後、殺害をちゅうちょしたのは、発覚すれば重い罪で処罰されることを恐れたためで、専ら自己保身に基づく」ものであると指摘しています。実は体操界では「発覚すれば重い罪で処罰されることを恐れ」ることを「抑止効果」と呼んでいますが、田尾裁判長はこれを「専ら自己保身に基づく」としてスポーツマンシップに相応しからぬものであると否定的な評価を下しているようにも思われます。

これは「吊り輪」という種目の存在意義そのものを疑問に付す重大な発言であると思われかねないところですが、田尾裁判長はそれにも関わらず服部選手が殺害に至った点を重視し、服部選手が「抑止効果」を乗り越えることが出来たこと、というよりは「抑止効果」が最初から存在しなかったことを正確に指摘しています。

とはいえ、それではやっぱり「吊り輪」が何のための種目であるかさっぱり分からないことには変わりがありません。この点についてアムネスティ日本では「死刑に特別な犯罪の抑止効果はない、ということも今日の世界的な共通認識となっている。科学的な研究において、死刑が他の刑罰に比べて効果的に犯罪を抑止するという確実な証明はなされていない。死刑と殺人発生率の関係に関する研究が1988年に国連からの委託で実施され、1996年と2002年に再調査されているが、最新の調査では「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。そのような裏付けが近々得られる可能性はない。抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない」との結論が出されている」ことを指摘し、田尾裁判長の発言を補強しています。

しかしながら、今回の日本のメダル獲得には強豪国の中国やアメリカからの抗議も予想されるところです。JOCでは「日本の「吊り輪」と中国の「射撃」やアメリカの「電気椅子」とでは、そもそもスポーツとしての種目が違う。「吊り輪」がいまだに日本の「お家芸」であり、その優位性はいささかも揺るぐことはない」と強気の発言を繰り返しています。

とはいえ、種目に関わらず死刑競技全般を見渡してみても、アムネスティの指摘を待つまでもなく、参加国は年々減少しているところであり、世界的に退潮気味の競技にしがみついてメダルを狙う日本の姿勢に批判が集まる可能性も高まっています。実際、今回は金銀のメダルを独占したものの、銅メダルを獲得した選手はいませんでした。というよりは吊り輪競技に参加した選手が2人しかいなかった、というのが実情です。

大阪維新の会の村田たかおさんも「吊り輪などはブランコのようなものでスポーツというよりレクリエーションの類。五輪精神を汚さぬよう競技の絞込みが必要」と論評しておられるところですが、しかしそう簡単に行かない理由がある様です。もっとも、村さんに限らず維新の会の人が何事も簡単に考え過ぎなだけですが。

実は死刑競技について最高裁判所の古田佑紀裁判長は、その「残虐さ」に関する新たな定義を模索していた様子です。古田裁判長は服部選手の「意識のある人間に火をつけて殺すという」演技に関して、それを「残虐な殺害方法」であると評しています。

服部選手の演技のどのような点を「残虐」とすべきか、議論の分かれる所でしょう。被害者が「意識のある」状態であったのが「残虐」なのか。あるいは「人間に火をつけて殺す」ことが「残虐」なのでしょうか。実際のところ死刑競技のほとんど全てが「意識のある人間」を対象に行なわれている所ですから、解釈によっては古田裁判長の発言も競技そのものを否定しかねないものです。

もっとも、「火をつけて殺す」ことが「残虐」だと言うのであれば話しは簡単です。「意識のある人間」を殺しても何の問題もありません。国家が「残虐」ではないと指定した殺害方法に乗っ取れば、古田裁判長でもそれを「残虐」と呼ぶことは不可能であります。したがって、既に公開されている日本の死刑執行と同様の手段によって1人だけを殺害するのであれば死刑判決を受けることがない、というのがオリンピックが我々に残してくれた教訓であると言うことが出来るでしょう。


posted by 珍風 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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