2008年04月02日

まっすぐでぷっつん

あー、ポル・ポトですか。共産主義者というのは複雑で、最初はみんなのために良いことをしようと考えているらしいのですが、理論のメカニズムに隷従してああなっちゃうんでしょうかねえ。なんともわかんないですが、稲田朋美が一瞬でも「下から目線」を持ったことがあるのかどうか。

映画公開の全面「自粛」という驚天動地の非常事態が明らかになる前に稲田朋美の応援に回った有村治子とかいう議員がいるようで、このような非常事態、まさにイザ!というときには大変に役に立つと評判の「ブログ」で、3月27日に参院内閣委員会において有村が文化庁の尾山文化部長に対する質問の一部始終が掲載されています。僕は有村氏もなんだかなあと呆れました。それでは断片的にどうぞ。

http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/529429/

小泉総理の靖国神社参拝の是非をめぐって宗教的、思想的な相違などの理由によって靖国神社を相手に裁判を起こし、自らの政治的主張を展開することは、これは政治的な事柄でしょうか、宗教的な事柄でしょうか。

このような靖国神社の参拝の是非をめぐって靖国神社を相手に裁判を起こしている。そして自らの政治的主張を展開すること、このことは政治マターか宗教マターかどうですか、そうじゃないんですか、ということを伺っております。

しかも、この映画の中で両氏は、彼らが現実の社会の中で提起している訴訟と同じ趣旨の主張をそのまま展開をされており、一連の靖国関係訴訟を代弁する政治的宣伝がそのままキャスティングにそのまま反映されています。


有村は映画の中で「政治的な事柄」、「政治マター」が扱われ、作品の中で訴訟の一方の当事者の「主張」がキーとなっていることをもってこれを「政治的宣伝」であるとしています。これが有村の「ロジック」の唯一のよりどころなのですが、およそいかなる製作物でも制作者の「思想」の表現は元来自由であり、てゆうか(ドキュメンタリー作品であれば特に)「思想」って出ちゃいますよね。文化庁が「政治的」作品を助成の対象外にすることなく「政治的宣伝」の作品を対象外とすることに決めてあるのも、この辺の区別をしているわけです。ここで「政治的意図」=「政治的宣伝意図」という「ロジック」は明らかに有村の「強弁」です。

全体としては政治的意図は持っていないとおっしゃいますけれども、キャストとして上がっている名前は3人しかないんです。そのうちの2人は靖国訴訟の原告なんです。そしてここに刈谷直治さん、残り一名のキャストの名前が挙がっていますが、この刈谷直治さんは、この映画のキャストになることを知りませんでした。そして今もキャストになることを了承していらっしゃいません。そしてこの靖国神社に関して、この刈谷さんは政治的発言は展開しておられません。


ここで刈谷さんが「政治的発言は展開しておられません」かどうかは、作品未見の僕たちの知りうる所ではないので、ここに言う「政治的発言」が何を意味するかは明瞭ではないのですが、作家の制作意図として刀匠のお喋りをあんまり入れたくなかったのかも知れませんし、刈谷氏が語るべき言葉を持ち合わせていなかっただけかもしれません。そして映画と言うメディアの性質から、仮に刈谷氏が何らかの「政治的」スタンスを持つとして、それを彼の映像と音声から汲み取ることが出来なかったのは、制作者がそれを表現する意図を持たなかったのか、有村に見る目がなかったのかは今のところ不明です。

助成金を受けようとしてこの有限会社「龍影」のチャン・イー代表取締役は、助成金交付要望書を提出した最初の段階、18年7月19日です。その最初の段階から、その資料に、映画の概略には、小泉参拝をめぐり靖国の政教関係を透視する、と明確に書かれています。そして主な出演者、キャストとしては、小泉首相靖国参拝を意見と考えられる東京訴訟の会を登場させる旨、明記をして交付金交付の申請書を提出されます。つまり申請者は意図してこの問題を取り上げます、と明確に書かれた上で最初の助成金交付要望書を出されているわけです。


「靖国の政教関係を透視する」ことは作家の政治的見解の表明であることがあるでしょう。しかしそれは作家が表現の自由を行使したまでのことであり、それが直ちに「政治的、宗教的宣伝意図」を持つものでないことは言うまでもありません。

日本人としてただ一人、協力プロデューサーとして、名前が挙がっている山上徹二郎氏は、「この映画の影響はアジアを飛び越し、世界的に注目を集めることになる。『靖国』が日中韓と欧米で公開されれば、日本は戦争責任問題を本当に反省せざるを得なくなる」と人民日報の国際版サイトで語っておられます。常識的に考えますに、戦争責任というのは戦争を終結して、戦争に勝った国と負けた国がそれぞれ負うべき、持つべき責任、制裁、権限を明確に出し合い、当事国双方が折り合いのつく条件を明文化して講和を結び、国境を定めるという極めて政治的なプロセスです。戦争状態を終結し、当事国同士の国際関係を正常化していくプロセスは政治そのものです。


「戦争責任問題を本当に反省」とは「戦争状態を終結し、当事国同士の国際関係を正常化していくプロセス」への反省、批判でありますが、この作品が「世界的に注目を集める」ことになると日本がそのような政治過程に対する評価を再考せざるを得なくなる、というのは山上さんがこの映画の興行的成功に伴う副次的効果として日本の政治思想状況にインパクトを与えるであろうと予想しているだけです。これは映画そのものの内容を説明したものではなく、いかにもプロデューサーなどが言いそうな宣伝文句ではないでしょうか。

その審査を行ったとおっしゃいますけども、その先生方が見てくださったはずの、最初の申請書類に、チャンイー代表がですね、小泉総理の靖国参拝の政教問題を透視すると明確に書かれているんですよ。それが政治的意図ではないと断言されているわけですから、その理由を聞かせてくださいと聞いているんです。


「小泉総理の靖国参拝の政教問題を透視する」ことはたしかに「政治的意図」です。靖国神社と政教分離問題はそれこそ「分離」出来ないものでしょう。しかしこのような問題を提起し、ある見解を表現するとしてもそれが即ち「政治的宣伝」にあたるものではありません。

その写真の真偽なんて聞いてません。その真偽が疑われる写真を次から次へと出しているところは政治的意図だと私は思うんです。


これは映画の中に登場する南京大虐殺の「写真」についてのことですが、「真偽」を疑うことそのものもひとつの「政治的意図」からするものであることに気がつかないほど有村は自己中心的なんでしょうか。

議論は公開できないとおっしゃいますが、では国民の知る権利を守るために国民の代表として議会に送っていただき、国権の最高機関である国会の公式な参議院の内閣委員会で岡田委員長の指名の下、質問通告もしっかりとした上で、私は質問を展開しております。すなわち私のとるべき手続きは正当にすべて踏まえた上での公的な質問でございます。


ところで当該映画作品そのものに関する「国民の知る権利」がその行使を事実上妨害されている現状を有村はどう考えるのでしょうか。これだけ議論しているのですから、広く一般の観覧に供するべく働きかけるのが筋というものでしょう。

作品が完成したから試写をされた段階で、政治的宗教的宣伝の意図について疑義がまったく呈されないとしたら、それ自体、一体何をチェックされているのだろう、専門委員の先生方は目を開けて、助成金交付選定基準に照らし合わせて、この試写を審査していただいたのですか、と言わざるを得ません。


後半は自己中心的で誤解に基づく「ロジック」による一方的な断言に過ぎません。

試写が行われてその中に4人が参加したというだけで、そのあと先生方が何を見たのが、何がいいと思って、何が違和感を感じたのか、という意見の聴取は行われていません。つまり企画段階のでの申請は審査するが、出口はしていない。


要するに自分と同じような文句が出なかったのが不満らしいですね。こういう不条理なクレームをつける人を「モンスター」とか言うようですが、有村はさしずめ「モンスター議員」ですね。

私は靖国神社賛成派、反対派というレッテルをつけること自体、与しておりませんけれども、企画段階では、靖国神社に対して賛否両論を材題とする、としていた文書が実際に19年の3月に出された変更理由書によって、いわゆる靖国支持者の主張はこの映画の対象にしないことが明確に申請をされています。この時点でこの映画が完全な「反靖国」となることが決定的になったものですが、これらの大規模な変更が行われても、問題ありという認識を、誰も専門委員の方々は、一切されなかったのでしょうか。反靖国となることが決定的となって、これは中国政府の歴史認識や主張そのものを取り上げる映画と、この時点で決定的になったわけですが、これに疑義を、おかしいな、何かあるんじゃないのかなと思われた人は誰もいなかったんですか。


レッテルがどうか知りませんが、「反靖国」であることが「問題ありという認識を」するのが「靖国神社賛成派」です。また、「反靖国」が「中国政府の歴史認識や主張そのもの」という「認識」に至っては笑止千万な決めつけですよ。

平成17年、2005年は終戦60周年でございました。終戦40年、50周年となる、1985年、1995年、2005年、つまり西暦の一桁が5になる年は、決まって中国、韓国が歴史認識を外交カードとして日本を揺さぶらせる戦略にきています。そして私たち自身も、歴史に向き合う機会から逃げることはまったく許されません。しかし、この平成17年の大騒動があった2005年の翌年に申請が出されているんです。こんなあったり前の、みんなが理解している政治的な意図が見抜けないような、社会人としての常識的感覚がない人ばかりが専門委員になっていらっしゃるんですか。


これはもはや映画とは何の関係もない言い掛かりになってきました。人によっては長く喋ると碌なことにならないといういい見本であります。ちなみに当ブログの発足も2005年ですが、だからどうした。政治的意図があるわけだ、中国の。ニーハオ。

幅広い見識を有しということでございますが、専門委員の一人である「Y氏」、この方の信教の自由、思想の自由ということを尊重して昨日は通告で明確にそちらにお伝えしておりますけれども、Y氏とこの場では言わせていただきましょう。Y氏は「映画人9条の会」のメンバーであり、その旨の発信をされていることを日本芸術文化振興会はご存じでしたか。9条の会というのは、ご承知の通り憲法9条をめぐって護憲という立場で政治的メッセージを明確に打ち出し活動をされていらしゃる団体です。その映画人9条の会のメンバーであること、ご存じでしたでしょうか。

専門委員の中立性、もちろんYさんにも思想の自由はあります。そしてそれは尊ばれなくてはなりません。しかし常識に照らして公正な立場で審議されたとは到底思えない判断が次から次へとまかり通っている現状を鑑みますと、このY氏の政治的思想的活動が当該映画の助成金交付決定に影響を与えたのではないかという、国民のみなさん、私たちの疑念を、振興会の公的責任として払拭していただきたいと思います。


憲法をまもるのが何か問題なんでしょうか?一般に法律を守るように呼びかけることは広く容認されるところであり、逆に法を無視し、違法を推奨するようなことはフィクションであっても「問題」とされることが多いようですが、そうであるならば法律を基礎づけている憲法をまもることは当然とされるのではないでしょうか。もっとも「人を殺してはいけない」と言うのは「政治的宣伝」であるからダメ、というのであれば仕方ありませんが。

そしてこの「靖国」のパンフレットにも書かれていますけれども、「そして、知られざる事実がある。靖国神社のご神体は日本刀であり、平成8年から敗戦までの12年間、靖国神社の境内において靖国刀が鋳造されていた」というふうに書かれていますけども、これは事実誤謬でございます。しられざる事実があるといって、靖国神社のご神体は日本刀であるというふうに主張されていますが、この認識事態が誤謬なんです。事実誤認でございます。これは私自身が靖国神社の広報に問い合わせています。神社で大切にされていらっしゃる神剣、神の剣は、一般的に世に言う日本刀、片刃で、ワンエッジですね、片刃で反りのある日本刀とは形状も異なっておりまして、このご神体は日本刀ではありません。この誤謬を知られざる事実として、ドキュメンタリーとして豪語されること自体が大変に遺憾なことでございます。
 もちろん、中国の監督が外国語である日本語で基礎事実を理解するのは難しいのかもしれませんが、このご神体について靖国神社に事実確認や問い合わせも一切されずにこの事実誤認をドキュメント称し、広く喧伝されていること自体が欺瞞だと思いますが、やはり文化的考証などの前線に立たれるはずの文化庁ではないんですか。この点コメント下さい。


ついに単なる「誤謬」を「欺瞞」と言い張る「欺瞞」まで駆使し始めました。もうめちゃくちゃです。

一時、進行過程での映像をご覧になって、当時政治問題化していた小泉総理の参拝映像や終戦記念日の靖国境内の政治的喧噪の映像とまぜ合わせて刈谷さんの刀をつくる映像が交錯されていることに違和感を覚え、ここからです、刈谷夫妻は不安と異論を唱えられました。すると刈谷さんの自宅に赴いた李纓監督と、助監督のナカムラさんは、「この映画には日本の助成金が出ているし、助成金を受けているというそのマークもついているから、大丈夫ですよ」と夫婦をなだめていらっしゃいます。助成金が公的お墨付きとして使われ、刈谷さん本人がキャストに仕立て上げられる、本人は嫌がっているんです。キャストに仕立て上げられることを承諾するよう、助成金のマークが入っているから大丈夫ですよ、日本政府も助成しているんですよ、という説得の材料になってしまっています。このような経過から最終作品は、刈谷氏の善意を踏みにじっており、刈谷さん夫妻はこの映画において刈谷氏の肖像が入ることをまったく承服しておらず、作品から刈谷さんの映像を一切外して欲しい、と希望をされています。これは私自身が一昨日、平成20年3月25日、刈谷さん本人と確認をとりました。


この点については「靖国神社賛成派」と深い関係を持つ靖国神社と関係の深い刈谷氏の立場に鑑みて、「靖国神社賛成派」と目さざるを得ない有村氏「自身が」確認をとった事項に関しては判断を保留せざるを得ません。映画を観て刈谷氏自身を見てみたいものです。ちなみに助成金が出ているのは事実であって詐欺でもなんでもありません。刈谷氏は嫌ならはっきりそういえばよかったのではないでしょうか。優柔不断な刈谷氏の「刀」がどういうものであったのか、映画を観ていない僕にはまだわかりませんが、実戦で使われる機会がないのがせめてもの幸いであるような気もします。

つまり、日本の法令によって設立された法人が、例え構成員がすべて外国人でもOKということになります。ノルウェーの人々によって構成される法人が、ケニアのキクヨ族を撮った映画も日本映画というカテゴリーになってしまうんです。不思議な定義だなあ、と思います。


別に良いではないか。何を言っているのか。奥さん、気を確かに。

最後に私自身、今までの質問はすべてロジックだけでやってまいりました。私自身靖国神社に対してどう思っているかというと、右翼も左翼もないと思っています。どんな立場を取るにせよ、もちろんそれは自由です。
 しかし、この靖国神社というのは本来、御霊と静かに向き合う場所で、国の未来を信じて命を捧げられた御霊やその人、お父さんに一度も抱かれたことのない子供たちが、お父さんの無言の遺骨を抱かねばならなかった、そんな方々がもう60歳、70歳になって、唯一お父さんに会える、好きだった恋人に会える、あるいは息子に会えるというところの遺族のお気持ちに静かに心を沿わせる人間としての常識は持たねばならないと思っています。
 やれ賛成だやれ反対だとプラカードを片手に、意見の異なる相手をそれぞれの数の論理や、声のボリュームで威嚇して思想的に相容れない相手をにらみつけて中傷合戦をするイデオロギー論争の場であり続けることは極めて御霊やあるいはご遺族に対して不遜なことだと思っています。


右翼だか左翼だか知りませんが、あそこの「英霊」が「国の未来を信じて命を捧げられた」と決めつけるのは当人に「自身が」「確認をとった」わけでもないのになんとも乱暴な言い草です。死人に口無しとはこのことで、死者に対して「不遜」としかいいようがありません。また、神社でも何でもどこかで死人と「会える」とするのはもっぱら「遺族」側の「宗教的」な信念であって、これのみを重んじることは、これを信じない国民に対して「不遜」でありますが、これは有村が自ら信じることを述べただけでしょうから、国会で宗教的宣伝をしやがったなどという無粋は言わないでおきましょうか。

ちなみにチベットを引き合いに出した稲田朋美同様、有村治子も中国好きでは人後に落ちないようです。野田聖子ファンで容貌も似通っている有村は「北京オリンピックを支援する国会議員の会」のメンバーなんだそうです。まあ、これは各党のトップが顧問になっていますから、だからどうだというわけではありませんが、大変立派なことであると、そういうようなことで。「元マクドナルド社員」なんだそうで、そっちの方がちょっと気になるんですけど。まさかバイト経験ってんじゃないだろうね。


posted by 珍風 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Tracked: 2008-04-14 11:12
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