2007年11月23日

丸ちゃんと三角ちゃんと四角ちゃんと赤ちゃんとヤな奴

「情けは人のためならず」という諺が誤解されている、という話しは広く人口に膾炙しています。この誤解は1960年代から見られるということですから、別に「新自由主義の価値観がどうしたこうした」というわけでもありますまい。今の若い人がこの諺の意味を「誤解」しているのは、親が間違って教えたからというだけの話しでしょう。

そう考えると今の若者もメディアからの情報に骨の髄まで漬かっているわけではなく、親の世代からの情報伝達をちゃんと受けているということがわかります。問題はそのまた親の世代がこの諺についてどう考え、餓鬼にどのように伝えたかということですが、苦労自慢のこの人たちが概ね碌な目にあっておらず、てゆうか自分は碌な目に遭っていないと思っていて、それに応じてそれなりに頑張ったり他人を蹴落としたりして戦後日本の繁栄を築き上げて来たことを考えると、あるいはこの辺が誤解の元凶かとも思えないこともありません。

とはいえ、この諺の「元来の意味」が利己的な動機からなされる利他的な行動について述べているのに対して、「誤解」の方は利他的な動機からなされる利己的な行動について語っています。そして前者が利他的な行動を推奨する道徳規範を裏面から支持しているのに対して、後者はそのような規範に従わないことを規範の原理のレベルから正当化しようとしています。どちらにしてもこれは「利他的に行動せよ」という規範の存在を前提として、それへの「対策」を提案しています。

そういうわけで、この「規範」はどっから来るのか、という問題に対して「解決」を示すような報道がされていたわけですが、

6カ月児も善悪を区別=米研究チームの実験結果−英紙

 【ロンドン22日時事】生後6カ月の赤ちゃんも善悪を区別し、道徳的な判断もできる−。22日付の英紙デーリー・テレグラフによると、米エール大学のカイリー・ハムリン氏らの研究チームがこうした実験結果を明らかにした。3つ子ならぬ「6カ月児の魂も100まで」ということになる。
 同紙によると、実験では12人の6カ月の赤ちゃんに(1)丸いおもちゃ「クライマー」が丘を上ろうとするが失敗する(2)三角のおもちゃ「ヘルパー」がクライマーを丘の上まで押し上げる(3)四角のおもちゃがクライマーを丘の下まで押し戻す−という3つの映像を見せた。その後、赤ちゃんにおもちゃを選ばせると、全員が三角に「好意」を示したという。

2007年11月23日 時事


どーも、驚くべきことに、なんと「生後6カ月の赤ちゃん」があろうことか「善悪を区別」し、あまつさえ「道徳的な判断」をもなしうる、ということのようです。もしこれが本当なら大変なことです。倫理的な判断は生得的である、ということになる可能性があるわけですが、事はそれほど単純でもなく、面白がるほど複雑でもないようです。

この乳児向けの「シーシュポスの神話」では3人の登場人物が出現します。はじめに登場する「丸」人形は斜面を登坂しようとしていますが、失敗します。次に「三角」人形が登場して「丸」の登坂を助けます。次いで「四角」人形が出て来て。登坂を妨害します。最後に「三角」と「四角」が登場して、乳児がどちらを選ぶかを調べます。すると「全員」が、別の報道によれば80%ですが、「三角」を選んだので、乳児は「助けてくれる人」を好ましく思う、と結論づけるのだそうです。

もしかすると「三角」のほうが「四角」よりも形態的に「好ましい」ものであったかもしれないのですが、「三角」と「四角」の役割を入れ替えた実験が行われたかどうかは不明です。なので早計は禁物ですが、それでも、ついで行われた実験では「丸」が「三角」と「四角」それぞれに近づく様子を見せると、「四角」に近づいた時は乳児は「驚く様子」を見せたといいます。その次に「三角」と「特徴のない」人形、「四角」と「特徴のない」人形をそれぞれ選択させたところ、それぞれ「三角」、および「特徴のない」人形を選んだということです。

したがって乳児は「他人を妨害する人よりも、助けようとする人を好む」と言っていいものなのかどうか、乳児がこの劇化された状況をどのように把握しているのかがよくわかりませんのでなんとも言い難いものがあります。たとえば乳児は「丸」と自らを同一視するものなのかという問題があります。これは例えば「丸」「三角」「四角」の間で選好順位を調べる事でわかるかも知れませんが、それはやっていないようです。あるいは乳児などは登場人物に感情移入なり何なりをして「主人公」との同一化を経験するような「高度」なことはやらないのかも知れませんが、「丸」における登坂という目的を乳児が共有しない限り「三角」の行為を「助ける」と解釈し「四角」のそれを「妨害」と解釈する事が不可能ではないのか、とも考えられます。

これは立場を変えて、例えば「四角」の立場に立てば、登ってくる「丸」は悪い奴であり、それを助けてついには「丸」の登坂行為を達成させる「三角」はもっと悪い奴だ、ということにもなりかねません。

もしかすると最初に「丸」が単独で登場することによって乳児と「丸」の同一化が図られているのかも知れませんが、そのようないわば劇化の「文法」のようなものを乳児が分ってくれているかどうかはわかりません。逆に、この一連の「劇」の中で、登坂に失敗し「三角」に助けられ「四角」に妨害される「丸」というものが見いだされるとすれば、乳児と「丸」との同一化がなされていることになり、そうだとすれば乳児が「三角」を選ぶとしたらそれは単に自分に都合の良い相手を好むというだけの事になるのではないでしょうか。

もしそうであれば自らの「手段」としてふるまってくれる相手はその限りにおいて「好ましい」もんであるとしても、それが「道徳的な思考や行動の基盤になる」のかどうかは分ったものではありません。「自分の都合」を棚上げにした時にのみ「道徳」というようなものが成立するような気がします。しかしながら「自分の都合」を不可欠な前提として、それを「棚上げにする」という操作を待って「道徳」が成り立つものなのかもしれないのです。もしそうなのだとすれば、始めから「自分の都合」など無視されて来た場合は、不可欠な前提を欠いているが故に道徳的判断が不可能な状態に陥っている可能性があります。この仮定は「苦労自慢」の人がえてして「道徳的」でない、むしろ非道徳的ですらあるという事情を説明出来るかも知れませんが、そういう場合に限って他人に押し付けるための「道徳」は豊富にお持ち合わせであったりするのはどういうワケなのかは説明出来ませんし、ましてや、いつも「いい人」で終わってしまう僕のような人間の慰めにはなりそうもありません。もっともそう思っているのは自分だけで、実は「ヤな奴」だと思われている可能性大ですから、世の中そう単純ではありません。


posted by 珍風 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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