2008年01月05日

私は如何にして借金の心配をするのを止めて虫を愛するようになったか

60年目の1998年の作品「屍鬼」では村を包囲していて「鬼」がそこからやってくる「森」を、ひっくり返して村の中心に持ってくると岩井志麻子さんの「夜啼きの森」になります。これは今年からちょうど70年前の1938年に起こった津山三十人殺しに材をとった小説ですが、よく言われる結核だの夜這いだのといった個人的な事情ではなくて、村そのものが「鬼」を産み出すというモチーフにおいて、ほとんど「屍鬼」と同じ問題意識に貫かれているといっていいでしょう。てゆうかどうして岩井さんは小野さんが津山三十人殺しのことを書いていると分ったんでしょうね。なにしろ「夜啼きの森」には「虫送り」も出て来るんですから。

いや、別に「虫送り」または「虫祈祷」というものは全国各地で行われているようですから、どんな小説に書いたって構わないようなものですが、吸血鬼だの都井睦雄だのというような村を襲う災厄は、捨てられた「虫」が借金のように溜まっていて、ある時に帳尻を合わせるために襲いかかってくる、というものであるかのような気もします。そんな「心配」を村人は抱くかもしれず、それは人を殺して屍体を捨てたのに殺された奴が戻ってくる恐怖にも似ていますが、これは「屍鬼」の中で坊主が書いていた「屍鬼」という小説の主題になっていたりします。

このようにして、共同体から災厄を遠ざける営みが、高利貸し的な時間意識によって共同体を「自滅」させる構造的要因として捉えられるようになります。そう考えると都井睦雄を主人公にして彼の感情を云々するのは考えものであります。事実、岩井さんの場合は各章をそれぞれ村のある人物の一元視点としてリレーのように書いており、都井睦雄に当たる人物はそれぞれの視点人物の視界に登場するだけですから、その内面を描くことは出来ないのです。例えばそれは少女にイタズラをしているところを見られていた眼差し、お風呂を覗かれている眼差しとして現れます。「虫」の眼状斑のように背景から浮き出てくる眼差しは正にホラーにおける「怪物」の描き方なのです。

そうなると肝心の「夜這い」の方はどうなってしまうのかと不安になりますが、岩井さんに限ってそういう事をおろそかにはしません。津山と言えば夜這いです。津山の人ごめんなさい。一方、小野さんの村がほとんど完璧なまでに脱性化されているのは前に見た通りです。性的な、あるいは人間関係の恨みつらみ、といったものはここではマイナーな場所しか与えられていないのです。そういうものが「動機」となったり、全体状況を左右するものとは考えられてはいません。そのように考える事を強く拒否しているといってもいいでしょう。もっともこの世の中に吸血鬼の襲撃ほど「夜這い」に似たものはないんですが、「夜這い」が日常的な性行動でしかないのに対して、吸血鬼に襲われることは人格の変容はもたらさなくても主体の変革を迫る決定的な出来事なのです。

しかしながら小野さんは都井睦雄のある兆候に注目しています。それは彼が小説を書いていたという事実に他なりません。とはいっても都井睦雄が書いていた小説は「死んだ弟が云々」などという辛気臭いものではなく、15歳当時に書いた現存しない「ユーモア探偵」ものの他に、矢野龍渓の「浮島物語」を子供向けにリライトした「雄図海王丸」という勇壮なる冒険活劇が知られています。いずれにしても明るく健康的な作風が特徴ですが、しかし、小説を書くという行為自体が、村ではうさん臭い行動です。小野さんとこの坊主は、この点について周りの連中から引かれているようですし、岩井さんの村に至っては小説なんて書くことはおろか、そんなものを読む人すら村には二人しかいません。一人は都井(小説の中では違う名前ですが)ですけど、もう一人は高台の家に住む、つまり村のボスの、その妻です。彼女は文字通りの「虫」を使役して日本脳炎に感染させることによって夫であるボスの殺害を図ります。これは都井が「毒虫を従え、血を吸いに来る」のを期待した前段階蜂起でした。

例によってこれは上手くいかないわけですが、一方その頃、都井睦雄の小説の方はどうなっているかというと、彼はこれを近所の餓鬼共に読んで聞かせており、結構な人気であったといいます。岩井さんの小説の中では「雄図海王丸」は、「屍鬼」の中の「屍鬼」と同様に機能するような恐ろしい鬼の話しに変えられて、ある少年に殺戮コースを試走しながら語られ、この少年は戦慄すべき結末を記したノートを託されます。史実としてはそういうことはなかったわけですが、ここでは「書くこと」を忌むべきこととして、「虫」として、ほとんど犯罪そのものと重なるものとして提示しています。

小説内小説は小説のテーマを要約する機能を持つことがあり、小野さんと岩井さんの小説では登場人物が書く小説がそのように働いています。現実にも個々の小説作品は作家の思想なり人生なりとの関連でそのように読まれたりするわけですが、小説という形式の禍々しさは、それが仮想現実を構築するところにあります。小説内小説が小説に奉仕するおとなしいものであるのに対して、現実の小説は「作家の人生」などに収まり切らないものなのです。「バーチャルリアリティは悪である」という一見意味不明な言明はそのことを指しており、実際に明治時代あたりでは青少年が小説を読むことは現代の青少年がゲームをすることと同じくらいに問題視されていました。これは「現実に存在するものは善である」ということに他なりません。そこで小説などを書こうという奴は悪い奴に決まっているのですから、どんどん取り締まって、創作などは禁止してしまうべきです。そうすればより早期に、より多くの人が直接行動に打って出ることになるでしょう。

そういう「善」は、そこでは生きられない多くの人々を抱えることになります。多かれ少なかれ非難の対象となるような生き方をする人、例えばそれこそ虫が大好きな女の人とか。隠れファンが多い、と隠れファンにいわれている「虫愛づる姫君」も、毛虫を観察したりきちんと御化粧しないということで、当時の身分ある女性にとって重要な社会関係である恋愛から排除されて近所の餓鬼共を集めて昆虫採集に没頭していたものです。ちなみに当時の「虫」は昆虫類の他にクモ類やゲジゲジなどの多足類、ヘビやヤモリなどの爬虫類、カエルやイモリなどの両生類といった地面を這っているものを総称しますが、「夜這い」は含まれないのです。

ところがここに「右馬助」なる、どう考えても金髪に違いないおっちょこちょいの若者がひとつ脅かしてやろうと作り物のヘビをこしらえて、当時の風習に従って歌と一緒に送りつけたのでした。姫はヘビは苦手だったので驚きましたが、作り物だと知って返事の歌を寄越します。ところがその歌はそこらの質の悪い紙に、しかもカタカナで書いてあるという異常なものだったのです。当時の感覚からいってこれは「怪文書」と呼べるようなシロモノで、とても同じ文化を共有しているとは思えない異様さは正に別世界から舞い込んだかのような禍々しさをたたえていますが、こいつは面白いなんて喜んじゃうのがおっちょこちょいのおっちょこちょいたる所以の馬之助、これから女装だノゾキだと反社会的行為の限りを尽くすことになりますが、この続きは「其の二」にて。


posted by 珍風 at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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