2008年04月26日

【腥論】再論「靖国」 ノンフィクション作家・上風特高

 ■中国人イジメか
 話題の映画「靖国 YASUKUNI」を私はさすがにいくらなんでも見た。

 日本弁護士連合会主催で試写会が行われるというので、往復はがきで申し込んだら「当選」の連絡があったのだ。無理矢理に試写会を開かせて強引に見るのとはずいぶん違うと思う。

 弁護士会としては表現の自由が侵害されてはならぬと企画したものだという。たしかに乱暴なお兄さん達のお友達である「伝統と創造の会」にクレームをつけられた映画だから、ことによると死人が出るようなトラブルを警戒して上映を自粛した映画館がある。本来なら今頃はとっくに公開されていたはずなのだ。

 会場につくと入り口で民放の男性から、何故この映画を見にきたのかとコメントを求められた。すかさず「見たいと思ったから」と答えてすり抜けたが、見ないうちから「感想」のようなものを書く人がいる一方で、何故きたかと聞かれても見ないうちは答えようがないという用心深い人間もいるのだ。そういうことは映画の内容を見た上で、多少カッコつけて答えるのが表現の自由というものだろう。正直いって別段そんなに見たかったというわけでもないのだが、「当選」したわけだし、その背後には「落選」した人が大勢いるのだから、そんなことは言うべきではなかろう。

 結論からいうと、この映画は私には老人への言論イジメにさえ思われた。いまも名刀を打ちつづける90歳の矍鑠(かくしゃく)とした刀匠の応答が柱になっていて、色々と都合があって答えたくないことを強いられている印象を受けたからだ。刀匠がキレて刀を振り回し始めたらと思うとハラハラドキドキのしどおしだ。

 画面はまず敗戦の日に旧陸海軍の軍服を着て靖国に参拝する人々の様子から始まるが、それが終わると監督が現れる。出たがりの監督である。稲田朋美議員は、中国人のくせに「日本映画」を作るのはどんな気持ちか、政治的な映画を撮るとは何事かというような質問を、たどたどしい日本語で聞く。監督は穏やかな表情ながら無言であった。

 かつて思っていた趣旨と違うという横槍が奥さんから入ったから、観客には議員の意図が手にとるようにわかる。有村治子議員は「覚えていることだけでもいいから」と執拗(しつよう)に刀匠に問いかけたが、刀匠は淡々として最後まで見事に棒読みを貫いた。あまり覚えは良くないようだ。

 ≪無言の老人を執拗に≫
 これでいい、長々とカメラを向けられながら一言も口にしなかった刀匠を映し出しただけでも、この映画は上出来だと私は好感を持った。

 これ以上は刀匠にとっても気の毒だ。映画だけ見ていれば立派な人かと思う観客もいたに違いない「無言の老人」のはずが、公衆の面前に引きずり出されて、映画にクレームをつける様を中継される姿はまるで別人のようだ。刀匠としては相当のイメージダウンになったのではないか。

 画面は変わって硫黄島の映画を見て頭が狂った6人のアメリカ人が、靖国神社に星条旗を立てようとして中国人にはがいじめにされて、「とんでもない侮辱だ。こんなことをしたやつは地獄に落ちるだろう」と群集の声が高まり、追い詰められたアメリカ人が例によって銃を乱射する様子など、息をのむ場面がつづく。

 そのあと監督は刀匠を訪ねて、日本刀を銃と比較して「日本刀は戦場で役立つのか、百人斬っても刃がこぼれたりしないか」などというまことに答えにくい質問をした。百人斬れるとも言うのはマズい。かといって斬れないと言うのも刀匠のプライドが許さないというわけで、ここでも刀匠は答えることなく、身辺の藁(わら)を指して「濡れた藁束で試し斬りをしている」といい、念を入れて「藁の芯には青竹を入れる」と補足した。

 アクション映画に登場する日本刀による斬殺ということが実際に可能であるらしいことがわかった監督は喜んで「竹を骨にするのですね」「人の骨として」とダメ押しするように繰り返す。日本刀をアクセサリーだとでも思っていたのだろうか。刀匠は苦しげに「昔は口うるさい女房やペラペラお喋りな婦人議員を斬ったらしい」とだけ呟いた。「男」を感じる一瞬である。

 ≪肝心な問いに答えず≫
 肝心な点は日本文化の粋を殺人のための武器にみるというところであろう。これではまるでフランス文化の精髄はギロチンだと言うのと同じことである。フランス人が聞いたらただでは済みそうもないが、監督は追い討ちをかけるように、戦場で何人斬ったと競い合う話を聞いたことはないかと問いかけた。画面に現れた“百人斬り”を連想させたことはいうまでもない。わざわざイナバ物置の例を引くまでもない。日本の「ものづくり」は百人が目標なのだ。刀匠は「そういうこともあったかなぁ」というのが精一杯である。これではまるでそういうことがあったかのように聞こえる。もちろんそういうことはあったわけだ。

 刀匠が余計なことを口走るのはこれだけではない。監督が3度目に刀匠を訪ねたとき、刀匠は監督に「あなたは靖国問題をどう思うか」と問いかけた。これは刀匠の方に言いたいことがあったのだから当然のことながら監督の答えはなく、刀匠が語るにまかせることになるが、刀匠はまさに靖国神社の関係者なので、どちらかというとお金を払って参拝する人の見方であることは言うまでもない。「私の考えは小泉首相と同じです。国のために命を奪われるビンボー人が野垂れ死ぬ間際に二度とこの国には生まれたくないと祈るのもまた愉しからずや」といっている。手に職があると老後も安泰であろう。うらやましい限りである。終わりに近づいたころカメラは仕事場の隅を写した。好きなカセットを聞かせて欲しいという注文に応えて刀匠が流したのは、オリンピック開会宣言など昭和天皇の肉声集である。刀匠は玉音をBGMにして仕事の調子を上げているらしい。不敬なんだか無邪気なんだかよくわからないが、このあと刀匠が「お茶も差し上げませんで」といったのを、帰って欲しいという日本的シグナルだろうと思った監督はこの場面を最後の方に持って来たわけだ。監督の日本文化理解は私などよりも深いようだ。

 靖国問題への賛否をならべたテレビの討論会さながらに観客を興奮させた点で、映画は成功したといえよう。私にとっては映画よりもテレビの方が面白いのだから、テレビのように面白い映画が良い映画なのである。こんな私に映画について書けという参詣も参詣だが、書く方も書く方だ。もっとも私が出演した時は興奮したのは私の方で観客はドッチラケだったと聞く。やはり今度からテレビに出る時はミニスカにしようかとも思うが、刀を文化とみるか武器とみるかはズレたままである。しかし考えてみれば刀は「人斬り包丁」である。一方で普通に家庭で使っている包丁を「文化包丁」ともいうのであるから、ことによると「文化」とは人殺しの方法のことなのかも知れない。

 最後に刀匠が声を張り上げて歌った詩吟の一節が、
 「♪容易に汚す勿(なか)れ 日本刀」だったのは、なんとも皮肉であった。これは水戸光圀の作である。
 
蒼龍猶お未だ雲霄に昇らず
潜んで神洲剣客の腰に在り
髯虜鏖にせんと欲す策無きに非ず
容易に汚す勿れ日本刀

「髯虜」が監督のことを指しているのかどうかはわからないが、なんでも「鏖」にするそうである。物騒な話しであるが、「策無きに非ず」であるから無闇矢鱈と刀を振り回したりしないでもうちょっと辛抱しようと、そういう詩なのだ。要するに「そのうちやっつけてやる」という意味なのであるが、これが「皮肉」なのはあえてこの吟詠を作品に含めた監督の意図なのであった。それがわかっていないらしい私は日本文化の理解において中国人にも劣る大馬鹿者であることがバレたわけだが、そんなことは皆さん先刻ご承知のはずだ。


http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080425/tnr0804250256000-n1.htm


posted by 珍風 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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