2008年04月25日

【臍論】再論「靖国」 元官僚の靴下のにおいがする

 映画『靖国』を私はまだ見る機会はない。しかし試写を見た人は私に、日本刀、靖国神社、昭和天皇を、戦時中の日本のイメージと捉(とら)えて、それを南京事件や百人斬り事件(使用されているフィルムの信憑(しんぴょう)性にはかなりの問題があるようであるとその人は言っていた)の背景として映し出した映画だと思わせたいようだ。

 見ていない映画の芸術性については問題に出来ない。しかし残念ながらその手の才能は(他の才能も)私にはこれっぽっちもない。だから、見ても見なくても一緒なのだ。そもそも私は映画というものを見て何かを理解出来たためしがない。わけのわからないものを2時間以上も眺めているのは苦痛以外の何ものでもない。人から話しを聞いている方が楽である。そういうわけで私はおすぎが好きだ。映画を生齧(なまかじ)りしたオカマの空疎なお喋りは、それはそれで一つの芸術的な手法だと信じて疑わない。

 そして、参詣が親切にも映画を観る手間を省いてくれ、人から聞いた話しに基づいて原稿を書く機会を与えてくれたので、その出来映えに自分ながら誇りを持っているところだ。

 問題はその原稿は今書かれている最中であり、しかも書き出しののっけから出来映えに誇りを持ってしまったりすることの可否である。原稿料は発行部数の少ない新聞の方からは出せないので、スポーツ紙からの助成を受けているようだ。助成の対象は、(1)日本語原稿の企画から完成までの製作活動(2)商業的、宗教的、政治的な宣伝意図がないこと、である由である。

 まず日本語原稿なのかどうかという問題について、今お読みになっている通り、かろうじて日本語で書かれていることは間違いない。しかし元記事 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080424/plc0804240236001-n1.htm を参照して頂ければわかることだが、内容形式共に原稿料を頂くのが申し訳ないようなしろものである。もしかするとこの原稿は私が自分で書いたのではなく、書いているのは中国人であり、しかも助成金支払いが内定したあと、新入社員に書き直しさせたのではないだろうか。

 政治的宣伝意図については、『靖国』という映画への助成金支給問題を扱うこと自体政治的動機抜きということはあり得ない客観的状況である。また、南京事件、百人斬りは、それを事実としてでなく、捏造(ねつぞう)または極端な誇張として扱うこと自体が参詣の政治的宣伝意図であるのが現状である。

 ≪重大な文化庁の責任≫
 右のような条件を比較考量して見ると、サンケイスポーツの助成は正当でないと言うためには「強弁」という言葉が必要なことは国会での有村治子の「強弁」を見れば誰が見てもわかる。見てもいない映画の話しをするのは気が進まないのであるが、国会の質疑応答を読んで見ると、有村治子はジタバタと下らない質問を重ねて墓穴を掘りまくっていたが、政府側は、馬鹿がうつるといけないので、なんとか逃げ切っている。

 ただ、逃げ切ればそれで良いというものでもない。私も役人だったが、どうしてこんなアホな質問に答弁をしなければならないのかが腑に落ちない。とはいっても私の経験から言えば、自民党や右翼からいささかでも疑惑を招かないように、李下に冠を正さないぐらい慎重を期するのが役人ではないか。

 敢えてそうするのは、退官後も大手広告会社に招かれたり、このように楽な仕事がもらえるという確信があるからである。そうでもなければあんな連中のご機嫌をとっていられるものではない。

 そう言えば、文化庁の答弁は面倒になると最後には、記録映画専門委員会の判断だと言って逃げている。そのメンバーを見ると、ほとんどが映画評論家であって、映画の芸術性は論じられても(私と同じようにおすぎの芸術的価値を認めるのであれば)、政治性の観点からの政府助成の適否の判断などについての専門家ではないようである。

 ここで図らずも、「政治性の観点」というのが映画批評の範疇に入らないものだと思っている、というか、そもそも映画そのものについて何も理解しておらず、映画評論家といえばおすぎぐらいしか思い浮かばないという私の弱点が露呈した形になったわけだが、しかし、政治性の観点をもったメンバーの中には(憲法)九条の会の活動家、神社合祀(ごうし)反対運動家の名もあるが、それをバランスできる反対側の政治的傾向の映画評論家には碌な人がいなかったというのが現状のようである。

 そんな委員会では概ね当たり障りのない意見が出れば大勢が一方に流れることは自明の理である。委員会の決定は要するに当たり障りのないものなのであって、これをあえて問題にした議論が破綻してしまっているのは言うまでもない。あとは「力」の問題なのであって、腕っ節が強くて喧嘩っ早いお友達のいるメンバーが必要だった。

 そういう人選をチェックしない文化庁には監督責任があろう。例えば私などは映画を見なくてもこれだけ立派な原稿が書けるのであるから、こういう人間もいるということで、参考にして頂いても良いだろう。また、そんないい加減な原稿を、チェックもしないでそのまま掲載する(あるいは確信犯的に見過ごしている)参詣の責任が問われなければならない。

 ≪世代間の認識に差も≫
 私はここには世代の問題もあるのではないかと憂慮する。私はこう見えても1930年生まれである。人は映画だとか政治だとか言うときに一時期のゴダールを思い出すかもしれない。彼もまた1930年生まれなのだ。だからどうしたというのか。全く関係ないではないか。今日の私はどうかしているようだ。

 今度の事でも、確信犯でもなければ、役人があんな危ないことはしないと私が思うのは、その故である。

 政府が助成金を出す是非を検討するために議員が試写を求めたのは国政に責任ある身として当然である。公開前に試写を求めるのもチャンコロの反日的な映画の上映を阻止して作品をズタボロにして葬り去ろうとする身として当然のことだ。

 その結果映画館が上演を取りやめたのは、予想された影響に過ぎない。ただ、私は映画館が「上映」するものであって「上演」はしないものであることに気がつかなかったことを残念に思う。中には「放映」と言って憚らない者もいるようである。そんなことを言う者は日教組教育の下に育った世代の連中に違いない。それと共に私は映画館を経営する会社がビビッたことを残念に思う。ビビるのは外山恒一だけでよい。私はこの機会に反日映画館をあぶり出し、その館主なり社長なりの家に押し掛けて女中でもメイドでも殺して来て欲しいと思う。

 その内容の是非については、見る人の政治傾向によって異なろう。ただ、その内容が、政府が国民の税金を使って助成すべき映画かどうかを判断して欲しい。おそらく結論は自明の理であろう。が、人の政治傾向によっては自明の理がてんで理解できない分からず屋もいるようだ。おかげで私も無責任な言説を垂れ流して小遣い稼ぎが出来るというものだ。

 そしてこれを機に見ていない映画の評論家として唯一無比の活動を開始しようと思っているので、「キネマ旬報」あたりに連載を持たせて頂くことを期待する。


posted by 珍風 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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